序 晴天にて、少年少女希う その一
「これより、思業の儀を始める」
張り詰めた空気に、壮年の陰陽師の声が厳然と響き渡った。
ーー遂に、この時が来たんだ………。
端麗な顔に感情が滲まないよう努め、五御門惟幸は己を鼓舞するために拳を握った。
後ろで三つ編みにした黒髪を一度揺らせ、琥珀色の瞳が前を見据える。
その眼光に宿るのは期待と不安、そして決意が織りなす若き情念。
此処は葦洲が国都ーー、宮京に在る五大陰陽寮の一つ、その庭園である。
燦々と陽の光射す晴天下にて、水干を着た齢十二の少年少女が地面に刻まれた法陣を前にして、似通った瞳をしていた。
思業の儀。それは一生に一度、陰陽師が己のみに従う唯一無二の式神を創造る大儀式。
この儀式により誕生する式神は例外なく高位であり、その主人に対し無上の忠誠を持つ。
戦闘において葦洲の呪術師は近接戦に極端に弱く、それは陰陽師も例外ではない。
そして、それを補うようにして式神が存在しているのだ。
悪行罰示神と呼ばれる、荒ぶる妖魔や鬼神の類を調伏し、己が式神としたものも有るが、此方は本人の実力不足により逆に取り込まれる危険性が伴う。
故に、思業の儀より生まれる式神でその者の将来性がある程度決まってしまうと言ってもいい。
先ほどからすでに数人、思業の儀を終わらせている。彼らは自分の式神を見て満足げにしていた。ちらりと其方の方にも目を向ける。
数量も容貌もそれぞれバラバラ。
お狐さまや白蛇、熊、狼やら様々………、中には人の姿をした式神もいる。
人の姿をした式神は、よく獣姿の式神よりも高位だと勘違いされがちであるが、実を言うとそんな事はない。
極端な例を挙げると、筋骨隆々とした武士姿の式神が、鼠姿の式神に負けたと言う話も聞くという。
では何が、式神の格を決めるのか。それは………。
ーーうん?なんだ………?
自分を囲む騒めきが思考を途絶えさせた。
周りの人々がヒソヒソと何かを話しながら、一つの方向を見ている。
何事かと、その方向を見ようとしても、人だかりで視界が埋め尽くされる。
ーーこれは………、参ったな………。
惟幸は一応宮京在住ではあるが、国都と言っても外れの外れに位置する処に住んでいる。なので、此処にいる高級住宅区に住むであろう少年少女らとは一切の面識を持たない。
人見知り、と言う訳ではないが、惟幸は積極的に知らない人とは喋りたがらない。
しかしながら、困ったことに年相応の好奇心は持ち合わせていた。
仕方がない、という気持ちで右前の少年に声をかける。
「あの………、少し良いでしょうか」
「はい?」
「これは何の騒ぎでしょう」
惟幸の疑問に対して、少年は少し不思議そうな顔をした後、平然として答えた。
「何って、氷森の空澄様ですよ」
「そうでしたか………、道理で。氷森家の人間の番なのですね」
惟幸は納得の表情を浮かべて頷いた。
陰陽師で氷森といえば名門中の名門、巷では荒谷、大灘、鈴川、真代と連ね五大家と呼ばれている。
それ程の貴種の思業の儀となれば、それは騒がれるだろう。
そう、思い至ったのだが………。
「何を言ってるんですか、空澄様といえば彼の氷森の美姫ですよ。あ、ほら!」
丁度その時、人だかりに隙間ができて、そこに少女の姿が見えた。
瞬間、予期しなかった衝撃に襲われる。
背中まで伸びた射干玉の如き純黒の艶髪。白雪を思わせる透明感のある肌。瑠璃色の瞳を長い睫毛が飾る。
少女の可憐さと女性の妖艶さを兼ね備えた精巧なる美貌。これでまだ十二なのだ、将来性を期待せざるを得ない。
ーーそういえば………。
氷森の美姫、と言う呼び名には聞き覚えがあった。授業の休憩時間に同期から聞いたことある気がする。そうか、彼女があの………。
当時は十歳で美姫など大袈裟なと笑っていたが、成程、これは確かに美姫だ。
どうやら、みんなが反応したのは氷森の名の方ではなく、空澄という名の方らしい。
彼女は泰然と法陣の前に立つと、白魚の如き美しい指を胸前に印を結び、呪いを唱えた。
「ーーー願い奉るは我が思業 陰陽を為す天地の式」
「ーーー汝は善悪を見定める 汝は因果を禊ぐ」
「ーーー徒人見えぬ貌を我が眼に写し給え」
ほわり、陣が煌々と光を放つ。
刹那、空気が凝固した様に感じた。そして花弁舞い散ると共に淡い香りを………。
ーー嗚呼、これは………。
「異象か………」
そっと、誰かが呟いた。
絢爛に吹雪く花々が消え失せる時。
陣の中央にて、いつの間にか式神が悠々と浮かんでいた。
一体は黒引き振袖を着た、真摯な眼差しをした女性。もう何者にも染まらぬ黒が厳かに佇む。
一体は色打掛を身に付けた、穏やかに微笑む女性。色とりどりの花の香りを漂わせる。
一体は白無垢を纏う、恋に愁う儚さを思わせる女性。触れれば消えてしまいそうな純白が目を奪う。
三体の美麗を体現したかの様な式神に皆の衆が騒く。無理もない、あんな異象が起こったのだ。とんでもなく格の高い式神なのだろう。
「静粛に!思業の儀は見せ物ではない!次の者、疾くと来い!」
壮年の陰陽師の怒鳴りに威圧され、少年少女の騒乱はしん、と止んだ。
不機嫌そうに眉間に皺を寄せる陰陽師は手中の紙を見る。
「次、五御門惟幸」
「はい」
どっ、と止んだはずの騒乱がまた巻き起こる。
「五御門って、あの双家のか………!?」
不意に誰かが、そう零した。
陰陽道双家。暦道の藤宮、天文道の五御門。この双璧をなす家は朝廷、帝直々に双家の名を与えられた。
先程述べた、飽くまで名門の間で呼ばれる五大家と違い、双家は陰陽師を束ね統べる御家なのである。謂わば、格そのものが異なる。
傲慢でも何でもなく、これは単なる事実。そのことを知らぬ陰陽師などこの世に居ない。
ついさっき、声をかけた少年が信じられないものを見る目で此方を見ていた。
惟幸は苦笑を一つ、お辞儀を一つしてから前へと向かった。
その様子を見た皆が道を開ける。
ーーこれは参ったな………。
では、惟幸はそんなやんごとなきお方なのだろうか?答えは、否、である。
彼は五御門家の庶流なのだ。曽祖父の代に本家より別れた一族であり、ぶっちゃけた話、嫡流にのみ伝わる陰陽道の書物にも触れられないし、ただ五御門と名乗ることを許された以外は、そこらの弱小貴族と殆ど変わらないのである。
背中で明確に感じ取れてしまう視線を無視しながら、惟幸は思う。
ーーさっさと、お終わらせよう………。
漏れ出してしまいそうな溜息を飲み込み、惟幸は陣の前に立つ。
両手で印を結び、呪いを唱える。
「ーーー願い奉るは我が思業 陰陽を為す天地の式」
「ーーー汝は善悪を見定める 汝は因果を禊ぐ」
「ーーー徒人見えぬ貌を我が眼に写し給え」
陣が光を放つ。
どうしようもなく、身構えてしまう………が、どうやらそれは要らぬ心配だったらしく、異象は一切起こらなかった。
何を期待してたんだか、と自分を嘲った後、陣の中央を見遣った。
陣中に集められた光の中から、七つの物体が飛び出してきた。やがて、それらを包んでいた光が淡く散り、その姿が露わとなる。
その姿は七人の童。五、六歳ほどの幼姿の七体の式神は此方を見ると大輪の花のような笑顔で手を振ってきた。
次の者の邪魔にならない為にその場から移動しようとする。手招きをすれば、ぴょこぴょこと着いて来る。最後尾の子がはしゃぎ過ぎて転びそうになるが、何とか踏ん張りついた。
………庭園の端に足を落ち着かせると、じっくりと己の式神を見つめた。七人の童は顔が全く同じであり、髪型も同じおかっぱ。
流水紋と何らかの植物を模した和柄、模様でそれとなく彩られた、振袖によく似た風流な着物と、同じく植物を模した髪飾りが見分けるための唯一の手がかりになっている。
それらを詳細に観ると、あることに気づく。
「ああ、春の七草か」
芹、薺、御形、繁縷、仏の座、菘、蘿蔔、これぞ七草。人日の節句にこの七種の野菜を粥に入れて、邪気を払い万病を除く為に食べる風習があるように、この七草には除厄招福の力があるとされている。
「さて、どうしたものか………」
陰陽師には、その式神に元の名前がない限り、名前をつける風習がある。それは、名前が有った方が招来の時とか、なにかと便利だから………。
ついさっき、自分の式神として誕生したこの子達に名前などあるはずがなく、生み出した自分が名付け親となるのが筋というもの。
己に趣が無いとは言わない。しかし、名前は多かれ少なかれその性質に影響を与えてしまう為、安易にはつけられない。かといって至高神霊の名前をつければ万事解決と言うわけにもいかない。そうしてしまうと却ってその性質を歪ませるからだ。
「と、なれば、七草に因んでつけるのが無難と言ったところかな………」
ーーあ、そうだ。
幼き頃の記憶に、確か………。
微睡む追憶を吟味するかのように、そっと目を閉じる。
うん、と頷いて再び眼を開く。
「芹鹿君、ナズナ媛、母子坊、出日千代、宝蓋丸、鈴奈御前、清白郎………、なんて、どうかな?」
単純にも程がある。そんな感想が溢れてしまいそうな名づけに、我ながら恥ずかしいものだと思ったが、同時にこれが良いとも思えた。
式神達の反応を伺う。ぼーっと、なぜか驚いた風な表情を浮かべた後、幸せそうに微笑んだ。可愛らしいその笑顔には愛着が湧かない方がおかしいというもの。
ふふふ、と惟幸も微笑み返す。何だか初対面の筈なのに懐かしいものを感じ取れてしまった。
「さすがは五御門、なんと霊性の高い式神なのしょう」
凛、と鈴のような声音が耳に届く。振り返れば、瑠璃と琥珀が相対する。其処に立っていたのは花も恥じらう氷森の美姫、氷森空澄であった。
「お初にお目にかかります。私は氷森家の当主、氷森長房が次女、氷森空澄と申します。」
「これは………、氷森の御令嬢。美姫の貴名は前々から聞き存じております。今日初めて御尊顔を拝見しましたが、聞きしに勝る美貌と承知いたしました」
「とんでもありません。五御門家の方からその様な御言葉、身に余る光栄でございます」
彼女は礼儀正しく答弁を返す。流麗な立ち居振る舞いに思わず感嘆の息を零しそうになってしまった。
「いえ、そんな………」
己よりも上位の者の折り屈み。
社交の場での経験を殆ど持たない惟幸に、その重さを受け止める器量があるはずもなく言い澱んでしまう。
これ以上、厄介な事にならぬよう、この会話をさっさと切り上げる言葉を模索していると。
「恐れ入りますが、五御門惟幸様。小賀川の会でもご覧になられなかったと思うのですが………。
それに、五御門家の思業の儀は藤宮家と共に長伯山で行うのでは?もし何か事情でもあるのでしたら、この空澄、相談に乗りますが」
小賀川の会………、聞いたことのない単語ではあったが、察するに双家とその他の重鎮家を集めた宴会か何かであろう。
周りの目も集まって来てしまい、面倒臭いことになったなと当惑しそうになる。
しかし、僥倖でもあるのではと思い直した。此処で、誤解を解けるのではないか、と。
好機、これを逃すまい、と惟幸が言葉を差し込む。
「何か、大きな勘違いをされてる様ですが………、私は五御門の庶流で御座います。五御門を名乗ることこそ許されましたが、本家とは生まれてきた時から何ら関わりはありません」
なんだ、庶流か。そんな言葉が聞こえて来そうな程、野次馬から興味関心が遠ざかっていくのを肌に感じる。
よかった、と安堵するのも束の間、目の前の彼女がやたら冷然とした顔でいるように見えた。
「何ら、ですか?」
「い、いえ………、その、何らというのは言い過ぎかも知れません。五御門の名を授かったからには、一切合切無関係ではないのかも知れません………」
「………」
「えっと、何か………?」
「いえ、お邪魔してしまい申し訳ありませんでした」
ぺこり、と頭を一度下げてから彼女は去って行った。
………思業の儀が終了した。
今回、異象が起こった者は全部で十八人。いずれも五大家か重鎮の家柄であった。
壮年の陰陽師が皆に向かって発言を始める。
「………今日この瞬間より、君たちは正式に陰陽師となった。式神は君たちと共に成長を果たす、今回の結果が如何なるものであろうと精進するように!以上だ」
簡潔かつ熱気に満ち溢れた言葉、改めて実感した。
念願の陰陽師と成れた。この事実にただひたすらに心昂る。
ーー但し、疑問が一つ小骨のように引っ掛かっていた。
先程の七森空澄との会話。
『恐れ入りますが、五御門惟幸様。小賀川の会でもご覧になられなかったと思うのですが………。
それに、五御門家の思業の儀は藤宮家と共に長伯山で行うのでは?もし何か事情でもあるのでしたら、この空澄、相談に乗りますが』
彼女の言動と仕草、その一つ一つから、教養、品性、そして知性を感じ取れた。間違いなく賢い女性なのだろう。
だからこそ思わずにはいられない。
ーーどうして、あんな無意味な問答を?
会話から、彼女は自分が小賀川の会なる会合に参加しなかったことを知っていた。そして今、長伯山ではなく陰陽寮で思業の儀を行う自分を見た。
ーー賢い彼女なら、私が庶流だと直ぐに分かっただろうに………。
五御門と聞いて、例え其処が陰陽寮での思業の儀だったとしても、双家の人かも知れないと考えるのは何らおかしくない。
しかし、双家と交流の深い五大家の令嬢である彼女は自分が本家の人ではないと確信出来る程の情報を持っていたはずだ。あんな質問を彼女がすること自体、そもそもおかしい。
「………まあ、いいや」
グッ、と背伸びを一つ。肺に空気が浸透し、疲労が押し出されるように流れる。そして、清爽に息を吐き出した。
心機一転、という程でもないが、これから新しい道が始まると考えて、惟幸は七草童と共に一歩を踏み出した。
朗々たる晴天は、尚も少年少女らを見下ろす。
きっと、これは吉兆なのだろう。
陰陽道とか関係なく、そう思うことにした。