49 黒霧の悪魔バルドーク
「ああ、骸に沸いた下級悪魔ども…汝死して帰するところあるや?」
死体は何も言わなかった。ただ四肢を動かせているだけだった。十五体のそれは、おぞましい気配をまき散らしながら向かって来た。
「わが名はジェノシウシスコルサイム。そなたたちを屠るものの名だ。せめてもの手向けとして聞いておくがいい」
常人では見えないスピードでその屍は襲って来た。狙うは首筋。いや、どこでもその牙が当たれば悪鬼のしもべと化す毒を持つ。だが赤槍はその屍より数段速かった。まるで槍が何本もあるかのように見えた。十五体の骸はあっというまにただの腐肉になっていた。
「ふふん、まあそんなことだろうとは思ったけどねえ」
どこからともなく邪悪な声がした。聞いていて不快になる、そんな声だ。
「誰だ」
「クックククク、その落ちつきっぷり…きさま魔族、だな?」
「だとしたらなんだ?きさまいったい…」
いきなり黒い影が覆いかぶさってきた。巨大で邪悪なそれは血の匂いがした。とっさに男は赤い槍を突き出したが、その黒い影には届かなかった。
「乱暴だなあ。いきなりそんなもので突いてきて」
「どこの口がそう言っている」
「いいだろう。まあ魔族は人間と違って面倒だし、その血もまずいが…冥界に引きずり込んで、わがペットの小鬼たちの餌にでもしよう」
「冥界?きさま悪魔か?」
「お前は誰と向き合っていると思ったんだ?」
「ふん。魔王さまがおられたころは、震え上がってその姿を現すこともできない腰抜けと思っていたが、まあそれは正しかったようだとそう思っている」
「なめるな」
悪魔が渾身の力を手に集めている。黒い霧がたち込め、その姿を隠しはじめた。
「堂々と正面からかかって来れないのか?」
「威勢がいいのも今のうちだ。お前はもうこの霧から逃れられん。この霧は呪縛の死の霧なのだ。もう体は自由にならない」
「なんだと?」
「ふふふ、相手が悪かったな、魔族。わたしはバルドーク…黒霧の悪魔バルドークという。死ぬ前に名を聞けてよかったな。さあ死ね」
「させないよっ!」
小さな影が飛び込んできた。黒い霧を切り裂いて悪魔の前に立ちふさがる。
「リエガ!手を出すんじゃない!こいつは手ごわい。みなを連れて逃げろ」
「ジェノス、あんたをおいて逃げらんないわっ!」
「馬鹿なことを。俺がこんな小者に負けるわけがなかろう」
「いや今あんたピンチだったでしょ?」
「どこをどう見たらそういうことになる?あれは呼吸を整えていただけで…」
「嘘つくな!身動きできなかったくせに」
「だから呼吸を…」
「うるさいっ!なんなんだ!おまえら勝手にわけわからんことをペチャクチャと!やる気あんのか!」
悪魔が怒った。
「ほら、邪魔だそうだ。あっちへ行ってろ」
「わかったわよ。まったくせっかく人が親切に言ってあげてるのに」
そう言って獣人はしっぽを振りながら走って行ってしまった。
「まったく度を越した馬鹿どもだな…」
「悪魔よ、それはそっくりそのままお前に返してやる」
「なに?」
「お前の足元を見てみろ。リエガが飛び込んできてお前が気を取られたとき、そこに仕掛けたものを」
「ああん?」
悪魔が足元を見るといきなりそれは発動した。現れた円陣のなかに無数の文字が浮かんでいた。
「こ、こりゃ魔法陣?しかしこんなものは見たことがない。ああ、足が離せねえっ!」
「ある人の…いや本当に人間の少年が考え出したものだ。魔王には効かなかったが、お前のような小者にはちょうどいいだろう」
「馬鹿な、こんなもので…」
その魔法陣は突然無数の呪詛を放出した。一文一文は他愛ない攻撃呪詛だったが、それが無数にあると威力はとんでもないことになる。
「あいつはそれをクラスターと呼んでいた。多くの魔族がそれで倒された」
「ば、馬鹿な!」
悪魔はとっさにおのれの下半身を自らの腕で切り捨てた。上半身だけとなった悪魔はどす黒い体液をまき散らしながら飛び去って行った。
「ほう、さすが悪魔だ。逃げ方も醜いものだな」
消えかかる魔法陣にはもう灰になりつつある悪魔の下半身が崩れ落ちていく。それが冷たい夜風に飛ばされていった。
「悪魔は?」
黄色い仮面を取ったリエガがジェノスに聞いた。廃城の、大広間だったところに亜人たちが休んでいた。さまざまな種族がいて、みな心配そうな顔をしていた。
「逃げた。さすがに俺でも飛ぶものは追えないからな」
「なんだよ、仕留めたんじゃないのか」
「あれはデーモンクラスだ。俺一人じゃ到底勝てはしない。マティムの魔法陣のおかげで助かったようなもんだ」
「仕方ないね。でも隠れ場所が知られた。もう今夜にでもどこかに移動しないと」
「ああ、男爵の追手がくる。もう北に向かった方がいい」
「でもまだ来週の襲撃計画が…」
「あんなやつの存在が明らかになった以上、それはあきらめるしかない。今夜は油断させ勝てたが、今度はそうはいかん」
「ずいぶん弱気だな。魔族一の戦士が」
「おのれを知るのもまた強さだ」
「そういうことにしといてあげる」
リエガはそういうとまた仮面をかぶり直し、亜人たちに出発するよう言いまわった。亜人たちは急いで廃城をあとにしはじめる。
「マティム、いまごろどうしてるかな…?」
「運がよければ会えるさ」
「そうだね」
北風は真っ暗な夜空を吹き抜けて、遠くまで響く唸り声をあげていた。