カフカの「変身」
大学の教務科に行って、僕は清水の家の住所を聞いた。最初、聞くときは、清水の友達だと言った。個人情報だと知っていたが、どうしても渡したい物があると言ったとき、しぶしぶ職員は教えてくれた。僕はメモして、そこを立ち去る。帰りがけに、笑っている女子大生が横を通りすぎる。一年生だろうか? まだまだ希望に燃えていて、溌剌とした歩き方だ。僕は、少しずつ溜まっていく雪を足で掻き分けながら、歩く。足先がじんじんと痛みながら、新谷は何を考えて、この大学に通っていたのかを思いだすが、段々、新谷の記憶が曖昧になり、僕は雪のように、真っ白な人間になったような感じがした。
清水の家の前で立ち止まる。住所はここで間違いないはずだ。僕はジーンズの右ポケットを叩く。鍵の音がして、僕は真鍮でできた鍵をポケットから取り出す。ポケットの中の鍵は寒さで冷たかった。僕は鍵を使って、ドアを開ける。心臓の鼓動が高まる。
「おかえり」
と遠くから女性の声が聞こえる。
「ただいま」と僕は恐る恐ると言う。
50代くらいの女性がこちらに歩いてくる。
「どうしたの?」と心配そうに見詰めている。
「大学の授業は?」
「今日、ちょっと調子が悪いんだ」
と言うと、「あらあら」と言って、リビングに戻っていった。僕は、玄関で靴を脱ぎ、その女性の後をついていく。10畳くらいの広さのリビングは綺麗に整頓されていて、洗濯物の山がひとつできている。ゆっくりしなさいよと奥から、コーヒーを入れ、テーブルに置く。僕は椅子に座り、そのコーヒーに口をつける。女性はテレビを付け、衆議院選挙の速報を見ていた。僕は少し居心地悪く、また、コーヒーを飲む。コーヒーを飲むと、次第にリラックスしてきた。
「章弘」と女性が言うと、僕は、少しどきっとして、「何?」と答える。
「ちょっと声が変よ」とテレビを見ながら、言った。
「うん。風邪引いたみたい」と僕が言うと、
「あら。そう」と言った。僕は、まだ居心地悪く、椅子に座っている。衆議院選挙は自民党の圧勝だった。僕は大きな窓から、外を眺める。雪がまだちらほらと降っている。僕は席を立ち、
「部屋に戻るよ」と言うと、女性は「うん」と答えた。僕は階段を上り、自分の部屋に帰った。そして、ベッドに横たわる。そして、今までのあれこれを考える。先程の女性が母親だろう。すると、ふと、自分が無意識に、部屋に辿り着いたことに気付く。なぜ、此処が、自分の部屋だと分かったんだ? 僕は見知らぬ風景を眺めると同時に、部屋に馴染んでいることに驚く。ベッドはふかふかして、心地良い。僕は部屋を観察する。本棚には本が沢山並んでいた。僕は理学部だった筈だ。でも、見知らぬ小説が所狭しと並んでいることに、落ち着きを感じている。僕はベッドから降りて、本棚の本を一冊手にとってみる。カフカの「変身」。パラパラと小説のページを繰る。小説のページは体臭を含み、何回も読まれた形跡がある。主人公は毒虫になるんだっけ? と思い出す。まただ。読んだこともない筈なのに、内容を知っている。僕は次第に不安になってくる。僕は新谷ともう一度、呟いてみる。そして、頭のなかでシュレディンガー方程式を書いてみる。しかし、方程式は書けたが、意味を為さないように感じた。