27-1.想いの痕跡
家に帰ると、蛍の方は宣言した。
「数日のうちに、また二条邸のほうに帰りたいと思います。支度をしましょう」
従者の男性たちは、これを歓迎した。
さっそく手紙をしたためたり、郡司の家へ挨拶に赴いたりした。
「急かせてしまい申し訳ありません」 と在原中将は云った。
「都の政情がどうも不安定で、なるべく早く戻ってしまいたいのです」
蛍の方は、唐菓子を口にしながら同意した。
夕飯のために食器を並べたところで、井筒の姫君は姿を見せない。
一人の従者が言った。
「おそらく買い物でしょうか? 少し前に商人が宣伝して歩いていました」
蛍の方は、特に驚かなかった。
在原中将のほうに振り向くと、視線が合って、彼から申し出た。
「夕飯は久しぶりに腕を振るいましょう。探しに行かれると良い」
蛍の方は、桂川沿いを次は北へと進んだ。
身体は疲れ切っているはずだが、気だるさが妙に心地よかった。
ずいぶんと早足で進んだので、商品が片付けられているところに間に合った。
商人は、娘さんは来ていない、と言った。
やはりと思う一方で、少しだけ嫌な予感がした。
――暗くなる前には、再会しなければ、と考えて、蛍の方は歩き始めた。
花ざかりの森の中に入って、一面に広がる穏やかな影、辺りを漂う涼しさ、そして鳥の歌声に包まれると、自然の美しさとともに、言い様のない気味の悪さや切なさを感じた。
幸福感と奇妙な感慨が入り混じる空気を、一度深く吸って吐いた。
井筒の姫君が木陰の間をくぐって、どこか遠くへ去って行く姿が、どこにでも見えるような気がした。
自然には、どんな感情もある、と何となく考えた。
森を抜けたとき、蛍の方は行き先に迷った。
井筒の姫君が行きそうな場所が思いつかなくて、つい立ち止まった。
身体が落ち着いてしまうと、胸の動悸が激しくなって、息苦しいと感じた。
――わたしは想像したよりも焦っている。
井筒の姫君への複雑な想いは、いまだに消えていない。
再会したところで、何と声をかければ良いのか判らない。
感謝の気持ちと友情、そして哀れみと愛着が、蛍の方の身体と心で、独特の息の合った感触を生み出していて、どう形容すべきなのか答えが出せないでいる。
憧れに魅入られたあの娘は、砂地に見つけた小さな泉のように、蛍の方を癒すとともに、水面にはいつでも彼女の似姿を映した。
一度、家に戻って見ると、井筒の姫君はまだ姿を現していなかった。
「井筒の姫君が外出したのは、確かですか」
「はい、間違いありません」
従者の男性は、在原中将と顔を見合わせると、二人で北と南とに別れて、探して歩くことにした。
蛍の方も、暗くなって行く景色に不安が高まって、また外へ出た。
西に向かって進んで行くと、川沿いに下って行く道の曲がり角で、飛鳥朝の時代によく見られた古い伽藍を備えた廃寺が、うずくまるみたいに夕闇に浮かんでいた。
名前も知らない旧跡に、蛍の方は何か知ったような感覚を抱いた。
すでに忘れてしまっただけで、過去に来たことがあるのではないか。
蛍の方は、予感が働いて、思い出の影を追いかけると決めた。
逃げ込むのに、この上なく相応しい場所だ。
日が暮れかかっていたので、敷地の中はとても暗かった。
入口の近くに誰かが灯した火を貰って、蛍の方は堂内へと進んだ。
人の気配はせず、誰にも管理されていないことは明白だが、通り路になる場所には、ほこりも蜘蛛の巣もほとんどなかった。
堂内に放置された仏像の前には、いくつか供え物があって、僅かな信仰が残されていた。
蛍の方は、仏像の包み込むような微笑に、手を合わせると、暗がりに視線を向けた。
――見守っていてください。
蛍の方は、そう願って、建物を後にすると、敷地内を順番に巡った。
宿坊まで歩いても、井筒の姫君の姿はなかった。
間違いだったのだろうか、と思って、部屋を出ようとしたとき、背中の方から水の音がしたような気がした。
手水や、湧き水や、雨漏りの類ではなく、深くに響くような水の音――
蛍の方は、もう一度、闇の奥に目を凝らすと、扉の隙間から光の溢れるようなところを見つけた。
宿坊では、料理をするために、勝手裏に井戸を備えているはずだ。
水源豊かな長岡ならではの暮らしを、蛍の方は、あやうく忘れかけていた。
そっと扉を押し上げて、敷地の片隅を覗くと、一人の女性が座り込んで、顔を両手に埋めていた。
服装から髪型まで、ずいぶんと汚れて、小さく見えたけれども、よく知った人だった。
――どうしてこの井戸を忘れていたんだろうか。
二人の肩が触れた。
ほかには誰もいない。




