元人魚姫ですが、今はただの泡です、こんにちは。
その日、俺は浴室に入った瞬間妙な気配を感じた。
浴室はいつもと変わらず、なみなみとお湯の入った浴槽は石鹸で泡立っており、最後にシャワーで流せるようになっている。
「……磯の匂い?」
いつもとは少し違う。
そんな勘のようなものを頼りに、五感を研ぎ澄ませれば、ふと鼻孔に磯の匂いを感じた。湯船は勿論海水ではなく、真水を使っている。それなのに感じる磯臭さ。
気づいた異臭に、俺は眉間に皺を寄せた。
もしかしたら、何か毒のようなものが湯船に混ぜられているのだろうか。
王位継承権を持つ俺はこれまでに何度か襲われた事がある。
「おい。誰か——」
外にいる従者を呼ぼうと声を出した瞬間だった。ボコボコっと湯船がまるで生きているかのように動いた。正確には湯船ではなく、泡だ。
泡がうごめいている。
「魔物か?!」
『違います。ただの泡です!』
俺の言葉に、泡が言葉を返した。……言葉を返しただと?!
俺がギョッとして睨むが、泡は揺れるだけだ。今のところ攻撃を仕掛けてくるような気配はない。
そもそもだ。
魔物は喋らない。それだけの知性を持ち合わせていない、魔力を持つ獣を指す単語だ。
人間ではない、言語を持つ者は異種族と俺達は分類していた。つまり、この泡が……異種族。相当違和感のある外見だ。どこに口があり頭があるのだろう。
「……ただの泡が、何故我が城の、湯船にいるんだ」
喋る泡はただの泡ではない気がしたが、だったらなんと呼びかければいいのかも分からない。
『話せば長くなるのですが……。そのままでは、寒くありませんか? どうぞ、どうぞ、ご一緒に風呂にお入り下さい』
「……他者と一緒の湯船に入る趣味はしていない」
確かに裸なので寒い。寒いが、よく分からないものと混浴するのも背筋がゾッとする。もしかしたら、湯船に入った瞬間窒息死させようとしているのかもしれない。
『チッ。折角混浴ついでに、筋肉を触っておこうと思ったのに……。あっ。決して窒息死させようとか、そういうのは狙ってませんから。そもそも、私、死体を愛でる趣味ないですから』
暗殺を狙っていないということは分かったが、言動が可笑しいというか、少々違う意味で気持ち悪い。筋肉を触るとか、混浴とか、意味が分からない。
「何で、触ろうとしているんだ」
『そりゃ、王子の事が好きだからですよ。好きだから、隅々まで知りたいじゃないですか』
……好きなのか?
しかしその言葉に、嬉しいという気持ちは湧かない。いや、泡に好かれた上で、筋肉を触りたいと言われて嬉しい性癖の持ち主は、世の中ほぼ居ないと思う。少なくとも俺は違う。
『ただ、少し広背筋とか肩関節周辺の筋肉が足りないですね。それじゃあ、早く泳げませんよ。腹筋は見事です。割れてますね。尻もいい形です。後——』
「み、見るな!!」
何処に目があるのか分からないが、俺は今生まれたままの姿だ。泡に視姦されるとか最悪すぎる。とっさに手で大事な部分を隠そうとするが、微妙だ。凄く間抜けな感じになっている。
『失礼しました。そうですね。大腿四頭筋をジロジロ見てすみません。私には大腿四頭筋がないので、ついつい見てしまいました。しかし、しっかりそこを鍛えなければ、今度こそ船が難破した時に、陸まで泳ぎ切れず死にますよ』
「えっ?」
『前は運よく私がいたから良かったですが、まず船で難破した時は、できるだけ体力を使わずに乗って浮いていられるものを探して下さい。人間は低体温になると死んでしまいますから』
何故俺が難破した事を知っているのだろう。
いや、俺が奇跡の生還を遂げたことはそれなりに有名でもある。そして俺を助けたという少女と婚約をして――まて。今、この泡が私がいたから良かったと言わなかったか?
「ちょっと待て。俺を助けたのは、お前なのか?」
『陸まで運んで、水を吐き出させたのは間違いないですね。その後の救助は人間の誰かだと思いますが。大変だったんですよ。海水を吐き出させるの。腹筋鍛えすぎてて、お腹を押しても固いので』
マジか。
確かに、俺を助けた少女に人命救助の知識があるような感じではなかったし、泳いで俺を助けたということもないだろう。
『あっ。信じてません? えっと。じゃあ、その時服が重いんで、ズボンとジャケットと靴を脱がせて連れてきたって話をしたら分かります? ちなみにその時のパンツは白でした』
「やめろ。思い出させるな」
確かに俺が海岸で倒れていた時の服装は酷いものだった。海難にあったわけではなかったら、明らかに不審者だ。
そして、その日の俺のパンツの色は白だった。
『思い出してもらわないと困りますよ』
「何故だ」
『だって、今婚約をした女、国家転覆を狙ってますから。王子を助けたというのも真っ赤な嘘。だって私ですもん。ハニートラップに簡単に引っかからないで下さいよ。これじゃあ、おちおち普通の泡人生を進めないじゃないですか』
泡は腹を立てているのか、ぱちゃんと水しぶきをあげた。
というか、普通の泡人生ってなんだ。泡という種族は一体、何なんだ。
とりあえず、人間との交流がほぼない種族なのだろうということは分かるけれど、色々ツッコミどころが多すぎて訳が分からない。
「って、国家転覆?!」
泡の方が気になりすぎて聞き流しかけてしまったが、聞き流してはいけない話だ。
『そうです。恋に狂わされていないで、しっかりして下さいよ。ちゃんと裏を確認して下さい。彼女の生家は異国と貿易をし、色々後ろ暗い事してますから』
それが本当なら、色々問題だ。
「分かった。調べてみるが、どうしてただの泡がそこまで知っているんだ」
『ただの泡はどこにだって行けるんです。酒瓶の中でも、水瓶の中でも。そして私は、王子が好きなので、役に立とうと思ったんです』
「俺が、好き……」
『一目惚れです。私、人間の世界に憧れていたのもありまして』
泡がゆらゆらと揺れた。恥ずかしがっているのだろうか。
『とにかく、この黒い婚約だけはさせられません。そもそも、私の手柄を勝手に利用するのが腹立つんで、密告しに来ました』
ぱちゃんと再び泡が跳ねる。
「そ、そうか」
『というわけで、しばらく、厄介になります。ただの泡は、それなりに役立ちますよ!』
これが、俺とただの泡との出会いだった。
◇◆◇◆◇◆
ただの泡と出会ってから数ヵ月。
婚約した女を調べた結果、ただの泡の言っていることは正しかった。俺は婚約を破棄すると同時に、共謀罪として彼女の生家の人間を拘束し牢屋へ入れた。
どうやら俺と結婚し子を作り、俺を暗殺した後に、彼女は西の国の王女であったことを公表。その後、我が子を使ってこの国を西の国の属国へと落とす予定だったそうだ。子ができなかったらどうする気だと思ったが、その時は別のところで子種を貰う予定だったとか……。女って恐ろしい。
ともかく、ただの泡のおかげで俺は女に騙される事も、暗殺される事もなかったわけだが……。
「おい。勝手に、俺のグラスに入るな」
『ばれましたか』
「ばれるわ!」
現在ただの泡は、俺の部屋の金魚鉢の中で生活している。食事はいらず、日光浴をさせ、定期的に海水を追加してくれという話だったので、そういう世話を俺の手でやっていた。というか、このただの泡の存在をどう他人に伝えていいものか分からないので、俺が世話をするしかないというか。
そんな泡だが、時折変な行動をする。それが今回みたいなグラスに入ったりとかだ。
部屋に運ばれた食事のグラスが泡立っている。炭酸とかそういうレベルじゃない。もこもこの泡だ。
猫は狭い場所を好み入り込むと知り合いの猫好きが言っていたが、泡も狭い場所が好きだというのだろうか。とはいえ、食い物に混ざらないで欲しい。
いくらなんでも間違えて飲むようなことは、見た目的にないと思うけれど。
『いえ、毒見が必要かと思いまして』
「毒見ってなぁ。お前が入ったら飲めないだろ」
『飲んじゃってもいいですよ? 間接キス的な?』
「何で間接になるんだ」
『本体は金魚鉢にいるので』
確かに金魚鉢の中にも泡はいる。ということは、グラスの泡は、なんなんだ。泡の生態がさっぱり分からない。
「まて。例え本体があっちでも、これも泡の一部ということは、カニバリズムだろ。誰がやるか!」
『でも、ただの泡は人間ではないので、カニバリズムには当たらないのでは?』
「この国では、知能のある種族を食べるのは禁止されているんだよ!!」
異国には、異種族は人間ではないので食べるところもあるそうだが、俺の国はそんな野蛮な国ではない。
「それに例えそういう法律になってなくても、俺は命の恩人を食べたりしない」
この泡は俺の命を二度も救ってくれた泡だ。本人はただの泡だというけれど、俺にとってはただの泡ではない。
『私はいいですけどね。王子の血となり、肉となっても。好きな人に食べられるって、最高の愛情表現じゃないですか?』
「キモイわ!!」
ただの泡の熱狂的な愛が、時折重い。
止めろ、食わせるな。ただの泡は俺の心の中で生きているとか、そういうのはいらないから。
『残念です。あ、でも、今日のお水は飲んでは駄目ですよ。毒入りでした』
「は?」
『というわけで、その泡は捨てて下さい。他の食材はどうか分かりませんが、井戸水確認を急いだほうがよさそうです』
「それを早く言え!!」
俺は慌てて従者を呼びつけた。
◇◆◇◆◇◆
結果的にヤバかったのは、井戸水ではなく、川の水だった。
それこそ、もっとヤバい。どうやら毒液を毒液と知らず、川に流した馬鹿が居たのが原因だ。泡はしばらくはそこに住む魚も食べるなと言っていた。
俺だけでなく、その事実の公表で、多くの国民も救われた。毒液の排水は止めさせ、川の水質の改善が急務となった。
『私も毒を無毒化させてあげたいのですが、量が量なので、難しいですね』
「そんな事はしなくていい。これは科学者に考えさせるから」
俺の部屋にいる泡は、だんだん量が減っている気がする。
そう、俺を助けるために正真正銘身を削っているのだ。毒を分解もできるそうだが、毒を分解した泡は二度と自分の体に戻せないらしい。海水を多めに足した所で、本体の泡の量は決まっていて薄まるから止めろと止められた。
「もっと、自分の体を労わってくれ」
『大丈夫ですよ。ただの泡なので、病気になったりはしないですし』
泡は励ますようにゆらゆらと揺れる。
でも金魚鉢いっぱいだった泡が、半分ほどになってしまったのに気が付いた時、俺はこの泡が消えてしまうのが怖くなった。
もう、何度、この泡に助けられただろう。
ただ好きだからと言ってくれる泡。でも俺はこの泡に、それほどのものを与えただろうか。
『それに、私、帰る場所がないんです』
「そうなのか?」
『野良のただの泡なんですよ。私の帰りを待つ人はいないんです。私は死んだと思われてますから』
死んだと思われているとは、また物騒な話だ。そしてこの諦めたような言葉に、俺の心がズキンと痛んだ。
「帰りたいのか?」
もしも帰りたいと言われたら、俺は素直に帰してやれるだろうか。
はじめは警戒しかなかったし、今もジッと遠慮なく筋肉を見られている気がしてぞわりとすることもあるけれど、ただの泡との生活は俺の日常の一部となっていた。自分にとって、ただの泡はただの泡ではなく、大切な泡だ。
だけど、ただの泡は恩人だ。だから、もしも帰る事を望むのならば俺は——。
『うーん。無理ですね。姉達とは根本的に意見が合いませんし。もしも私が生きていることを知れば、姉は私を助けるために、王子を傷つけるでしょう。そんな事、私は望んでないのに』
「何故俺を傷つけようとするんだ?」
『私、呪われて、この姿なんですよ。ちょっと、魔女と取引しちゃいまして。更に姉も魔女と取引をして、王子の心臓の血を貰えば元の姿に戻れるという馬鹿げた取引をしましてね……』
「呪われてということは、元は別の姿だったのか?」
俺はこれまでに知能を持った泡とは、このただの泡以外会った事もなければ、聞いた事すらなかった。魔女との取引で呪われたのだと言われれば、納得がいく。
『そうですね。でも、泡人生も悪くないと思うんです。元の姿でも、人間の姿でも、毒を飲めば死にますし。二十四時間王子を見つめる事もできないですし』
「待て。二十四時間俺は見られているのか?」
『泡は寝なくてもいいみたいなんで。それから、王子が食べこぼしたふりをして服に一部くっ付いていくこともできますし、掃除の洗剤のふりをして諜報活動したりと、慣れると色々便利なんですよね』
……本気だろうか?
俺が心臓をやると言わないようにするためにわざと明るく言っているだけ……いや、本気でコイツ泡人生を謳歌してるよな。どれだけ前向きなんだよ。
『愛する人の為に色々できるって、最高じゃないですか』
「なら、俺も愛する人の為に何かやらせてくれ」
『えっ。王子、また好きな人ができたんですか? 誰ですか?』
「またってなんだ。この間の婚約の事を言っているなら、あれは好きとはまた違うからな」
好きと言うよりは、助けてもらった褒美のようなものだった。俺は誰と結婚したって同じだと思っていたから、大義名分がある相手の方が楽だろうと思っただけだ。
今俺が手にしているのが、恋なのかは分からない。そもそも相手は人間ではない。
雄雌もよく分からないただの泡だ。でも、手放したくないと思うぐらいに好きで、何とかしてやりたいと思うぐらい愛している。
「俺は、お前が好きなんだよ」
『わ、私? えっ。私、ただの泡ですよ?!』
「それでもお前が居なくなったと考えるだけで悲しくなるぐらい、愛してる」
そう俺が言った瞬間だった。
泡が金魚鉢の中で黄金色に輝く。一瞬美しい女の顔が見えた。あれが……ただの泡?
そして光は徐々に収まり、金魚鉢の中には並々と泡があった。
「って、えっ? ただの泡?!」
『みたいですね。ただの泡です』
「待て。普通、ここで呪いが解けてめでたしめでたしってなるものだろ」
じゃなかったら、何の光だったんだ。いや。確かに、目減りした泡が元の泡になっているけど!! そうじゃない、そうじゃないだろ!!
『うーん。最初の契約が、声を失う代わりに人間になれるけれど、王子が別の女性と結婚したら泡となるというものだったんですよね。で、次に姉が契約したのが、王子の心臓の血を貰えば、元の姿に戻るというもので……。なんか変に呪いが作用しちゃったんですかねぇ。泡になったら喋れるようになったあたり、呪いがそもそも中途半端だったわけで』
ただの泡は、特に慌てた様子もなく考察する。この落ち着きっぷり。流石、泡になっても呑気に人生謳歌しているだけある。
『まあ、仕方がないで——』
「んなわけあるか。仕方なくないだろ!」
でも泡がのんびりしてるからって、俺までのんびりできるかと言われれば違う。
『でも、それなりに泡は役立ちますよ?』
確かに役立つ。間違いなく俺はこの泡に何度も命を救われている。救われているけれど!!
「こんな中途半端な契約飲めるか。魔女に抗議するぞ。ついでに、魔女の法律に詳しい奴連れて行く」
『えっ。いや、別にこのままでも……。ちょっと、王子。ねえ。聞いて!!』
泡の生活に馴染みまくった【ただの泡】は慌てたが、知るか。ただの泡は好きだけど、ただの泡では一生を添い遂げられないだろ。
魔女と契約といったって穴がある。絶対無効にしてやる。国家権力なめるな。
数年後、ある国の王子が、命の恩人である美しい少女と結婚をした。
少女は【シャボン】という名前で、王子は相当少女を溺愛したそうで、部屋では同名の金魚のペットを飼っていたと、後の伝記で語られたが少女の出生は謎とされていたそうな。
めでたし、めでたし。