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こんとらくと・きりんぐ

うまい話(こんとらくと・きりんぐ)

作者: 実茂 譲

 作界さかいは水のまちだ。

 縦横に水路が走り、盛り場に突然大きな池があったりする。

 水は飲むだけではない。

 物や人を運ぶ舟もあるし、食い詰めたらメシを獲れる。

 作界というのは運不運がぐらぐらしている土地柄で、昨日まで大尽だったものが、次の日には財ことごとく消えてふんどしまで取られ、頭の烏帽子だけになることもある。

 だが、そこに水が走っていれば、とりあえず飢えることはない。小さなハヤや手長えび、海に近ければ、アサリやハゼ。もし鯉や黒鯛カイズが取れれば、ちょっとした銭になる。

 作界の商人は水路で裸になって魚を追っている人間の増減を見て、景気を測る。

 ひとの不運で銭の出来を測ろうとするのは作界商人のさがか、人全ての性か。

 さて、いま、尼削ぎショートヘアの少女、または長髪の少年に見える殺し屋が、腰まで水に浸かっている。

 眼光を封ずるごとく目を閉じ、幽明の境に臨むような静かな心をもって、息を静かに整えるのは武者修行のようだが、殺し屋ももちろん魚を取りにここにいる。

 突然、カッとその目を見開くと、その細くもたくましく鍛えた腕がまるで竹のしなるように強く水を切り、そのかいなに挟まれるは三尺三貫を超えた太った鯉、その鈍色の鱗に日の光を滑らせている。

 その日の食事と金銭を約した水路の主を抱えて、石垣の登り口までよろよろ歩くが、苔にくるまれた石を踏んで、ご破算。

 げほげほと石垣にしがみつき、水の上おかによじ登ると刀も衣も水でぐっしょり、ほどほど長い髪が顔の前に海藻みたいにかかって、口のなかに入ってきて、それを噛んだら嫌な感触。もちろん、鯉には逃げられた。

「ぼくも修行が足りないなぁ」

 もっと足りないのは銭である。

 殺し屋はうまいものが好きだ。だが、今は何でもいいから腹を満たすことが大事だ。空腹はよくない。空腹だと体が縮む。少なくとも大きくならない。すると、どうなるか?

 長い髪を後ろに流したまま歩く彼へ突っ込んでくる男がいまひとり。その荒い息遣いで、相当の気狂いと分かる。

 後ろに残した左足を軸に体を翻し、拳をその顔の中央、鼻柱にぶち込む。

「ぎゃああ! 何しやがる! このチビ!」

「おお、ぼくをチビ呼ばわりするの? 死ね」

 そう言いながら、刀をすらりと放つと男は鼻から水樋みたいに血を流しながら逃げていく。

「ふん」

 斬るつもりはない。値段が下がる。

 刀の値段ではない。殺しの値段だ。

 タダで人を斬ったら、とことん値切られるのが殺し屋稼業の困るところ。

 そもそも作界という土地はよそと比べて、人の命は安めである。

 ぐううぅ。

 腹の虫が鳴く。

 空腹だと体が縮む。少なくとも大きくならない。すると、どうなるか?

 今みたいなことが起こる。チビ呼ばわりされる。

 ずぶぬれの小袖と袴、長手甲に腕を通し、ぐっちゃりと濡れた感触が両腕を不愉快に締めつけるなか、殺し屋はおれをなめるなよという視線を、蔬菜そさいを吊るす長屋や幼子を背負った好々爺に放つ。できることなら、黒絲威くろいとおどしの鎧武者とか黒雲に隠れ稲妻を握る雷神とかにおれをなめるなよと睨みつけたいが、いないので、妥協する。

「へちっ」

 いまのはくしゃみである。殺し屋は、こう、ぶあっくしょい!と男らしくくしゃみをする鍛錬を積んだことがあるが、その結果、『へっくし』が『へちっ』に悪化した。あの三十ぴき(だいたい三千円)で男らしいくしゃみができると請け負った男のことは今も探していて、見つけたら頭から尻まで真っ二つに斬ってやろうと思っている。

 男らしくくしゃみをすることにも銭を払い、修行が必要なのに、往生丸のようなガサツの生まれつきは何の苦労もなく、

「ぶあっくしょい! チキショー、テメー」

 と、くしゃみができる。生まれついてのものにありがたみを抱くのは難しい。

「おお、人斬り、帰ってきたのか」

 ふたりで住んでいる二軒続きの長屋には往生丸が先に帰っていた。

 六尺を優に超える大兵で、いまはどこぞの寺坊から盗んできだ古畳の上に横になっているのだが、後ろにまわして枕にした腕は筋肉でふくらんでいる。剣豪型の理想体型をしているが、本人は盗人である。

「なんだ、お前、そのずぶ濡れ。鯉でも取り逃したか?」

 それがたまらなくうれしいみたいに大いに破願させてきた。往生丸の顔は目鼻のつくりひとつひとつが大きいが、その表情の動き方は子どもっぽい。

「滝に当たってきただけだよ」むすっとして殺し屋はこたえた。

「刀差して、手甲つけたまま? よせよ。お前に銭がないことはおれがよく知ってる」

 そう言いながら、往生丸は懐から粗布に包んだ銭を、まるでこんなものは何でもないんだと言わんばかりに乱雑に落とした。もちろんさしが差してあるからバラバラに転がることはない。

「おっと、ついうっかり一貫文を落としちまった。……おい、何、刀抜いてるんだよ?」

「お金は食べものと一心同体。食べものをおろそかにするものを見ると誅したくなるんだ」

「おいおい、おれだって額に汗して働いたんだぜ。まあ、盗みなんだがな。これがまたちょろい盗みでな。それを話そうと思って、お前を誘いに来た。どうせ鯉には逃げられたんだろ?」

「だから、滝に当たっていたんだってば」

「作界に滝なんかねえって。いいか、この往生丸さまが、世の理を教えてやる。カネがなきゃ、メシが食えない。メシが食えないとどうなると思う? 縮むんだぜ、……その背丈がよ」

「ぐずぐずしている場合じゃない。はやく出かけるよ」


 右隻四扇目のある通りに獣肉を調菜する店がある。

 店先に毛のついたままのイノシシの足を数本吊るし、壁に開けた煙逃がしの穴からは生臭い煤がこびりついている。

 店のなかでは逆さにした桶に座った諸肌脱ぎに侍烏帽子の料理人が鉈をふるって、皮を剥かれたアナグマをぶつ切りにしていた。

 往生丸と殺し屋は小上がりに座っていた。

「それは本当なの?」

「本当だって。それで一貫文(だいたい十万円)だぜ」

 ふたりのあいだでは割いたカワウソとゴボウが煮立っている。今日のお勧めはなにかときくと塩漬けしたカワウソ肉があるというので、注文した。このももんじという店はなかなかの値段で食いでのある料理を出してくれる。

「ほんと、安くて身が多い。それで看板娘がかわいいと来たら」

「やだ、往生丸さんったら!」

「いやいや、ほんとだって。ほら、人斬り。お前もそう思うだろ?」

「もぐもぐふぐもぐもぐ」

「すげえうまいってさ、このカワウソ」

「ふぐふぐもぐぐ」

「まさかとは思うけど、これ、人じゃないよな、って」

「やだなあ、人肉じゃないです――たぶん」

「ふぐふぐもぐんぐぐふぐ」

「まあ、人肉でも気にしないってよ。……あー、おれは気にするから、万が一、人をさばいて鍋にしたら、言ってくれよな」

「わかってますよ、往生丸さん」

 人肉の疑いは晴れ切らない。イノシシ、鹿、アナグマ、カワウソと四つ足の獣の値段が軒並み高騰してるのに、なぜかこの店は大量の肉料理を安価に出したことが何度かある。まあ、やっているのだろう。

 ただ、侍や気の荒い町人のなかには人の肝を食べると気勢がつくとうそぶくものもいるので、客足がそれで鈍ることはない。

 ハフハフとカワウソ……のはずなものを食べる。

「それで、どんな仕事ヤマだったの?」

「鍵と地図を向こうで用意するから、それで忍び込めってさ」

「なに、それは? 罠?」

「そうかもしれんと思って、ちょいと覚悟したんだが、何にもない。見張りもいなけりゃ、犬もなし。それどころかもらった鍵も使わなかった。かけてなかったんだ」

「それで盗んだものが――」

「――これだ」

 それは小さな短冊くらいの大きさの紙で、大きな俵を持った男の姿が描かれている。諸肌脱ぎでその体は毛に覆われたほとんど大猿のような大男はがっしり俵にしがみついていて、その帯には升が紐でぶらさがっていた。

「これを盗んで、一貫文?」

「な? わけわからんだろ。何か分かるか?」

「分からない。このくらい太りたいものだ」

「巨漢と米俵。なんかのまじないかな?」

 ところで、と殺し屋はカワウソの出汁をずずーっとすする。

「その絵は頼み人に届けなくてもいいの?」

「この絵の正体が気になるんだよな。これをタネも分からないまま渡したら、気になって夜も寝られない」

「それで本当に眠れないのなら同情もできるんだけどね。あとでもめるよ」

「まあ、いつまでも手元には置かない。この一貫文は前金で、この変な絵を届けたら、三貫文だ」

 鍋の残りを山椒をかけたカワウソ粥にして、さらさらと食べる。

「あ、ほとんど食っちまいやがった」

「おかわりを所望する」

「なにが、おかわりだ。こら」

「三貫文がケチなこと言うなって。それに絵についてだけど、ひょっとしたら、タネが分かるかもしれない。詳しいのを知ってるんだ」

 おかわりをたいらげ、ももんじ屋のある小路から水かさが増した掘割を渡し板でまたぎ、柳を植えた堤を南へ歩き、カワウソ腹がこなれてくるころには水と土手に囲まれた小さな長屋町が見えてくる。

 柳と柳のあいだに町に入る唯一の道があり、その草葺きの冠木門には綱で巻き上げれば、城門の代わりになる橋がある。〈人の形した災い〉から町を守る仕掛けはよく見るもので、他にも武具をしまった番屋などもある。〈人の形した災い〉とは言うが、これには利子を取りに来る寺の欲深坊主や棟別銭むなべつせんを取りにくる公方の侍所も含まれる。

 それに比べれば、不殺の盗人往生丸と規律を設けた人斬りの殺し屋はひじりだ。

 町屋のひとつに赤い暖簾を戸口に垂らした家があり、それを分けて入ると、右手のミセに大きな紙を広げ、渡した板の上に乗り、絵筆を操る絵師がいた。茶筅髷に優し気に細められた目、微笑みの絶えないものらしい。

「おや、人斬りじゃないか。やあやあ、よく来てくれたね。」

「邪魔した?」

「そろそろ休もうと思っていたところだ。裏の内庭に行こう」

 絵師の頼国の家は描いた絵と絵に使う筆などの道具で足の踏み場もなく、たいてい、誰かが来ると、土間の抜けた先にある、町屋に囲まれた内庭で話す。

「ふむ。この絵が何か、ねえ。なんだか、あんまりうまくないね。面白いものを描いているが、心がない。うらやましい話だ。心のない絵で納得ができるなんて実にうらやましい。わたしは絵に心がある、魂があると思っているから、その魂を筆で描けていないのではないかと思うと、ね。それで創作が行き詰まってしまう。そうなると、そうなると、もう、――よし! 人を斬りに行こう!」

 走り出そうとする〈人の形した災い〉の襟首を殺し屋は咄嗟につかむ。

「頼国さん! 人を斬る前に絵について教えて!」

 往生丸は納得いかないことがある。殺し屋は往生丸の知り合いは変なものばかりだというのだが、どう考えても、殺し屋の知り合いのほうがおかしいのが多い。おかしいだけならば、まだいいが、たいていは猟奇殺人にかかわるおかしさなのだ。

「いや、すまなかったね。つい、創作が壁にぶち当たるとね」

「今は何の絵を?」

「平城京の世の曲水の宴を。長屋王の姿をいま描いているところだ」

「斬るのはどうか、この不思議な絵について、何か思いついたところがないか教えてからにしてくれないかな」

「ああ、そうだね。知り合いの絵師に見せてみたい。ちょっと写してもいいかな?」

 頼国はあっさり謎の俵童子の絵を写した。

「俵童子?」

「おれの名づけ。なあ、あんた、こんなに絵が描けるなら、別に人斬らなくてもよくないか……なんだ、その、これだから素人は、みたいな顔は」

「これは魂のない絵だよ。元の絵も魂がない。これは絵を絵としてではなく、何か別の目的で描いたものだ。ただ、なんだろうなあ。こういう絵は以前も見たことがある気がする。まあ、そのうち分かるさ。では、わたしはちょっと斬ってくる。ふたり、できれば、三人を斬りたいんだ。さらば」

 頼国の助けを借りると決まり、外に出る。まだ夕には遠い時間だが、往生丸はもう疲れを感じ始める。

「あいつ、女や子どもは斬らないよな」

「もちろん。……おそらく」

「嘘でもいいから斬らないって言いきってほしかったぜ」

「それよりそれより、三貫文。お腹が減ったよ、三貫文」

「さっき食べたばかりだろうが」

「魚が食べたい、三貫文」

「人を額面で呼ぶな」




「なんだと? まだ、あれを受け取っていないのか?」

 僧形の男、直垂に四十齢。顔が丸く、唇が厚いが、まぶたの肉は気味の悪いほど薄い。

「それがまだ、あのものは帰らないのです」

 相手は痩身で体を平らにひれ伏している。

「まさか盗むのに失敗したわけじゃあるまいな」

「それはございません。旦那さま。見張りも鼻薬を嗅がせましたし、鍵も渡しました」

「なのに、あれを持ってこないだと?」

 僧形の男は頭を撫でながら苦い顔をし、

「まさか、あれが何なのか気づいたのではないだろうな?」

「それが……まだ、確かなことは分からないのですが」

「なんだ。言うてみよ」

「その、あれによく似た絵をあちこちで見せて、たずねている絵師がいるという」

 扇子が叩きつけられて割れ飛んだ。

「やつら、あれが何か気づいたのだ!」

「それは、いえ、ただの盗人です」

「絵師がうろつくのが証左よ。もう、こうなったら、殺すしかない。その絵師と盗人、それに何か知っているものは全員殺せ。よいな?」




 三日目、まだ、頼国は絵が何なのか分かっていない。

 頼国はあの絵について、

「素晴らしいね。これを写してから、愚か者たちが自分から斬られに来てくれる。五人斬ったよ。おかげで長屋王が描けたから、次は舎人親王を描くんだ。あと八人斬れば完成かな」

 と、言っていて、絵の謎についてはまったく進捗がない。

 往生丸はというと、もともと飽きっぽいところがあったので、絵の秘密について、どうでもよくなってきた。それに、前払いの一貫文は殺し屋にほとんど食われてしまった。

 肝心の元の絵を渡して、残りの金も受け取ろう。

「ぼくも行こう」

「何も買わないぞ。というか、人でも斬って稼げよ」

「最近、人の命が二束三文で、冒した危険に見合わないんだよ。そんなときにあるのがせ――友だちじゃないか」

「いま、寄生って言おうとしたな?」

「まあ、落ち着いて。ぼくを連れて行ってよかったと思える働きをしてみせるからさ」

 ボロ長屋を出て、水路のそばを歩く。

 品のよい町ではない。このあたりには人が引きずり込まれた後、何かを打ち砕く音がきこえてくる茅葺の家やどんな木の実からでも毒をつくる店(きくかどうかは半々)、子どもたちにスリを教える荒法師が住む廃寺がある。

 その他にも殺し、かどわかし、酒、博打と悪事は尽きないが、ここに住むもの全員が自分はまわりのやつよりはマシであると信じている。

 ああ、そうさ。おれは悪党さ。でも、隣の野郎よりはおれはマシだ。

 そのようなわけで、往生丸は自分が殺し屋よりマシだと思っているし、殺し屋は自分が往生丸よりもマシだと思っている。

 にもかかわらず、彼らの棲み処が悪の巣窟となるのは彼らが悪たる由縁だ。

 さて、この日は後金の受け取り日和だった。はるか東方に見える白い雲の狭間から皐月の風が吹いてきて、その爽やかさに触れると、もらったカネを元手に足を洗って、まともに生きてみるかという寿命四半刻(三十分)の誓も立てられる。

「三貫文。髪を結うのによい紐はないかな」

「買わないぞ。縄で結んどけ」

「もう結んでいるんだけどね、チクチクして」

「買わねえって」

「あそこに店があるよ」

「だから、買わねえって。こら、帯をつかむな」

 ほっそりとした白魚のごとき指がまるでそっと添えられるように往生丸の四幅袴よのばかまの腰をつまんでいる。

 そうなると、往生丸は動けない。顔を真っ赤にし、首筋に蛇のような血管を盛り上がらせ、ふんばって前に進もうとするのだが、まったく先に進まない。

 殺し屋の、この小さな体のどこにそんな膂力があるのか、全く不思議だが、対処法がないわけではない。

 往生丸は殺し屋の襟をつかんで殺し屋の足がぶらぶらするくらいの高さまで持ち上げる。

 どれだけの膂力があっても、地面に足がつかねば無力である。

 体格が細い上に背丈もない。往生丸の片手で持ちあがるわけだ。

「ほら、もう無駄なことやめて、帯から手をはなせよ」

「……」

 殺し屋は、ぷいっとそっぽを向く。

「なに、いじけてんだよ。ほら、行くぞ。自分の足で歩け」

 むくれて返事もない。

 あー、もー、と往生丸はそのまま紐を売る店へと、殺し屋を持ち上げたまま立ち寄る。売り子の娘がいる窓の前に見世棚みせだなと呼ばれる床几テーブルのようなものがあり、そこに様々な長さ、様々な色、様々な産国の紐がずらりと並べてある。

 殺し屋を降ろすと、迷わず赤い河内紐かわちひもを手に取ったので、その代金五文(だいたい五百円)を支払った。

「うむ。これは気にいった。重畳至極だぞ」

「何が重畳至極だ。バカヤロー」

 しかし、ふたりには不思議なことがある。

 この見世棚には縄をちょっと整えただけのものから、この河内紐のようなものまで結構な数の紐が並べてある。もっと高い紐は店のなかで商うのだが、それでもどこかのたわけが、この紐を全部かっさらって走って逃げたら、どうするのだろう?

 窓は上半分に格子がかかっているのだ。外に出るには脇にある出入口の暖簾のれんをかき分けなければいけないが、そのあいだに盗人は水路をまたいで、よその町に逃げている。

 そんなとき、辛子茶の着流しに乱髪を無理やりまとめた茶筅、腰には紙鞘の脇差といった、いかにもごろつきそうな男が見世棚の紐を数十本、かきむしるようにかっぱらって逃げた。

 さて、どうなるかと思ったら、窓から長刀なぎなたがにゅう、と伸びて、紐泥棒の腕をバッサリ斬った。

 ギャア!と叫びをあげ、賊が倒れると、娘は暖簾から出てきて、斬り落とされた腕が握る紐を取り返し、見世棚に並べなおして、何事もなかった顔で商いに戻る。

 往生丸と殺し屋は、たかだか紐のために腕一本失うことはなんて元気いっぱいなのだろうと朗らかに話し合い、賊がのたうちまわる店屋街を離れ、紐泥棒が元気だったなら渡ったであろう水路をひとつまたぎ、紐泥棒が元気だったなら走ったであろう閑散とした道を歩く。

 そうやって紐泥棒の逃走経路を歩くと、山吹の九重咲する庭を横目に見ることになった。きーきー、こここ、とコゲラが樹を鳴き打つ。水杭のつくる渦のなかを小さな鮒がヒレをふるわせている。

「天下泰平。心地よいものだね」

「さっき髪留めの紐を買えとごねむくれた方とは思えないお言葉ってやつだな」

 ふたりは紐商いの防犯上の疑問について腕一本使ってこたえを見せてくれた紐泥棒のことはすっかり忘れている。

 古い町家に囲まれた内庭が依頼主の指定した待ち合わせの場だった。

 汁に入れる小さな菜を育てる畑が数枚といまにも崩れそうな便所がひとつ。

 どこかの大店おおだなの雇人らしい痩身の男があらわれた。安くはない雪花散らしの小袖にむらなく染まった紺の袴、笠だけは菅だが普段は侍烏帽子でものせているのだろう。

 肌が黄ばんで、汗をだらだら流している。流れた汗が尖った顎先で集まって、滴り落ちるくらいだ。

「やあ、旦那。例のモノ、持ってきたぜ」

「そうか、そうか」

 んー、と殺し屋は相手の目を見ようとする。笠に邪魔されて見えないが、どうもひどく泳いでいるようだ。

「ほら。なあ、これ、教えてほしいんだがな。何の役に立つんだ?」

 瘦身の男は往生丸の手から俵童子の絵をひったくった。そして、

「斬れ! 斬ってしまえ!」

 ……。

 左右を見回し、十数えるが、特に何かが起こるわけではない。

「では、お言葉に甘えて」

 殺し屋の手が愛刀の柄に触れると、男は、あ、とひと言残して、首を落とした。

「おいおい。お前、何してくれてんだ」

「斬れというので斬りました」

「肝心の銭をもらってない」

 往生丸は死人の懐を探ったが、肝心の三貫文はなかった。

「嘘だろ。こいつ、銭持ってない」

「つまり?」

「始めから三貫文払うつもりはなかったんだ」

「そうか。だから、あの便所から殺気が絶えなかったのか」

 便所はこの内庭唯一の屋根付きの建物で、窓のようなものは開けてなかった。ぼろぼろの漆喰のあいだに草の茎が見えるような壁ににおい逃がしの穴ひとつ開ける手間も惜しむあたり、この町家の住人たちのだらしなさが見てとれる。

 どうも、この創意にかけた厠のなかには雇われた牢人か何かが六人くらい詰まっていて、身動きが取れなくなっていると見えた。

「あいつが斬れと命じたのはこの人たちに対してだったわけだ。いやあ、参った、参った」

「お前、知ってて斬っただろ。タチ悪りいなあ」

「タチが悪いのはあの愚か者だよ。お金を持っていなかったわけだし。でも、そうなると、あの男も誰かの雇い人だったかもしれない」

「どうやって口を割らせるんだ? 死んじまったのに」

「彼らにきこう」

 彼ら、とは便所のなかで身動きがとれなくなったものたちである。

「ちょっと、そこの雪隠詰めくんたち。誰に雇われたか教えてくれないかな? 正直に吐けば、助けないこともないよ」

「くたばっちまえ」

「きいた、往生丸? ぼくは感動したよ。こんなふうに身動きが取れないなか、つい今さっき首を刎ねて、血に酔ったぼくに対してさ、くたばっちまえ、だなんて生半可な肝で言えることじゃないよ。敬意を表そう。御免」

 そう言って、殺し屋は懐紙で念入りに血糊を拭ってから、刀の刃を上にして、鍔を右頬の横に引きつけてから、ひと息に厠を刺した。

「うわあ」

「ひいい」

 抜いてみると驚いたことに血がまったくついていない。

 なかの賊たちは何とか刃をかわしたのだ。

「見てよ、往生丸。ただ日々生きているだけでは得られない体験だね。雇い主の合図にも身動きとれず、斬られるままになってしまったほどのものたちでも、己が身を守るすべは身につけているわけだ。いや、身につけているどころではない。まったく、これは手練れですよ、往生丸さん。どこか刺してもらいたいところはある?」

「じゃあ、下のほう」

「足の甲? いい趣味だね」

 おい、やめろ、となかの賊たちが叫ぶが、構わずぶすりと刺す。

「ぎゃっ」

 刃を抜き取ると、血がたっぷりついていた。

「やあ、これはぶっすりやったな。もしもし、どこをやられました? 足? 脛?」

「た、助けてくれ!」

「助けてあげたいのは山々だけど、こちらも三貫文を取り損ねている。三貫文、払える?」

「は、払えない」

 ぶすりと腰の高さを刺すと、また悲鳴がした。

「血糊を見るにかすり傷」

「は、話す! 誰に雇われたか話す!」

「そう言わないで。もう少し楽しもうよ」

「人殺しぃ!」

 往生丸が厠と殺し屋の刃のあいだに手をかざした。

「よし、話してみろ」

「あ、あの野郎は商人に雇われてる」

「そいつの名前は?」

「知らねえ。でも、頭は坊主みたいにきれいに剃ってた」

「それだけか?」

「それだけだ」

「あのなぁ、頭つるつるの欲深なんて、この作界だけでも何百人いると思ってるんだ? ダメだ、人斬り。こいつら、思い出しきれていない。もうちょっと刺していいぞ」

「頸のあたりを狙ってみよう。ひとりくらい死ねば、口の滑りもよくなる」

「助けてくれえ!」

 寝かせた刃を突き上げるように突っ込む寸前、絵師の頼国がやってきた。

 絵師はふたりの趣向を見て、ひどいことだ。厠に詰められて、身動きが取れない相手を刺すなんてと顔を蒼くしたが、往生丸があれから何人斬ったとたずねると、三人斬ったと言った。

「あれだけ斬れば、もう十分だ。この霊感がまだ身に染みつき、震わせているうちに描くとしよう。そうだ、あの絵だが、何か分かった。あれは割符さいふだ」

「さいふ?」

「わたしもうまく説明できないが、つまり、あの絵には六百貫の価値がある」

 六百貫!とふたり声をそろえて驚く。

「あんな下手くそな絵に?」

「そいつ馬鹿なのか?」

「いや、そこには商人らしい話があるんだ。わたしはもう帰って絵を描きたいから、詳しい話はこのものにきいてくれ」

 と、頼国の後ろから小柄で猫背の男がひょいとあらわれ、ぺこりと頭を下げた。




 乱波スパイか何かの類かもしれない。

 頼国が言うまで気配がしなかったのだ。

 横に伸びた顔に唇のない大きなへの字の口、目尻はひどく垂れた百姓顔で、挙措は下手、卑屈でさえある。

 哀れな雪隠詰めのものどもをそのまま放置し、往生丸と殺し屋はその男に誘われ、鮒ずしを食べさせる店の厨子二階で天井に頭をぶつけないよう、姿勢を崩して、割符についてきくことになった。

「つまり、あれはカネをよそで受け取るための鍵みたいなものか?」

 猫背の男はうんうんとうなずいた。質問は往生丸がして、すしは殺し屋が平らげる。

「へえ。左様で。ある商人が六百貫の商いをするために京に行かねばならないとして、作界から京まで銭を運ぶのは大変ですし、盗賊にも目をつけられます。でも、六百貫を紙一枚に変えれば、簡単に持ち運べ、盗賊も銭の箱を探すばかりで、その紙を持った商人を見つけられないというわけでございます。その紙こそが割符さいふなのです」

「そんな便利なもんがあるんだねえ」

「それが替銭かえぜにと呼ばれている商いでございます」

「この俵童子が六百貫かあ」

「俵童子?」

「ひとつ気になるんだけど、六百貫の銭を預けて、もし、その預かった商人が倒れて六百貫の銭を失ったら、これはただの紙切れになるんじゃないの?」

「左様でございます。だから、替銭商人は信用が大切なのです。信用がなければ、誰も割符を作ろうとはしませぬ」

「信用か。つまり、つくった割符を盗人に奪われるような替銭商人は危ねえと商人たちに思われちまう」

「お察しがよろしく、へえ。あなたさまにこの割符を盗むよう手配したのは、その割符を作らせた張本人の佐平という商人でございます。佐平は六百貫を手前どもに預からせ、手前どもがつくった割符をあえて盗ませて、その代金を手前どもに弁償させ、あなたさま方の割符は闇で流して小遣い金にし、ついでにわたしどもの信用もがた落ちにしてやろうと謀ったのでございます」

「そういうのもあるのか。割符ってのは儲かるなあ。それで、……あー、名前をきいてなかったな」

「手前は平太と申します」

「平太。おれたちが割符を返す。それだけで納得がいくのか?」

「へへ。そこに信用の問題が出てきます。佐平はそれなりの商人かもしれませんが、手前がお仕えしている方に比べれば、まだまだ小さなものです。そんなやつにこんなことをされて、そのままにしては手前どもの信用に関わります。他に割符をつくった方々も安心できないでしょう。それでそこの人斬りさまにお願いしたいのですが」

 と、平太は懐からズシリと重い、三貫文を取り出す。

「佐平を斬っちまってください。これは前払い全部で。手前どもはあなたさまを信用しています。いかがでしょう?」

 殺し屋は鮓を口いっぱいに頬張ったまま、こたえた。

「むぐうぐ」

 往生丸が訳す。

「引き受けるってよ」


 佐平の骸は次の日、妾の住む家の裏手で見つかった。

 妾が言うには、佐平のハゲ頭が生垣の向こうに見え、さて、旦那を迎えるかと、床下の甕から錫の提子で古酒を一杯救い上げて、待っていたが、来ない。

 これは変だと裏の木戸を押して開けると、佐平の骸が転がっていた。

 最初、どう斬られたかは市井の口に乗らなかったが、そのうち侍所はこれは剣に拙いものの仕業で、こんな商人風情を斬るにも、相当苦労したに違いないとあちこちに吹聴した。

「拙い? 烏帽子の頂からへそまで雷に打たれたがごとき打ち割った、ぼくの必殺の上段斬り下ろしを拙い? わかった。じゃあ、侍所に乱入して、四人か五人をその拙い剣で斬ってあげよう。それで思い知るはずだ」

「バカ、やめろって! 捕まるぞ!」

「ちゃんと覆面はするから、大丈夫だよ」

「やつらの手だ! こうやって下手人をおびき寄せるんだ!」

 羽交い絞めにして、落ち着かせるのに半刻(一時間)かかった。

 血の気がすうっと引いていくと、腹が減る。

「行こう、往生丸。怒って腹が減った。今回はぼくが三貫文。ももんじに行こう。奢るよ」

 酒亭小路のももんじでは安くてうまい肉鍋を出していると、看板娘が黄色い声を上げていた。よほどうまいのか、ちょっとした行列ができている。その行列の最後尾には絵師の頼国がいた。

「ちょっと大きな屏風絵を頼まれたので、せいをつけようと思ってね」

「おお、それは重畳。おすすめは何の肉だと?」

「イノシシの子だそうな。このあつものが安くて、食いでがある。まったく不思議なことで店主はどうやって、そんな肉を安く仕入れてくるやら。そういえば、不思議と言えば、昨日、このあたりでふたり斬ったのだが、そやつらが骸の残さず、きれいにいなくなっていた。確かに手ごたえがあったから、逃げられるはずはないのだが。ん? 往生丸どの、顔色が悪いね。そんなときこそ、肉鍋だ。さあ、たっぷり食らおうか。あはは」

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[一言] テンポというかもう音階付いてきそうなリズムが、時に走ったり矯めたりしながらまことに気持ち良く楽しく読めました。これだけ凝ってて軽妙でこの頻度で出るのだからなあ(筆を折るのは☆1ばかりじゃござ…
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