3-6.予想外の告白
ほんの少し前まで、この国には、じぶんよりも不幸なひとなんていないと、確信していた蛍の方だった。
ところが、彼女の悩みの種であった在原中将業平のことを知ると、その確信は疑いへと変わって行った。
一見すると、在原中将は憧れの的だった。
人の心をとろかしてしまうような美貌に、安らぎのある声や、細やかな感性、さまざまな物事に対する独特の意見を持ち合わせていて、近くにいるだけで退屈することをゆるさないような魅力にあふれた人物なのだ。
それでも、在原中将はいつもどこか物足りない感じで、皮肉っぽかった。
何が不満なのか口にしたことは一度もなく、多くの女性たちと深い友好関係を築いているにも関わらず、そんなそぶりは観せない。
蛍の方は混乱しはじめた。
この貴公子は可愛らしくて、予測できない、めったにいない性格で、なおかつ本当にきれいだった。
彼女は飽きることなく見つめていたけれども、じろじろ見られても少しも苦にならないらしい在原中将の顔立ちは、寂しげなのに明るく、子ども気があり、
髪は温かみと柔らかのある黒髪なのが、どうしようにもなく色めいていて、今まさに大和絵の中からの抜け出してきたような印象を抱かせた。
北朝風の絨毯の上を進んでくる微かな足音が背後から聞こえ、蛍の方はびっくりして振り返った。
伊勢の更衣らが、白桐の大卓を運んできたのだった。
青磁の器の湯気から、なんだか甘くて青々しいような不思議な草葉の薫りがした。
「これは団茶と申します」 と伊勢の更衣がこっそり教えてくれた。
「蒸した茶葉をすり鉢で細かくし、塩や香草とまぜてのりで固めたものを湯して飲むのです。唐の国では、高価な飲み物として帝に献上されるものもあるようです。もっとも、風流なもののつねなのでしょう、わたしは余り美味しいとは思いません」
二条の方は、背筋を伸ばして、品好く歩いて行き、熱い湯気の立つ例の器を中心にして、各種の米菓子や桃夭の甘煮などが並ぶ大卓の方へ向かった。
二条の方は、舶来物には目がないのだった。
横向きの姿が、客間の壁布を背景にしてくっきり浮かび上がったので、
蛍の方は、つい幅広の肩と豊かな胸元に続く胴回りの姿態に見惚れてしまった。
明るい色合いの衣装の裾が、優雅に引きずられて、まるで身体の続きが床の上までどこまでも伸びているみたいだった。
――やはり天女のような方だ、と蛍の方は思った。
二条の方はいま、一人ひとりの傍らに寄っては、華やかな仕草で飲み物を勧めていた。
蛍の方が視線で追っていたところへ、目立たないようにして在原中将が呼びかけて言った。
「少しだけ一緒に出ませんか?」
二人は客間を出て、庭に面した通路に立った。
大和の名所である飛鳥川を模していて、源左大臣によって作庭の指示がなされていた。
「重ねがさね突然お呼びだてして申しわけありません」 と在原中将業平は云った。
「貴女の困惑と退屈は見て理解しておりましたが、どうすることも出来なかったのです。しかし、このようにお話する機会を得られて良かった――必ずやお伝えしたいことがあったのです」
雲井に隠れていた月が姿を現すと、在原中将の顔をほの白るく照らした。
「本日の夕食会は、実際のところいかがでしたか?」
「とても素晴らしかったです」
蛍の方は答えた。
「わたしの知らない知識や食事、そして普段生きている限りでは決して出会うことのできない高貴な方々とお話する機会を得ました。このような会にお招きいただき、改めて感謝いたします」
「しかし、団茶は飲めたものではなくありませんでしたか。なぜ二条の女君は、あんな青くさいものを好まれるのか、わたしは理解に苦しみます」
「たしかに、たいへん大人な味がいたしました」
「あの方は、めずらしいものであれば何でも構わないのです。じぶんのちょっとした好奇心や冒険心を満たしてくれるものを、つねに求めておられる。そして、本当に危険なことはそうそうなさらない。案外、道徳心のある方なのです」
蛍の方は、かつて二人が深い恋の仲にあったことを思い出した。
――そう、二人は愛し合っていたんだ。
胸の中が、今まで感じたことがないような苦しさに襲われて、気が付くと非難めいたことを口にしていた。
「それでは御二人の恋愛は、真面目なものではなかったのですか?」
「いえ、本気でした」 と在原中将は答えた。
「わたし達なりに。けれども、二人は少々若すぎたのです。わたし達はじぶんの運命を受け入れられず、相手のことを愛しているようで、実際はどうしようにもなく決められた自らの運命に対して、それぞれが勝手な戦いをしていたのに過ぎなかったのです」
こう言い切ったとき、在原中将はあまりに悲しそうな顔㒵をした。
諦めることだけが残された選択肢なのだということを、今でも認めることのできない、そんなじぶんへの憐れみの表情だった。
「申し訳ありません」 と蛍の方は言った。
「出過ぎたことを口にしてしまいました」
「いえ、そうではありません。貴女を前にすると、わたしはどうも嘘をつくことができないようなのです。それに、わたしも今から貴女に出過ぎた真似をしようというのですし、気になさるべきではありません」
在原中将は、蛍の方に向き合うと、こう続けた。
「わたしは貴女のことが、どうしようもなく好きなのです。愛しております。長岡の地でお逢いしたその日からずっと貴女のことを忘れた時はございません」
あまりに急な言葉に、蛍の方は知らないうちに袖手でじぶんの顔を隠していた。
「貴女がわたしのことをどのように思っておられるか、もちろん知る手立てはありませんでした。ですが、貴女にどうにかしてお会いしたかった。どんな願いでも叶えて差し上げたいのです。夕食会にお招きしたのは失敗だったのでしょうか。もう一度、貴女を楽しませるだけの機会をいただきたいのです」
「なぜ」 と蛍の方は言った。
「なぜ、そうまで仰ってくださるのでしょうか?」
「愛しているから、これでは不十分でしょうか」
――倒れてしまいそう、蛍の方はそう思った。
じぶんのおかれている状態が信じられなくて、ひたすらに戸惑うしかなかった。
相手と顔を合わせることなんて絶対にできない。
嬉しさと驚き、そして少しの不安が入り混じった彼女の胸の内は、かき混ぜられて、突き上げられて、もう苦しくなってしまいそうだった。
どう返事をするべきなのか、どう振舞うべきなのか――
蛍の方には、この場における正しい答えがなんなのか全く以て思い付かなかった。
「業平さま、」 と蛍の方は云った。
「わたしはどのようにすれば良いのか、ちっとも分からないのです。わたしも好きなのです、すごく好きなのです。だから、また必ず貴方さまに逢いたいです。必ず相応しい返事をしてみせます。それで、今夜はお許しください」
彼女はそう言い切ると、とにかく逃げ出していた。




