深夜三時にいただきます
まだほんのり暑い秋のある日。
深夜二時半。突然目が覚めた。極度の空腹で餓死寸前だと体が訴えてきたのだ。
抱き枕扱いしてくる腕から抜け出して、暗闇の中から適当に服を探す。捕まえた獲物はデカすぎるTシャツ。まぁ、これでいいや。
私は服を着て、隣で眠るすやすや顔にキスしてからベッドを出た。
何度も来たことがある彼の家は、ここ数年で建設された一LDKマンションの一室。大学生が一人で住むには十分すぎるくらい広いけれど、寝室からキッチンまでが微妙に遠いのは不便だと思う。
起こさないように電気を点けず、真っ暗のリビングを進む。何かを踏んですっ転び、無事ソファーに顔面ダイブした。踏んだのは自分の服たち。こんなところにあったんだ。
やっとこさたどり着いた冷蔵庫。開いて目についたペットボトルの水を飲む。炭酸水だった。予期せぬ刺激に悶絶。
さっきからトラップばかり。ここは危険なダンジョンか。
キッチンの明かりを点けて周辺を物色。お腹空いたお腹空いた。食べるものないかな。
冷蔵庫、炊飯器、戸棚と確認していく。食べるはずだった晩ご飯、気分じゃない。お米、今はいいや。パスタ、深夜に食べるにしてはおしゃれすぎる。そうめん、季節的にちょっと違う。お菓子、そもそも無い。
ふと良いものを見つけた。それは、インスタント袋麺の味噌ラーメン。これでもかと存在をきらめかせて、私に自己アピールしてくる。そんなにも胃袋に入りたいのか。わかったわかった、食べてあげよう。
水を入れたお鍋とスイッチを入れたIHの前でぼーっとしていると、リビングの電気がぱっとついた。部屋が一気に明るくなる。背後から彼がのそのそと大型肉食獣みたいに近付いてくる気配がした。起こしちゃったかな。
振り向いてスウェットが見えた、と思ったら、抱きしめられた。
「急に消えててびびった。何してんの」
「大罪を犯す準備」
「あぁ、ラーメンか。いいね、俺も共犯にして」
「自分の分取ってきて」
「かしこまり」
うなじに頭をぐりぐりと押し付けられてから解放される。そして、袋麺を手に戻ってきた。さすが家主、見つけるのが早い。
水が沸騰するまでの間、またぐりぐり攻撃を受ける。さらさらとした猫っ毛がくすぐったい。その攻撃が不意に止まる。視線の先には、私を殺しかけた炭酸水。
「あれ、俺、出しっぱだったっけ」
「あ、ごめん。私が飲んじゃったの。片付けてなかった」
「いいよ。俺も飲みたかったから」
平気そうにぐっと飲む。前までは甘い炭酸飲料も飲んでいたけど、大学生になってからはもっぱら炭酸水。あとブラックコーヒーもよく飲むようになった。どっちも私は飲めない。なのに、私の家も両方常備しているなぁ、とふと思った。
炭酸水を冷蔵庫に仕舞った彼が、磁石みたいに再びくっついてくる。
「ねえ、私の家の炭酸とコーヒーも消費してほしいなぁ」
「そっちの家、風呂狭いの嫌なんだよなぁ。早く引き払え」
「二年契約だからあと半年待って」
「あと半年も虚無かよ。あーあ、最初から同棲のつもりだったのに」
とんだ無茶を言う。その我慢の反動か、くっつく度にぐりぐり攻撃が止まらないのはなんとかしてほしい。小動物みたいで可愛いのに、私より大きいから対応に困る。
のしかかる圧を受けながら、沸いた水に乾麺二つを投入していると、耳元で「あ」と思い付いた声がした。見ると、そこにはいたずらっぽい笑みを浮かべた顔があった。まるで極悪犯罪を計画していそうな。
「なあ、もう一つ犯罪しねえ?」
「どんなの?」
「ラーメンと一緒にコンビニケーキも食べちゃう」
「わお。そりゃ大犯罪だ」
「んじゃ、買ってくる。お留守番しててな」
私から離れ、意気揚々と支度を始めた。ルーズパンツを履き、スマホと財布をポケットに入れ、颯爽と出掛けていく。
なんだあれ。やけにノリノリだ。あれが深夜テンションというやつか。
コンビニは信号も渡らずに行ける近い距離にあるのだが、それでも想定以上に早い帰宅だった。まだ麺が柔らかくもなってないけど、もう帰ってきた。
玄関で物音がしたと思ったら、すぐさまリビングの扉が開く。戦利品の袋を掲げたドヤ顔が登場。直後、両手で顔を覆った。
「どしたの」
「それ、よく見たら彼Tシャツってやつじゃね?」
「取ったのがたまたまこれだった」
「うわあ」
顔を覆う指の隙間から、上から下までまじまじと見てくる。見たいのか、見たくないのか。
「あーもう、ぎゅうしよ」
コンビニの袋をテーブルに置いて、抱きしめられた。コンビニの往復、走ってきたんだろうなぁ。体が熱かった。
「おかえり」
「ただいま」
髪に息がかかる体制のまま、離れない。
「な、このTシャツ質感良くない? 俺のお気に」
「着心地良い」
「同じの買う? おそろにしちゃう?」
「いらない。けど、時々貸して」
「おそろ嫌?」
「おそろじゃなくてこれがいい」
抱きしめる力が強くなった。苦しい苦しい。背中をトントン叩くと、体が離れる代わりに軽いキスが落ちてきた。
「可愛い」
ふっと口元を緩ませて、彼がケーキを冷蔵庫に入れる。空になったはずのコンビニの袋には、まだ何か入っている模様。フォークとかをもらってきたのかな。お家にあるのに。
コンロのお鍋とにらめっこしていると、彼も隣に並んでお鍋とにらめっこを始めた。私が腕を組むと彼も組んで、私が首を傾げると彼もこてんと傾げる。
「真似っこさんだ」
「真似したくなっちゃうお年頃なんだわ」
「あざといなぁ」
「あざといの嫌い?」
「大好き」
抱きついてこようとするのを華麗に避けて、お鍋の麺をチェック。少し固めでいい頃合い。スープの素を入れようとしたら、止められた。横からひょいっとお鍋を奪われ、麺をざるにあげる。なんてことを。
拍子抜けする私をよそに、彼がニコッと笑う。
「チャーシューいれるか」
「ちゃーしゅー。この前作ってたやつ?」
「そう。ニラもやしもあるよ。それも炒める?」
「にらもやし。うん」
完成間近だったのに残業だ。降って湧いてきた追加の仕事にやる気を出さない私の横で、てきぱきせっせと働く彼。冷蔵庫から具材を取り出し、スープ用だろうか、別のお鍋でも水を沸かし始める。
「あ、たまごも入れる?」
「たまご。ふわとろの?」
「それもいいけど、俺的には茹でたまご」
「半熟が好き」
「おけ」
働きアリを観察しつつ、数歩下がって大事な大事な火の番という名の元に突っ立っていたら、仕事を一段落させたアリに抱きしめられた。不意打ちで避けられなかった。
家主までもがトラップを仕掛けてくる。この家は油断ならないダンジョンだ。
深夜二時四十分。三つあるコンロを同時に使用するシーンを初めて見た。じゅわじゅわと野菜たちを炒めるフライパンに、コトコトとスープを煮こむお鍋と、ぐつぐつとたまごを茹でるお鍋。その横には、ざるにあげた麺。
順番を失敗した。こんなにもきちんとしたラーメンを作るつもりじゃなかったから、先に麺だけできてしまった。伸びてしまいませんように。
「私が具入りのラーメン作るんだったら」
「だったら?」
「最初から全部同じ鍋にぶっ込んでた」
「え。一つの鍋で調理ってこと?」
「うん」
「そんなことしたら、もやしとか鍋から溢れそうじゃね?」
「煮たらかさ減るよ」
「麺だけ茹ですぎとかにならない?」
「胃に入れば皆同じ」
「……なるほどね」
隣から若干引いている声がした。もう何年も一緒にいるのに私の適当さを知らなかったの。と思ったけれど、なんだかいつも料理は彼が担当している気がする。
確かに、食べられたら何でもいいという思考の人間よりも、チャーシューを自作する人間が料理したほうがいい。間違いない。
野菜炒めもスープもできてきた。もうそろそろいいではなかろうか。早く食べたい。待ちきれなくて、スープのお鍋の取っ手を掴む。
「持てる?」
「もちろん」
余裕綽々でスープのお鍋を持ち上げ、られない。想像の倍の重さだった。そりゃそうだ。基本ひとり分しか作らないのに、今日はふたり分だから。
「うーん、パス」
「おけ」
あんなにも重たく感じた鍋が、太い腕によって軽々と持ち上げられる。
スープのお鍋が行く先は。あ、器を出していない。彼もそれに気付いて、せっかく持ち上げたお鍋を置いて、棚からささっと器を出す。アリさん、過労死まで秒読み。
「俺が器出すから」
「うん」
「箸も出しとくな」
「うん」
「あ、勝手に持とうとすんなよ。火傷しそう」
「うん」
主に見ているだけの共同作業。私はなんて楽なんだ。微動だにしてないのに、心配までしてくれる。私はなんて優しい人を手に入れたんだ。
彼が味噌のスープをラーメン用の深い容器に入れていく。茹でた麺、さらに野菜も。もやしたちを盛り付けながら、ぽつりと呟く。
「もやしで溢れる鍋……茹ですぎの麺……」
「どうしたの?」
「一人で料理させなくてよかった。そんなことされたら、やばい儀式してんのかと勘繰っちゃうとこだった」
もやしで溢れても蓋で無理矢理抑え込めるし、茹ですぎの麺はわりと日常茶飯事なんですけど。それなら私は頻繁にやばい儀式をしていることになる。
「ねえ、特別に教えてあげようか。実は今も儀式の最中だよ」
「え、何の儀式?」
「悪魔召喚」
「うわぁ、どんな悪さするやつ?」
「私たちをデブにする」
「はは、それはやばい」
棒読みで呆れたように笑われた。おいこら、深夜の高カロリー摂取をバカにするでないぞ。悪魔も真っ青の結果になるぞ。
深夜二時五十分。ようやくできあがった野菜たっぷり味噌ラーメン。私はたまごの殻剥きを頑張ったので、ふたりで作ったラーメンと言えよう。異論は認めない。
ローテーブルに向かい合い、合掌。いざ実食、と思いきや彼が慌てて立ち上がった。
「チャーシュー忘れてた。切ってくるわ」
「ん」
「の前にキスしよ」
「ん」
よくわからないノリでキスされる。キスもハグも好きだよね。
「もっかい」
「うん」
「……もっかい」
「ん」
「……もうちょっと」
ええい、諦めが悪い。こちらはお腹がペコペコだというのに。地味に一回一回が長い。
「もうだめ」
「これファイナル」
「……や」
「ラスト」
「待っ」
「エンド」
「いつ終わ……」
「フィナーレ」
「…………」
終わる終わる詐欺ばっか。
胸板を叩いて抗議すると、やっと唇が離れた。満足そうな顔が目に入る。なんでもう満ち足りているんだ。メインディッシュは今からだというのに。
「早く、ラーメン」
「そういうとこ好きだわ。恋人より食い気なのな」
「私もコックさん好きだよ。チャーシュー作ってくれるから。早くチャーシュー」
「恋人をコック扱いするとこも好き」
「わ、わかったから。チャーシューチャーシュー!」
この好きの応酬は、どちらかが止めない限り一生続く。何を言っても好きで返される。大抵、私が照れて負ける。勝ち目なし。
しばらくすると、ラーメン店みたいな薄切りチャーシューがやってきた。湯気立つラーメンの上に優しく乗せられる。あぁ、美味しそうな見た目と匂い。飢餓状態の体が歓喜でうち震える。
彼も席について、さぁ次こそは。
「あ」
「今度はどうしました?」
「食べたらしませんか」
「え。今日はもうしたのに」
「誰かさんが途中で死んだから、俺おあずけくらったもん。生殺し」
「そ、それは本当にごめんだけど」
そもそも、どうして私が気絶したと思ってるんだ。誰かさんが晩ご飯を食べさせてくれずに、長時間いじめてきたせいだろう。
言い返す言葉を考えていると、手が掴まれた。むにむにと気持ちよく指先から手のひらまでマッサージされる。
「それとも先にする?」
「晩ご飯の二の舞になっちゃうし、ラーメンは取り返しつかないよ」
「じゃあやっぱ後だな」
「あの、明日は平日」
「俺らは全休だよな」
「その……ご、ゴムあるっけ」
「さっき買ってきた」
最後の砦までも、いとも簡単に陥落した。あのコンビニの袋の中身はフォークなどではなかったのだ。この男、用意周到すぎる。
「やらない選択肢は?」
至極真っ当な提案をしてみると、マッサージで開かれた手の指を絡めるように握られた。ニッコリとした笑顔とともに。
「チャーシュー付きのラーメンにケーキまで食べるんだから、ダイエットしないと、な?」
なんということか。もしかして、そのためにケーキやラーメンの具材の提案をして、意気揚々と準備していたのか。この策士、侮れない。共犯を装ってきた敵だ。世紀の極悪犯罪が露見した瞬間である。開いた口が塞がらない。
しかし、今から犯す大罪のことを考えると、賛同したほうがいいのかもしれない。それで、きっとカロリーはプラスマイナスゼロになる。脳内裁判の結果、強敵策士に無罪判決が下された。
デブの悪魔よ、さようなら。十数分後の私よ、頑張って。
「……手加減してね」
「はーほんと可愛い」
「い、一回だけだから」
「そうだね、いっぱいしよ」
仕方ない。覚悟するしかない。今し方ラーメン調理との戦いを終えたばかりなのに連戦かぁ。いつも私が折れて負ける。何されても惚れた弱みで許しちゃう。勝ち目なし。
気を取り直して、ラーメンに手を合わせた。三度目の正直。向かいの肉食獣と目が合って、微笑まれる。
「「いただきます」」
深夜三時。私は食べて、食べられる。