あなたは死にました
僕は焦っていた。大学の授業に遅れそうだ。講師は出席率の高さを成績に考慮する。今、4年生の僕は単位を落とすと、留年してしまう。
駅まで走るが、その途中には踏切がある。今日に限って、踏切が開くのが遅い。急行電車が目の前を通る。僕は足を鳴らしながら、今かと待つ。だが、何時まで経っても遮断機は開かない。僕は周りを見渡し、思い切って遮断機を開け、飛び出した。
「ここは何処だ?」
僕は心の中で思う。真っ白な部屋。木製の机と対面の椅子以外は何も置いていない。僕はひとつの椅子に座っている。ぼんやりとした頭を揺する。夢の中だと錯覚している。だが、何時まで経っても、夢は覚めない。
すると、ガチャと音とともに、白い服を着た、男が入ってくる。何歳くらいだろうか? 40歳代くらいだと思われるが、若くも見えるし、歳をとっているかのようにも見える。
「目は覚められましたか?」
その男性は言う。厳かな雰囲気をたたえた、その男性は静かに僕の前に座る。
「貴方は?」
僕は言うと、その男性は静かに微笑む。
「私に名前はありません」
男性は微笑んだまま、答える。名前はない。僕は怪訝に思う。一体、この男は何者なんだ。
「貴方は死にました」
唐突に男性は言う。僕は、その言葉にどきりとする。死んだ?
「死んだってどういう事ですか?」
男は身動ぎもせず、静かに僕の目を見詰めている。青色の目はどこまでも澄んでいる。
「貴方は踏切の遮断機を乗り越えました。そこで、電車が通ったのです」
「僕は、死んだ……。じゃあ、此処は何処ですか?」
「此処は貴方を裁く所です」
男はまだ、静かに僕を見詰めている。僕は動揺していた。もう、生きてはいないのだ。
「しかし、まだ、あなたは何処に行くかは決まっていません」
「何処?」
「そう。貴方は生きたいですか?」
「それはそうですが」
僕はまだ男の言葉を飲み込めずにいた。
「貴方は別人になって、生きることはできます」
「別人となって?」
「はい。貴方はもう新谷元也ではありません」
「もう。僕ではないと言うことですね」
青い目をしたその人はなにも答えない。今までの人生を振り返る。特に、浮き沈みのない平坦な道のりだった。当たり前に高校に行って、当たり前に大学に行っていた。ぼんやり毎日を過ごして、それなりに幸せだった。サチのことを考える。僕の彼女だ。もう、サチとは会えないのか?
「貴方はもう一度、人生をやり直すのです」
その人の黒髪がすこし揺れる。
「なぜ、僕は死んだのですか?」
その人は少し、目を見開く。青い目が白い電灯に揺られ、様々な色を称える。
「そのお答えは、今は出来兼ねます」
その一言を言ったまま、その人は、すこし微笑みながら、
「いかがなさいますか?」
と言う。僕は悩み、唇を噛んだ。
「僕は誰になるんですか?」
僕が恐る恐る聞くと、男性は静かに頭を振った。その質問にも答えてくれない。
「生きたいです」
僕は最初、弱く言った。そして、もう一度、強く言った。
「生きたい」
男は静かに頷き、
「分かりました」
と言い、手元の書類を揃え、椅子から立ち上がった。貴方は生きたい。生きる覚悟が出来たと言うことですね。と最後に彼は言った。青い目が輝いた。その色はどこまでも青かった。
「では、私がこの部屋から出てから、その扉を開けてください。すると、貴方は別人になっていることでしょう」と彼は言う。そして、白い服の袖を神経質そうに直し、扉を開けて、出て行った。静寂が部屋の中に横たわる。僕はまだ、どうしようか迷っていた。生きると言ったものの、部屋を出ることに躊躇した。何故、躊躇っているかは僕は分からなかった。生きるということはそんなに覚悟がいることなのだろうか? 僕は2.3分、その部屋をぐるぐると歩いた結果、意を決して、扉を開けた。光が僕を包んでいた。