お兄ちゃんの姿をした別人よ
いつの間に眠ってしまったのだろう。何か、夢を見たようだったが、覚えていなかった。僕は部屋の窓から薄暗い夜の闇が迫ってくるのを見る。僕は、ベッドから起き上がり、電灯を付ける。黄光色の電灯がこの部屋に合っていた。母の声がする。「食事よ」はいと声を出し、僕は、階段を降りる。時計を見ると、もう18時だった。外はまだ雪が降っている。
やーね。また積もるのかしらと母は言って、キッチンで包丁を叩く音がする。ガタンと音がして、「ただいま」と声がする。女の声だ。「おかえり」と母は言う。「あー。疲れた」と言って、居間のドアが開いた。入ってきたのは制服を着ていて、浅黒い顔をした女の子だった。「お兄ちゃん、いたの?」と声がする。「エリ、おかえり」と僕は言う。内心、言ってから、名前に間違いなかっただろうか? とどきりとしたが、エリは「よっこいしょ」とカバンを居間の隅っこに放り投げた。「あー。疲れた」とまた、声を出し、僕の目の前に座る。僕の顔をじっと見る。あれ? と声を出して、じろじろと僕の顔を覗きみる。どうしたの? と僕が言うと、うーんと声を出す。お母さん、食事まだ? と声をキッチンに向かって、張り上げる。
今日の夕食はハンバーグだった。デミグラスソースがかかっていて、美味しい。「美味しいね」とエリは、口にハンバーグを詰め込んで言う。うん、とまた答える。
テレビはバラエティー番組で、芸人が何かを言っていた。僕は、まだ、緊張した面持ちで食べていた。エリは時折、こちらを見ながら、またテレビに目を移す。母は、父の晩御飯の用意をしている。
僕はご飯を食べ終わると、自分の部屋に戻っていった。そして、ドストエフスキーの「悪霊」を読んでいた。コンコンとノックの音が聞こえる。
「お兄ちゃん?」
とエリの声がする。僕は「何?」とドア越しに聞くと、
「ちょっと話があるんだけど」
と言う。僕がドアを開けると、エリはにこにこ笑いながら、するりと僕の横を抜けて、ベッドに横たわった。そして、じっと天井を眺めている。エリは徐ろに言った。
「お兄ちゃん。貴方は誰?」
僕の心臓はばくばくと音を立てた。
「清水章弘だ」と僕は答えると、
「嘘。貴方はお兄ちゃんじゃない。お兄ちゃんの姿をした別人よ」
とエリは僕の方を見て、言う。エリの目は真っ直ぐで、僕の目を捉えていた。僕は返答に窮し、口を噤んだ。
「お兄ちゃんは、大人しい人だった。そして、心の奥で、何時も何かを考えていた」エリは言う。僕は何も答えられず、ただ俯いている。エリは僕の目をまだじっと見ている。
「エリ。僕は……」
と言うと、エリは、
「お兄ちゃんは死んだのね」と言った。僕の心臓を一つ音を立てる。
「お兄ちゃんは死にたがっていた」
エリは少し間を置いて言う。
「口には出さないけれど、『死』はお兄ちゃんを蝕んでいた」
僕は何も答えられないまま、エリの目からは静かに涙が零れる。エリは泣きながら、くすくすと笑い出した。
「馬鹿よね。お兄ちゃん。自分の心の殻に閉じこもって、何も言わないまま死んでいくなんて。私と話す時も、何時も何も答えず、頷くばかりで、自分を曝け出すのを怖がって」
僕は溢れだしそうな心の言葉を必死に我慢していた。
「違う。僕は死にたいと同時に、生に執着していた」
エリは驚いて、僕の方を見た。ベッドから起き上がり、
「貴方、お兄ちゃんを知っているの?」
「僕は、新谷元也だ。でも、清水章弘の気持ちもなんとなく分かる」
エリは僕の目を見つめながら、じっと何かを考えている。
「章弘が何を考えて、死んだのかはわからない。でも、僕は章弘として生まれ変わった。その理由を探したいんだ」と僕は言った。
エリは少し腑に落ちていないように、何も言わない。僕も黙る。闇が部屋に忍び込む。沈黙が二人の心のなかを襲ってくるかのようだ。
「ごめん。ちょっと出て行く」
と言って、エリは部屋の外に出て行った。