朝九時から始まるひとり休日
ほんのり世が暖かくなってきた初春。新しいおうちにも慣れてきたある日のこと。
自然と目が覚めたのは、九時だった。普段なら一限が始まる時間だが、今日は授業が一コマもない。バイトもない。やらなければならない用事も特段なし。何にもない休日。人はこれを素晴らしき日と呼ぶ。
けれども私が起床したときには、すでに彼氏はバイトに行っていた。なーんだ、つまんないの。せっかく曜日を合わせた全休も、バイト様には敗北である。
ということで、本日はおひとり様休日だ。家でゴロゴロしようかな。まずは二度寝をしようかな。
もぞもぞと枕元にあるスマホを手に取ると、彼からメッセージが来ていた。すうすう寝ている私の頭を撫でている数秒の短い動画。『行ってきまーす』と笑いを含んだ小声付きだ。
……なんだか、二度寝する気がなくなった。
「どうしようかなー」
と言いつつ、指は勝手に映画館のアプリを開く。今日はお出掛けしたいほど、気分が高揚しているらしい。
観たい映画はお昼すぎからだった。あまり期待はしていなかったが、評価を見てみると案外良さげな作品だという。わくわくで家事の手がはかどるはかどる。
少し洗濯をし、軽く部屋を片付け、適当に着替え、手短にメイクをし、自然に毛先を巻いたら、レッツゴー。
映画館は街の中心部にあるので、平日の人がお昼でも人が多かった。人気なのだろう、行列のできているカフェもあった。今頃バイトに勤しんでいるイケメンも忙しくしているのだろうか。
あ。ふと朝のメッセージに返信してないことを思い出す。私はなんて返そうか。館内に入ってすぐ、今から観る映画のポスターを見つけた。これだ!
いそいそとチケットを発券し、キャラメルポップコーンを購入。ポスター前で、ポップコーンとチケットを掲げてカメラを起動させる。
「今から観まーす」
すぐさま動画を送ってみる。さあて、返事はなんて来るのかな。色々なワクワクを胸に詰め込み、私はひとり座席に向かった。
あー、面白かった。ストーリー自体は先が読めたが、大画面でこそ映える映像美に圧倒された。これだから映画は足を運んで観に来たくなる。
さてさて、小腹が空いてきた。ポップコーンは食べたが、そもそも朝ご飯もお昼ご飯も食べていなかったのだ。
うろうろしていると、行く途中に見かけたカフェの行列がなくなっていた。お昼とおやつの狭間で、今はちょうどお客さんが少ない時間帯みたいだ。
ふらっと立ち寄って、オレンジタルトとホットのカフェラテを注文。届くまでの間にスマホを開くと、またまた同居人から動画がきていた。私が映画を観ていた時間に送られてきたようだ。
ほかほか湯気立つカルボナーラを指差して、ニッと笑う自撮り動画だった。
『これ食いまーす』
今日のまかないはパスタなのか。一口分を巻いてぱくり。お腹が減っていたのか、ぱくつきに勢いがあった。数回咀嚼したのち、ごくんと動く喉仏。直後、恥ずかしそうにはにかむ笑顔で映像が終わった。
なにこれ、ちょっと可愛い。無心でリピート再生。
しばらくして、タルトとカフェラテがやってきた。ちょうどいい。
バッグをテーブルに置いてスマホを立てる。インカメラに自分とタルトが映るよう角度を調整して、動画の撮影スタート。
「これ食べまーす」
私はタルトの先をフォークで切り分け、カメラに見せつけ、口に入れた。ふわっと広がるオレンジのいい香り。煮詰められた果肉はとびきり甘く、ほんのり残る酸っぱさが良い。
手が再びタルトに迫る。同時に、むふと口角が上げている自分と目が合った。
「あ。た、食べてまーす」
慌てて動画を止める。タルトの美味しさのあまり、撮影していたのを忘れていた。自撮りに慣れてない人間の末路がこれだ。なんと無様な。
さすがに編集せねばなるまい。しかし早くタルトも食べたい。
お行儀は悪いが、どうせ今はひとりだ。私はフォーク片手にささっと編集をやってのけた。タルトをつつくとともに、後半のシーンを削除。勢いのままに、ぽちっと送信。
そうしてトーク画面で自動再生されたのは、編集前の動画だった。
「えっ、あれ、なんで」
改めて動画を開いて再生しても、やはりカットしたはずの部分が映されていた。タルトを口にした途端、みるみる緩んでいく締まりのない顔。うう、とんだまぬけ面。
送信取消せねば! トーク画面に戻ると、既読がついていた。……既読? どうして。この人は今お仕事中なのでは。もしやポケットの中で誤作動したのだろうか。ともかく、送信取消、送信取消!
間もなく、ぴこんと動画がきた。見知ったイケメンがむすっと不服そうな顔でチョキを自分の目に向けたあと、すぐにこちらへ向ける。洋画でしばしば見かける〝見てるぞ〟のサイン。
な、なんてことだ! バイト中にスマホをいじっているサボり魔め! ちゃんと働きなさーい!
日が暮れかかった橙色の空を眺めて帰途につく。途中で家の近所のスーパーの前を通りかかった。
うちのコックさんが勤めるカフェは、親戚の知り合いの個人経営カフェなので、閉店時刻は他のお店に比べてやや早い。けれど、店じまいや片付けで退勤は遅くなると思われる。
ふむ。料理は私の得意分野ではないが、たまにはよかろう。
ところで、料理のレシピというのは、どうして『適当』やら『少々』やら『お好みで』などと量を誤魔化す文言が多いのだろうか。
『しっかり水をきる』ということは、ザルを振る程度でいいのか、キッチンペーパーで拭く程度なのか。『煮立ったら』とは、泡が小さくぽこぽこ出てきたらなのか、大きくぶくぶくしてきたらなのか。一体全体、何が『アク』なのか。料理ベイビーにはわからないことだらけだ。
私は具材がぐちゃぐちゃになったお鍋の前で立ち尽くした。まぁ、よい。味付けはコンソメとトマトソースしか入れてないから、食べられない味ではないはず。そうであってほしい。
手を合わせて天を仰ぐ。料理はすでにできてしまった。ともすれば、あとは祈るほかないのだ。
キッチンで強敵と決着をつけ、ふーっと息をついたタイミングで、ぴこんとメッセージがやってきた。
『今から帰りまーす』
夜道を照らす街灯と真っ黒なアスファルト、そこに映る人影がピースしている。ガサガサと服や風が擦れ合い、とてつもなくぶれていた、歩きながら撮ったに違いない。いや、走りながらかも。
家からマンションまでは、長めの一曲程度の距離だ。だから、ともに戦った仲間たちを洗ってから家を出ても、十分に間に合った。
春といえど、夜は未だ肌寒い。何かカーディガンとか羽織ってこればよかった。手をすり合わせて、改札の向こうに見える電光掲示板を眺め、お目当てさんの到着を待つ。
間もなくだろうか。駅の改札前の広場でカメラアプリを立ち上げる。今度は外側のカメラだ。ぱらぱらと改札を通っていく人並み。ピントは、一際目を惹く黒スウェットのイケメンに合わせて。
「迎えに来ましたー」
「え、うわっ」
改札を抜けてきた彼氏めがけて駆け寄ってみた。びっくり三度見を、間近でカメラに収めることに成功。斜め下、横、真正面、斜め横、あらゆる視点から激写する。
「お疲れさまー。愛しの彼女が迎えにきてみましたよ」
「なん、え、どうし」
「どうですかどうですか。ご感想をお聞かせ願えますか」
「なあ、おい、ちょこまか動くな」
「ぐえ」
調子に乗るもつかの間、腕で首を締められた。被写体のくせにカメラマンにプロレス技とは何事だ。こやつめ、許せん。
その上、頭をぽんぽん叩いてきた。カメラマンに手を挙げるとはどういった了見だ。もっと撫でてくれないと私のご機嫌は取れないぞ。
「すげえ嬉しい。ありがと」
頭上から耳元に囁きが落ちてきた。嬉しそうで熱い吐息に、つい言葉が出なくなる。首にあった腕が肩に降りてきて、そのまま歩き出した。横を見上げたら耳が赤い。
こやつ、カメラマンに照れ顔を撮らせないとはけしからん。喜んだ顔、もっと見たかったのに。
ふたり並んで帰る道。頭上には霞む半月が見下ろす、風が冷たい夜だった。寒い。早く帰りたい。
が、隣の細マッチョは全く寒くなさそうだった。筋肉という名のインナーを着込んでいるからだ。駅周りの飲食店をくるりと見回している。
「飯どうする? どっかで食って帰る?」
「晩ご飯はねー、なんと私がすでに作った!」
「え! マジ!? …………え、マジ?」
沈黙が訪れた。なんだろう、その言い方は。
「あのー、二回目の『え、マジ?』について、理由をお聞かせ願えますか」
「ごめんなさい。包丁で指切るし味見もしない人の料理、なんか怖いなって思いました。申し訳ございませんでした。謝罪します」
「ひどーい。最近は指切ってないんですけど」
「味見はしたんですか?」
「それは、えーと、しなくても法的にはなんら問題ございませんので」
「ほらな!」
ええい、お黙り。私は腕を引っ張って、おうちを目指した。
万能調味料コンソメ様の御前では、味見など不要。人間が味を整えなくとも、コンソメ様がきっとなんとかやってくれるのだ。
「料理は祈る気持ちが大事だから」
「料理で祈るってなんだよ」
「美味しくなあれ、美味しくなあれ」
「あー……」
ぐいっと体を引き寄せられた。くっついてぬくぬく。寒さにはやはり筋肉インナー。服越しでもあったか、効果抜群です。
あっという間にマンションに着いてしまった。長めの一曲、こんなにも短かったっけ。
私は玄関に入って早々に靴を脱いた。くるりと振り返って、ばっと腕を広げる。お出迎えといえば。
「おかえりー」
「ん、ただいま」
ぎゅっとハグ。首筋にぐりぐり頭を押し付けられた。柔らかいさらさらした髪の毛がくすぐったい。体ごともたれてぐーっと体重をかけてくる。まるで甘えてくるでかい猫。
薄まった香水の残り香。厚く硬い腰回り。私の頭をくしゃっと包むごつごつした手のひら。抱きしめる強さはちょっと痛いくらい。
今日のハグは長くて困った。ぬくぬくを通り越して暑くなってきた。
お待ちかねの料理お披露目タイムがやってきた。トマトの酸味とコンソメの良い匂いが立ち込めるキッチンにて、私は意気揚々とお鍋の蓋を開けた。
「じゃじゃーん」
「おお!」
中では、煮立ったくたくたキャベツと崩れたほろほろ肉団子が、濃厚なオレンジ色の液体の中でくつろいでいた。
「これはスープ、にしては水が少ないな。トマト煮、にしてはトマトが薄い気が」
「これはね、ロールキャベツ」
「ロール……?」
「に憧れたキャベツとお肉たち」
「よく見たらつまようじ沈んでるわ」
我が家のコックさんが、手際よくお箸でつまようじを救出し、お玉をひと回し。スープをすくってお味見をし、カッと目を見開く。
「うま! え、すげえ美味い!」
ふっふっふっ。そうだろう、美味しかろう。称賛の声に、思わず腕を組んで仁王立ち。
「コンソメ様に感謝せよ!」
「コンソメだけじゃなくてトマトソースもいれただろ?」
「な、なぜそれを」
「そこに空き缶あるし。いや、にしてもマジで美味いな」
「トマトソース様にも感謝せよ!」
「さんきゅーな」
ちゅっとキスされた。ちが、そうじゃなくて。「一緒に味見しとく?」じゃない。「あーん」じゃないってば。
ん、本当に美味しい。
夕飯中は、大抵今日一日にあった出来事を話す。カフェに来た面白いお客さんとか道で見かけた新しいお店の話とか。授業があった日には課題やレポートの話をしたり、ふたりともお休みの日は次のデートの話をしたりする。
本日はふたりとも別々に過ごしたので、話したいことがたくさん。
「映画、楽しかった?」
「うん! 面白かったよ。映像も綺麗だった」
「ほーん。他の新作で気になるのあった? 今度俺とも映画行こ」
「そう言っていつも行こ行こ詐欺するよね」
「俺が誘う前に、どっかの誰かさんがいつもひとりで行っちゃうからな。あーあ、毎回俺誘われなくて悲しー」
「パスタ美味しそうだったね。可愛かった」
「だろ。俺何しても様になっちゃうんだよな」
「うん。何回も見ちゃった」
「……さいですか」
「なんで自分で言っといて照れるの」
「つか、ケーキの動画なんで消したんだよ」
「ケーキの動画? 記憶にございません」
「あれもっかい見たいんだけど」
「残念、削除済みでーす。見せられなくて誠に遺憾」
「思ってねえだろ!」
「というか、バイト中スマホ触ってもいいの?」
「あんとき休憩中だったの」
「あ、そうなんだ。サボってたのかと思った」
「人聞きの悪いこと言うなよ。あれは自主休憩」
「自主休憩……って、やっぱサボってたんだ。この不良め〜」
色々話しては食べて、いちゃついたりして、ロールキャベツのお鍋は見事に空っぽになってくれた。無事完食。美味しく仕上げてくれたコンソメ様とトマトソース様に感謝の祈りを送る。ごちそうさまでした。
私がお風呂から出てくると、先にお風呂を済ませたデカ猫がソファーで横になってすやすやしていた。ここで寝るなんて珍しい。朝から晩まで、お仕事お疲れ様。
寝顔をこっそり拝見。これまでは私が先に寝て遅く起きることが多かった。これからは毎夜寝顔チャンスが到来するのかと思うとドキドキする。
ほんのうっすらと開いている唇の無防備さがちょっぴり幼くて、前髪がぱらぱらとかかった隙間から見える長めのまつ毛は大人っぽい。見ていると心の奥がきゅうっとしてくる。
わずかに上下する胸に、そっとブランケットをかける。
「…………」
ついでに、私も乗っかってみる。胸に顔を埋めて深呼吸。
この人は、普段の外出時は基本的に香水をつける。以前私に褒めそやされた代物らしい。それを律儀にほのかに頻繁につけている。
確かにその香水は良い香り。だが、正直香水よりも本人の匂いのほうが好きだ。変態みたいだから、絶対言わないけど。
手を伸ばしてローテーブルの上のスマホを取る。インカメラにすれば、寝ている彼の上に寝転がる私が映った。へへっ、合法盗撮。彼女の特権だ。
力が抜けた重たい腕を持ち上げ、カメラに向かって手を振らせてやった。
「おやすみなさーい」
動画を見直し、ひとりでにんまり。寝顔単体も撮っちゃお。満足するまでご尊顔を拝んじゃお。私は自分用のブランケットを被り、でか猫の胸におでこを添わせた。眠たくなるまでくっついちゃおーっと。
美味しいご飯をともに食べ、がっしりした胸筋に抱きつき、好きな匂いを堪能し、小さな寝息を立てる大好きな人の寝顔で締めくくる。
五感全てが喜んでいる。最高だ。やはり今日は素晴らしき一日だった。
あともう少し眺めたら起こしてあげよう。ソファーよりベッドのほうが体にいい。ちゃんと起こしてベッドで寝てもらおう。
あともう少し寝顔を眺めたら起こす。あともう少し、私が寝る前に起こす。あともう少しだけ……。
翌朝、ソファーで寝落ちした私たちが、ふたりして体バキバキ背中痛いと嘆き騒ぐのは、また別のお話。