朝十時のお出掛け準備
寒い寒いある日のこと。
おぼろげに喉の乾燥を感じて意識が浮上してきた冬の朝。肌に冷たい空気が触れて、布団の中でもそもそと身じろぎする。
最悪だ。朝が来てしまった。
太陽は重役出勤するくせに、時間は柔軟性がないせいで、社会はまだ日が昇ってない頃合いから活動を始めたがる。
年中通して常に一定の行動をするいうのは、気候変動に合ってない。例えば冬という季節は、気温が低く、日照時間が短く、そして布団が温かい。
内外のありとあらゆる環境が生物の活動を抑止し、長時間の睡眠を推奨している。ずばり、我々は大自然に合わせてぬくぬく眠るほうがいいのだ。
かくして、私は二度寝し、
「まだ寝てる?」
不意に私の部屋のドアが開けられた。毛布をぱふぱふ叩かれる。私の安寧の睡眠を邪魔するのは誰だ。一緒に住んでいる彼氏さんだ。
私はぐいっと毛布を頭の上まで覆った。
「まだ寝てる」
「起きてんじゃねえか。布団剥ぐぞ」
「うう……」
いじめっ子め。私は渋々布団を目元まで下げ、薄く目を開いた。彼がベッドに腰掛けて私を覗き込んでいるのが見えた。
「まだ寝る」
「今日はお出掛けするって言ってなかった?」
「お出掛けはいつでもできる。眠れるのは今だけ」
「寝るのだって、いつでもできるよなー?」
ためらいもなく、ばさっと布団が奪い取られた。
「あああ!」
「うるさ」
さ、寒い。これは人間が過ごしていい気温ではない。私の体温を冷気が容赦なく奪い取っていく。だから冬はぬくぬく眠るほうがいいとあれほど言ったのに!
私は背中を丸めて縮こまった。ひとりおしくらまんじゅう。なだめるような声とともに、まんじゅうが揺らされる。
「ねえ、起きて。リビング暖房ついてるから」
なぬ。暖房か、ふむふむ。手を引っ張り上げられ、のそりと体を起こす。暖房がついているなら悪くない。起きてあげよう。
手を繋がれて進む短い廊下、移動はちょっと早足で。
リビングに入れば穏やかな日光の光を浴びせられ、テーブルに置かれた彼のスマホからは流行りの音楽を聞かされた。明るい部屋にアップテンポなオシャレソング。
寝起きの私にはあまりにも優雅な休日の朝。卓上のデジタル時計がお知らせするただいまの時刻は、朝十時。
彼は私をソファーに連行した。横に並んで座り、二人揃ってぼーっとタイム。
ぶるっと震えたら「まだ寒い?」と心配された。
「寒いかも。エアコンの設定温度ガンガン上げよう」
「どんくらい上げる?」
「目指せ灼熱」
「おー、言ったな?」
彼がリモコンを操作する。温度の上矢印を押し続け、ピピピが鳴り止んだ。つまり、設定でき得る最高温度になったのだ。何度? 私はリモコンにちらりと目をやった。
「おお、真夏日」
「なんと、外気温は真冬日」
「ひえー」
どおりで寒いわけだ。私は自分で腕をさすった。お部屋よ、早くお布団級に温まっておくれ。
彼はにこっと可愛く笑って腕を広げた。
「温めてあげよっか」
「ぜひとも」
「りょうかーい」
ぎゅっと抱きしめられる。わ、あったかい。これは素晴らしき人間カイロ。私も腕を回してより密着する。
暖かな部屋で好きな人とくっつく、ふかふかのソファーの上。となればやることは一つ。私は再びうとうとしてきた。いざ行かん、夢の世界へ。
「このまま二度寝しちゃお」
「んなわけ」
えー、なんで。見つめ合えば、彼がニヤリと口角を上げた。これは悪い顔。完全にイタズラを仕掛けてくる顔だ。キスとか、多分そういうの。いいぞ、かかってこい。
身構えていたら、彼は「がおー」と言って手を開いて爪を立てた。いわゆるライオンとかトラのポーズ。なんだそれ。あざと可愛いやつめ。
と思ったら脇腹をくすぐってきた。待って、油断してた。それは予想外。
「あはっ、ちょっ」
「んー?」
「待っ、や」
「常夏温度にしてぽかぽかに温めてあげたのにまだ寝ようとするんだもんなー。ちゃんと起こしてやらなきゃなー」
「わか、わかった! 起きた! おはよう!」
「あ、ほんと? おはよ」
やっとくすぐり攻撃が止まった。朝からすごく笑わされて疲れた。ぐでんとソファーに思いきりもたれかると、前髪にキスが落ちてくる。あぁ、ある意味予想通り。
頭も起きた、体も起こされた。私は勢いよく立ち上がった。そろそろ支度を始めますか。
「顔洗ってくる」
「おけ。俺はご飯作るわ」
「やったー」
起床が朝と昼の間の微妙な時間だと、ご飯を食べずに出掛けることも多々あるけど、今回は食べてから行くらしい。
外食も美味しいけど、うちのコックさんの作る料理も美味しくて好き。嬉しくなって投げキスしたら、ハグが返ってきた。うちの大型肉食獣はスキンシップが好きすぎる。
歯磨きや洗顔、スキンケアなどなどを済ませて、着替えるかどうか迷っていたら良い匂いがしてきた。先にご飯にしちゃお。
リビングに戻って、早速キッチンにお邪魔する。
「はい、あーん」
「ん」
口に何か入れられた。ふむ、これはニンジン。昨日のコンソメスープの残りだ。すっかり柔らかくなっていて、よく味が染み込んでいる。
「熱かった?」
「ううん。ちょっとぬるい感じ」
「じゃあ混ぜててな」
私は木べらを手にし、スープの番人を任された。適度にお鍋をかき混ぜるだけの簡単なお仕事。
一方、彼は慣れた手付きでボウルにたまごを割り入れていった。朝食、という時間ではないかもしれないけど、一日の最初の食事にたまごは欠かせない。今日はなにかな。わくわくドキドキ。
「今日のメニューは何ですか」
「オムレツです」
「わあ、美味しそうですね」
「もちろん美味しいですよ」
目の前の片手鍋ではニンジンやベーコンで色鮮やかなスープがコトコトと煮込まれ、横のフライパンでは黄金色のたまごがじゅわじゅわ焼かれている。
彼が調味料をちょいちょい振りかけて味付けをし、お箸でちょこっとすくった。オムレツになる前の半熟スクランブルエッグだ。息を吹きかけて冷まし、私のほうに。
「味見して」
「ん」
むむ。熱の入った部分はふんわり、半熟のところはとろーりしていて、バターの塩分と砂糖の甘みが良い塩梅。まるでホテルの朝食に出てきそうなクオリティ。
「すごい。ほっぺた落ちた」
「お気に召したようでなにより」
彼は私の頭をぽんと軽く撫で、オムレツの半月状の形を作っていく。飄々とした様子で手際よく料理するときの端正な横顔をちらりと見上げる。
少し伏せた目で味見したあとに口の端を舐める仕草も、フライパンを軽々と持ち上げてオムレツをひっくり返す器用さも、私の視線に気付いて「待っててな」と微笑む笑顔も、全部全部大好きだ。
私好みの料理を作ってくれる、私だけのコックさん。
お鍋を混ぜながらぽーっと見ていたら、チンッと鳴ったオーブントースターの音にびっくりさせられた。
「そろそろスープ温まった? なら火止めて、パン出してほしい」
「はーい」
「やけどしないようにな」
取り出した食パンは切れ込みまで入れられていて、バターとはちみつとシナモンの匂いがした。美味しいの詰め合わせ。カフェのモーニングメニューにありそうだ。
彼が私にぴとっと肩を寄せた。
「オムレツできた。食べよ」
私はオレンジジュース、彼はコーヒーとともに、テーブルの対面に着席。
具だくさんのコンソメスープに、ホテル風オムレツとカフェ風ハニートースト、さらにはミニサラダまで。休日ならではの、とっても豪華なブランチだ。
「「いただきまーす」」
今日はなんだか、からんと大きな氷入りのオレンジジュースをごくごく飲めてしまう。オムレツやハニートーストが甘々仕立てだからだろうか。いや、単純にリビングが暑いからだ。
彼も同じことも思ったらしく、エアコンの温度を下げていた。賢い行動だと思う。真夏日設定は暑い、さすがに。
「冷たいのいる?」
「いる」
オレンジジュースをおすそ分け。彼の湯気立つマグカップは一切手をつけられておらず、コーヒーの独特の香りを立ち上らせていた。
「今日はブラック?」
「カフェオレ。飲む?」
「一口だけ」
カップを拝借。カフェオレを口に含むと、とてつもない苦味が暴れた。あ、これ無糖だ。苦い苦い。眉間にしわが寄ってしまう。すぐにカップを返すと、くすくす笑われた。
「おこちゃま舌だな」
「オレンジジュース、ナンバーワン」
「おこちゃま舌だなー」
「味覚が良いんですー」
あっかんべーしてオムレツを口に運ぶ。インスタントの甘くないコーヒーよりも、できたてオムレツのほうが好き。つやつやの表面にフォークを入れれば、とろっと半熟スクランブルエッグのお出ましだ。
「このオムレツなんて最高に美味しい」
「そりゃ良かった」
「このスープも美味しい」
「昨日も言ってたよな」
美味しいものが好きな人と味わえるなんて幸せ。平日だと授業のやバイトの都合でバラバラの食事になることも多いから、一緒に食べられるだけで嬉しい。
「今日もお料理ありがとう」
「どういたしまして」
照れ笑いする彼の顔が見られるのも嬉しい。
「次は一緒に料理しよう」
「おけ。絆創膏買っとくわ」
「け、怪我はしないよ。……多分」
「どうだろうなー」
しばらくしてテーブルには空のお皿が並んだ。今日も今日とて完食です。
「「ごちそうさまでした」」
食器洗いは二人でぱぱっと済ませた。食後の歯磨きもした。よし、身支度本番だ。
着替えに向かったときの時刻は、十時半。
今日のお出掛けはショッピング。色んなお店を回るだろうから、カジュアルめな格好で。夜は外食だろうから、日が沈んでも寒くないような服装が望ましい。
スカートにしたら寒いかな。極暖タイツでなんとか乗り切るか。トップスはパーカー、いや大人可愛いレースもあり。無難にニットはどうだろう。
自分の部屋であれやこれやと服を広げる。決めた、と着替え終わったときには散乱している服の山。あちゃー、帰ってきたら片付けよう。いつだって面倒ごとは未来の私に放り投げちゃうのだ。
自室は極寒なので、常夏のリビングでメイクとヘアセットをすることにした。テーブルにメイク道具をばっと並べる。
メイクで気を付けるのはアイライン。上手に引ければ一日上機嫌。うーん、今日はちょっと失敗した。あと、まつ毛も気合を入れる。まつ毛が上がればテンションも上がるのだ。……あれ、調子悪いな。
鏡の前でうんうん唸っていると、洗面所でスキンケアやらヘアセットやらを終えた彼がリビングに戻ってきた。あらまあ、カッコいい。
「あ、イケメンはっけーん。お兄さんカッコいいですね」
「やべえ。美人さんに逆ナンされたんですけど」
「今って暇ですか? このあとデートでもどうです? 私、行きたいカフェあるんですよ」
「いいですねー。どこでも連れて行くんで、とりあえず連絡先交換しときます?」
逆ナンごっこが、いつの間にかナンパごっこになっている。彼は気に入ったらしく、笑いながらテーブルに手をついた。私の留めている前髪クリップをつんと指でつつく。
「てか、お姉さん、マジで俺のタイプすぎ。リップはまだ?」
「リップはまだまだ」
「そう」
彼の手がパウダーでさらさらに仕上げた頬にするりと触れてキスしてきた。え、あの。
きょとんとする私に、やがて落ちてくるため息。
「可愛い」
ぽんぽん私の頭を撫でたあとソファーに座りに行った。ぼんやり目の前の鏡に映る自分と目が合う。アイラインやまつ毛は再度確認したら結構マシに見えてきた。好きな人の『可愛い』マジック、恐るべし。
でも、どのくらいチークの乗せたらいいか、わからなくなっちゃったな。
温めておいたストレートアイロンで髪のセットを始める。私の髪は長くもなく、元々癖のない髪質なので短時間で済ませられる。重要な前髪はさらっとナチュラルに流して、その他は毛先を内巻きにするだけ。
支度を済ませたイケメンはソファーでくつろぎつつ、スマホを見ていた。
「ねえ、さっき言ってた行きたいカフェってどこ?」
「えーとね、チョコ専門店なんだけど」
「なるほど。どの駅に近いとかわかる?」
「学校最寄りの二つ手前だった気がする。いや一つ先かも?」
鏡を見て内巻き具合を微調整。ヘアセットはなかなか満足の出来だ。仕上げにスタイリング剤をつければ完成。
「えー、学校近辺だと……。動物モチーフのメニューが人気? それともフランス発のオシャレな店?」
「なんかね、パフェが可愛いとこなんだよね」
「わかりました。あなたが行きたいカフェは、ウサギの隠れ家ショコラですね?」
「そうそう、そこ! だいせいかーい」
名探偵、ここに現る。振り返ってぱちぱち拍手すると、彼が立ち上がってスマホをポケットに入れた。
「準備できた?」
「できた」
「忘れ物してるけど」
「え?」
後ろからぎゅっと抱きつかれた。同時にふわっとかすかに包まれたのは、上品で清潔感のある甘めの香り。彼がお出掛けのときにつける香水だ。この人、香水と相性が良いのか、香水単体よりも良い匂いをさせる。
あー、前髪崩れちゃうけど。くるっと体を反転させて私からも抱きつく。
「そんなに良い匂いさせてると本当に逆ナンされちゃうぞ」
「じゃあ、されないように俺から離れないでもらえます?」
「離れませんよ」
「美味しそうな看板やショーケースに釣られて、勝手にどっか行くのもやめてもらえます?」
「い、行かないよ、多分」
「どうでしょうねー。食べ物に弱いですからねー」
か、彼女をなんだと思っているんだ。子どもじゃないんだぞ。美人なお姉さんなんだぞ。
コート着た、鞄持った、スマホは手に。最後にエアコンのスイッチを消して真夏とお別れ。
卓上時計が示す時刻は十一時、リビングから出て真冬とこんにちは。
「よし、行こ」
「はーい」
玄関のドアを開ける冬の昼。片手はコートのポケット、片手は彼と繋いで。
かくして、私たちはデートに出発したのだった。