芥川龍之介の鼻
夜が明けた後、僕は、リビングにいた。父は、新聞を眺めながら、時折、うん、という声を出している。母は、キッチンで、目玉焼きを焼いている。リエが珍しく、起きていて、僕の隣で、朝食を食べている。テレビでは、国内の事件を扱っていた。リエが、
「お兄ちゃん。食べないんだったら、パン頂戴」
と言って、僕の前に置いてある、皿から、パンを取る。僕はこんな日常もあるんだなと思っていた。薄れつつある、新谷元也の記憶の中の母は、いつもせわしなく動いていて、気苦労が絶えなかったんだなと思う。僕は二重の記憶を持っていた。時折、その記憶が混同する不安もあった。エリがこちらを向いて、観察するように見ている。僕と目が合うとにこりと笑った。一気にパンを口に放りこんで、エリは、クラブの道具が入った、バッグを持ち、「さあ、朝練だ」と言う。
「行ってらっしゃい」
と母は言う。父は、また、うんと一声出した。
「行ってらっしゃい」
と僕も言う。「じゃあね。お兄ちゃん」とエリは出掛けて行った。
僕は大学の構内を歩いていた。講義に出ようとは思わなかった。ただ、食堂に座って、うどんを啜りながら、芥川龍之介の「鼻」を読んでいた。僕は、文章にのめり込みながら、違う事も考えていた。講義に出ないで、これからどうしよう? 将来の見通しも立っていない。僕は、ぶつぶつ切れる文章を読みながら、宛もなく考えていた。雪は微かに残っていて、外の寒さを感じさせた。




