3-5.奇妙な議論
在原中将の言葉に一時場が静まりかえったような気がした。
客人のほとんどがどこか神妙な面持ちで、
宮中の政治に関わる問題だと、蛍の方にも分かった。
藤原摂政基経にまつわるよくない噂話は、
都の中心から遠く離れた長岡の地にも伝わっていた。
先代の摂政である藤原良房が病没なると、養子の基経卿がその地位を継承した。
幼少の帝を補佐する名目のもと、権力をほしいままにし、
敵対する氏族――あるいは明確に基経卿のことを攻擊せずとも、彼から敵対すると見做された氏族たちは、さまざまな謀略によって貶められているのだという。
長岡での政変以来、慣習として都で死罪となされることはなかったが、彼らの闘争は、そのぶん陰湿で悪質なものになっていた。
摂政基経の実妹である二条の方が、実兄を目に見えて非難するようなことはなかったものの、自らすき好んで身内を話題とすることはほとんどなく、それだけに両者の間にある溝縁の深さが理解されるのだった。
「にしても、業平殿は、」 と紀雅楽頭有常は、ふいに口を挟んだ。
「もっと音楽にも興味を持っていただきたいですね。今晩の演奏会は、この上ない出来映えでしたのに、それをすっぽかして狩猟に出掛けられてしまうなんて。わたしは少々怒っておりますよ」
人びとは、紀雅楽頭の悪気のない、あまりに意外な言葉に噴き出してしまった。
「有常さま、」 と西京の女君は言った。
「わたしは心の底から楽しませていただきましたよ。貴方さまの横笛は、耳ばかりでなく目にも素晴らしいものです。一つひとつの指使いがていねいで、意識が行き届いているのが分かりました」
紀雅楽頭は、大きく頷いた。
「貴女は音楽が好きなのですね。なんと喜ばしいことでしょう。同じ思いを共にできる人とお話できることは、わたしにとっていちばんの幸せなのです」
「ええ、大好きです」 と西京の女君は応えた。
「有常さまの演奏を聴くたびに好きになっているのですよ」
ああ、嬉しい、嬉しい、と紀雅楽頭はつぶやいた。
紀氏の娘である和琴の方は、あからさまにうんざりした様子だった。
「わたしのお父さまっておかしいでしょう?」
反語めいた調子で蛍の方に云った。
「じぶんの興味があることにしか、関心を持たなければ、気を使うこともない。これでは母上も逃げ出したくなるものよ」
和琴の方にとっては、なぜ父親が源左大臣や在原中将と親しくすることができるのか、永遠の謎であった。
彼女の母親は、数年前のある日、出家することを幼い娘に告げており、
その出来事は小さな心の傷として残り続けていた。
父親は、涙を流しながら、和歌をよむばかりで、決して引き留めようとはせず、
和琴の方は、そうした弱々しい態度を許すことが、いつまでも出来ないでいるのだ。
「ところで有常殿は、」 と在原中将が口をひらいた。
「そのいいぶりですと、わたしには音楽が分からないと思っておられるようですね。これは聞き捨てなりません」
「あら、事実ではありませんか」 と二条の方は云った。
「貴方の称賛なさる音楽は騒がしいものばかりで、聴いていると疲れてしまいます。歌詞もみだらな節付けをして、孔子の曰う"鄭声"とは、このことではありませんか」
「たしかに、"鄭声"とはなかなか上手いことを仰る。孔子は鄭国の歌謡が乱れていたことから、政治の腐敗を推しはかったのだという。だとすれば、我が国の音楽が騒がしいものばかりというのは、何か考えるべきところがあるのでしょう」
「音楽とは、礼制に通じると申します」 と和琴の方が、割って入った。
「人心が正しければ、音にも必ず秩序があり、正しくなければ、奢侈となります。国に乱れがあっても、心は正しくあることはでき、孔子は"隠士"として身を清く保つことを子弟に語っております」
蛍の方は、じぶんより年若い少女の教養の深さに驚いた。
「紀の姫君は、なかなか道家の教えにも詳しいようでおられる」 と在原中将は続けた。
「しかし、歌謡や音楽というのは、それほどに難しいことなのでしょうか。有常殿が、日頃から和歌について言われる"言葉余りて意足らず"とは、このことなのです。わたしはひどく心を動かされるものでなければ、それを評価することはありません。どうやら、どこまでも歌謡というものが好きなのでしょう。この時代には、軽薄な歌謡がたくさんあったとして、しかし、それは情感のこもった素直な軽薄さなのです。わたしは人間の情感を、このうえなく愛おしく感じ、大切にしたいと思っているのです」
「わたしはそのことについて思うところがありますの」 と二条の方は云った。
「わたしにとって感情は、なんでも招き入れることができるもの――ただ、心に残ることはあまりないのです。お分かりですか?」
「いや、もう少しうかがいましょう、姫君」
「つまり、皆さまと同じようにわたしに物事を理解させたいなら、知性に訴える前に、その心に呼びかける必要があるのです。感じよく見せてはくれないものに興味はありませんの、こちらは心を通じて何でも見るのですから。人によって感情は物事を見えにくくしてしまうと言うけれど、わたしにとっては明るく照らしてくれるものなのです。ちょっとしたひらめきや影響のされやすさは、人を豊かに魅力的にしてくれるとお思いになりませんか。天竺の西域では、琵琶を鳴らしながら旅をする僧がいると聞きます。きっと彼らなら、わたしの言いたいことを分かってくださるでしょう」
「感性豊かなひとならば、」 と和琴の方は云った。
「そのように物事を考えて生きて行けるのでしょうか?」
「ええ、もちろん」 と二条の方は優しい声で応じた。
「ただ、頭を働かせることを止めてしまっている場合もありますし、それに生き方が定められていて、一方から他方かへ引きずられていく場合もありますのよ」
「これは皆さま、二条の姫様には敵いませんね」
紀雅楽頭は云った。
「なにせ誰も姫様の意見を否定することなどできないのですから」
――ここにいる人たちは、何かしらの運命に引きずらて不幸をこうむっているのだ、そう蛍の方は思った。




