3-4.在原業平の誘惑
「退屈だなんて、そんなことは」 と蛍の方は、否定した。
貴公子は、唐風の椅子を引き寄せて隣に座った。
蛍の方には、この人物が長岡の思い出の青年であると、すぐに分かった。
優しげでありながら男性的な、つい人を惹きつけてしまう罪深い声――
この声と、どこか寂しそうな瞳子の思い出に責めさいなまれて、一度はあってはならない決断をしようとしていた蛍の方だった。
そして、在原中将は話し出した。
蛍の方にとっては、一瞬のことで、篝火が風に触れた途端に炎がぱっとあがるのと同じだった。
まるで前もってお互いの意見や感じ方を伝えてあって、二人が同じ性格や教養、趣味を通じて分かり合う用意ができていたような、出逢うことが運命づけられていたかのような時間だった。
在原中将のあしらい方が上手なせいもあったかも知れない。
こちらの言葉に耳を傾け、適度な相づちを打ちながら、言おうとしてることを察して答えてくれる。
これが当代一の歌人とも評される在原中将の社交術だった。
和歌というのは、一人で詠むものではなく、相手の言いたいことを知りながら、それに応じたり、あるいは背いてみたりして、じぶんの気持ちを伝える技術のことなのだ。
蛍の方は、じぶんにぴったりな答えを返してくれる相手を見つけた喜びで、すっかり自信家のように振舞っていた。
こんな親切を受けたことで得意な気持ちになり、また自分のために披露してくれている清らかな身のこなし、女性たちをとりこにしてしまうような彼ならではの魅力に圧倒された。
蛍の方は、じぶんの感性を理解してもらおうと努力して、どうにか人には分かりずらい繊細さのようなものを、目の前の高貴なひとに伝えられないか、とにかくいろいろとしゃべってしまった。
繊細さこそが、今は亡き母親がよく褒めてくれた、蛍の方の唯一ほこれる美点だった。
「貴女とお話していると楽しくて仕方ありません。そして何よりも可愛らしい」 と在原中将は言った。
「再びお会いすることができて本当に良かった。突然のことで驚かれたでしょう。昔にほとんどすれ違っただけに過ぎない男から呼びつけられて。これで不安にならない方はおりません」
蛍の方は、体中が熱くなるのを感じながら、思いきって言った。
「わたしは長くあなたを忘れることができないでいました。しかし、あなたがあの在原中将であったことは、存じ上げなかったのです。わたしの知るかぎりあなたは……」
相手はさえぎった。
「色好み、都に危険をふり撒く男――そう仰りたいのでしょう? もちろん、気に入った方であれば、誰にでも喜んで尻尾を振りましょう。それは皆さまご存知ですし、わたしも隠しだてはいたしません。でも、」
在原中将は、声音を低くして続けた。
「今におわかりになるでしょうが、わたしの心は誰にでも公平ではありません。大切な友人をなくさないように、仲良しのまま、一度離れてしまったとしてもまた友人に戻れるように、全員をわたしの周りに引き留めておきたいと願っているのです」
そういって、含みのある表情を見せた。
――つまり、こういうことなんだろうか? と蛍の方は想った。
――落ち着いて下さい。あまり自惚れてはいけませんよ。勘違いもなさってはいけません。あなたも他の親愛なる友人たちの一人なのですから。
彼女は少ししょんぼりして云った。
「そうですね。貴殿の親切をいつまでも忘れないようにいたします」
在原中将は、夕食会での話題が蛍の方のものになるように道を拓いてくれた。
二条の方はそれに乗った。
まず、いろいろ褒めて、蛍の方が恥ずかしそうにしながらも、喜んでいるのを診てとった。
次いで、じぶんが出入りするさまざまな社交の場で、この夕食会に参加している客人たちが、どのように評されているのかを話し、蛍の方が自然と輪の中に入れるように工夫した。
二条の方は、人が他人の生き方や好みについて、どう思おうと全く意に介さないふうを装いながらも、実は蛍の方のことを気にかけないではいられなかった。
二条の方がお世辞混じりに描き出した在原中将の肖像は、頼りないのに自立していて、学識はないのに頭が良い――
とにかく変で魅力的な男性、素晴らしい友人たちに囲まれながらも完璧な社交家であり続ける人物というものだった。
蛍の方は、反対の意を示すために時おり微笑んだり、憧れの人への称賛が満たされないことを表す言葉を挟んだりしつつ、高貴な女性が告げる詳細な出来事の数々をとてもおもしろく感じた。
その巧みな話しぶりには、更なる興味への要求をかき立てる力があったのだ。
「しかし、弓飾りを差し上げた途端に、そのまま狩りに出掛けられてしまうとは、」 と源左大臣融は、話題の中心となっている友人に云った。
「結局はただの子どものままのようだ。まるでお転婆な女の子と何も変わらない」
そういうとともに、在原中将がいかに都の貴族のなかではめずらしく、真に民と親しもうとしているのか、褒めそやす一文を云い添えた。
在原中将は嬉しいことがあっても、憂晴らしをする時であっても、とにかく狩猟をしてばかりなのだ。
近隣の山野には、顔なじみの猟師がたくさんいて、捕えた猪肉や鹿肉はみんな分けて食べてしまうらしい。
源左大臣の称賛は、もちろん都振りの皮肉だったのだけれど、
蛍の方には、この好男子にはこの上なく相応しい趣味だと思った。
ところが、源左大臣の賛辞には、やはり無理があって、
在原業平はじぶんが愚か者ではないことを示そうとした。
「それはもっともだ」 と在原中将は云った。
「正直にいえば、わたしは狩猟を好むのか、それとも山野の人びとのことを好むのか、よく分からないでいる」
そして、こう付け加えた。
「山野の民を愛さずして、狩猟を愛することなどできるだろうか?」
なんとも挑戦な言葉であった。
天武の帝が、飛鳥の令と戸籍を作られてから、公達の間では、土地を持たない浮浪の民、血肉を厭わない狩猟の民に対する嫌悪感のようなものが、言いようもなく存在した。
彼らもまた天下の民には相違ないのだが、宮中では彼らの存在は見えないものとされており、知るところといえば、"竹取の翁"がせいぜいだった。
それを在原中将は愛すると言い切ってみせた。
冗談めかした物言いのなかに、確かな意思のようなものを蛍の方は感じ取った。
「ときに、」 と惟喬親王は云った。
「公卿の者たちと言葉を交わすより愉快である場合がある、というのか」
「それはどうでしょうか、小野宮さま。詳しくは貴方さまの方が、ご存知でおられましょう」
恬子内親王は、貴人らしい抑制を以って微笑んだ。
「業平、そう基経卿をいじめられては、二条の姫君に嫌われてしまいますよ」
藤原摂政基経は、二条の方の実兄であり、親王とは浅からぬ関係があるようだった。
「それは違いありませんね」 と在原中将は云った。




