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 一時間後、私とセイラと竜は、千日前のお好み焼き屋の中にいた。けばけばした電飾がひしめく商店街の一画にひっそりと佇むその店は、さびれた外観ながらも結構な繁盛ぶりで、店内は香ばしいお好み焼きの匂いと、焼けた鉄板やほろ酔い加減の客達が発する、むせかえりそうな熱気で満ちている。

 しばらくすると、私達の前の鉄板にも、豚肉やら魚介やらがたくさん盛られた、豪勢なお好み焼きが次々に運ばれてきた。鉄板に乗せられた途端、ジュウウという音をたてて泡立つソースの甘酸っぱい香りは、昨日からろくなものを食べていなかった私達の胃袋を奮いたたせた。豪快にがっつく私達を見て、呆れたように竜が呟く。

「あーあ、それじゃ百年の恋も冷めるなあ」

 すると負けずに私も、彼の前に置かれた大盛りのライスを見て言い返した。

「何よ、そっちこそ炭水化物に炭水化物なんて邪道だわ」

「こっちではこういう食べ方が普通なんだよ。うどんにかやくご飯合わせるのと変わんねーだろーが」

 セイラはそんな私達のお好み焼きに関する不毛なやり取りを微笑ましく眺めていたが、しばらくして話の腰を折るように口を挟んだ。

「ところで、あの人は一緒に来なくてよかったの?」

 「あの人」とはむろん、駐車場で竜と一緒にいた女性のことである。竜は「うん、いいんだ」と頷くと、小ベラの上に乗せられたお好み焼きをライスと一緒に頬張った。

「あいつ、ああ見えても社長でさ。コンピューター関係の会社をやってて、いろいろ忙しいんだよ」

「ふうん、社長のヒモとはいいご身分ね」

 セイラの口調は嫌味たっぷりだったが、竜はそれには気づかず、「だろ?」と屈託なく答えると、再び大きく切ったお好み焼きを、小べラで器用にすくって口に運んだ。

 それから、彼はこちらでの暮らしぶりを私達に話して聞かせてくれた。それは、そこらの安月給のサラリーマンなど足元にも及ばないほど、優雅で贅沢な生活だった。家の間取りは二十畳のリビング兼キッチンに、ベッドルームとお互いのプライベートルームが二つ。それらを、女社長が働きに出ている昼間は、竜の自由に使っているという。彼の仕事は掃除と洗濯と夕食を作ること。余った時間は、リビングのホームシアターで、昼間っから高級ワインを片手に映画を観たり、女社長がコレクションしたLPレコードを鑑賞したり、自室でインターネットやゲームをして過ごしているんだそうだ。

 生活費は毎朝、女社長が一万円をテーブルの上に置いていってくれる。もちろん、食費や日用品に毎日一万円も必要なわけがないので、残ったお金は全て竜の小遣いになるのだ。「その金をコツコツ貯めてさ、この間、これ買ったんだ」と自慢気に話す竜の腕には、シルバーでできたクロムハーツのブレスレットが光っていた。

「あいつは殊勝な奴だよ。男なんていくらでも選びたい放題なのに、わざわざ俺みたいに金も仕事もない男を、好んで家に置いてくれてるんだからさ」

「でも、それって本当に竜のことを好きなのかしら? お金にものを言わせて、男を囲ってる自分が好きなだけなんじゃないの?」

 私が言うと、竜は「そうかもな」と自虐的に笑った。

「でも、あいつのおかげでこうして飯が食えてるわけだし、俺はありがたいと思ってるよ。俺のこと好きかどうかなんてどうでもいいよ。お互い必要としてるのは間違いないんだからさ」

 そうやってどこか開き直ったように話す竜を、セイラは複雑な面持ちで見つめていた。すでに再会したばかりの晴れがましさはなく、話が進むにつれ、彼女の表情には徐々に暗い影が差していっていた。そしてついに、こらえきれなくなった彼女は、机をバンと叩くと、キッと竜を睨みつけ、

「竜、あなた本当にそれでいいと思ってるの?」

と、厳しい口調で迫った。

「え? いいって……何が?」

「そんな人の褌で相撲を取るような真似をして、そんなことがいつまでも続けられると思ってるの? 今までのことはきちんとリセットして、自分の力で一からやり直すべきよ。お金の問題だったら、アタシも少しなら力になってあげられるから――」

 やめなよセイラ、そのお金は自分の人生を切り開くための大切なお金でしょ、と、私はつい横槍を入れそうになったが、ぐっとこらえた。一方、当の竜はといえば、それを聞いてもありがたがるどころか、「そんなの、いいよ」と言って、小べラの先でお好み焼きの残りを突つくと、ふてくされたようにそっぽを向いた。

「今日俺に会いに来たのは、そのためだったのかよ?」

 しかし、セイラはそれには答えず、おもむろにバッグから古ぼけた銀のカプセルを取り出すと、それをそっと竜の前に差し出した。

「何だよ、これ?」

 竜は机の上に置かれた銀のケースを見て、不思議そうに首を傾げた。どうやら彼は、タイムカプセルのことを全く憶えていないようだった。

「忘れた? 卒業の時にみんなで埋めたタイムカプセルよ」

 すると、彼はようやく全てを諒解したように、「ああ、あれか」と言って、ポンと手を叩いた。

「うわー、懐かしいな。でも俺、何入れたのか全然憶えてねーや」

 竜は高揚した面持ちで、ゆっくりとその銀色の球形のカプセルをひねり開けた。すると、中から掌と同じくらいの大きさの、一体の恐竜のフィギュアが出てきた。あの夢の島で飼われていた、彼の大切なコレクションの一つ、三本角の怪力獣トリケラトプスだ。私は胸が少しずきんとした。

「あー、こりゃまた、ずいぶん面白いもんが出てきたなあ」

 竜はトリケラトプスを見るなり、懐かしそうに顔を綻ばせた。そして、突き出した角のあたりを、愛しそうに何度も撫でた。そうやって恋人を見るようにフィギュアを愛でる彼の姿は、部屋で無心に夢の島にはたきをかけていた高校の頃を彷彿とさせた。

「そういえば、昔はこんなのたくさん集めてたなあ。今は売っぱらっちゃって、一つも残ってねーけど」

 竜はそんなことを言いながら、無邪気にフィギュアをいじっていた頃に思いを馳せている様子だった。昔のことを懐かしそうに振り返るその顔は、少し寂しそうに見えた。セイラはそんな竜に冷たい一瞥をくれると、さっと席を立って言った。

「私達はこれを届けに来ただけよ。出過ぎたこと言ったんなら悪かったわね」

 セイラは何か言いたげな竜を無視して、「先に帰ってるわ」と私に告げると、呼び止める暇もなく一人で店を出ていってしまった。しかし、そんな怒ったそぶりを見せながらも、彼女は去り際に竜と私の分の代金を机に叩きつけていくことは忘れなかった。


 雨が降り始めた。

 私はビジネスホテルの窓から、眼下に広がるネオンの街を眺めていた。窓に打ちつける大粒の滴は、電飾の光の輪郭を点描のようにぼかし、ネオンが煌く難波の街は、まるで印象派の風景画のようだ。私は手元の時計と窓の外とを見比べながら、湧き上がる不安に爪を噛んだ。

 時刻はもう十時を過ぎている。

 セイラはまだ帰ってこない。

 セイラが店を出た後、残された私と竜は、そのままそこで何事もなかったように飲み続ける気にもならず、飲み会はすぐにお開きになった。それが八時過ぎ。私は当然、ホテルに戻れば先にセイラが帰って待っていると思い込んでいた。

 だが、扉を開けても、そこには誰もいなかったのだ。部屋は人が戻った形跡すらなく、トランクや衣服は出ていく時と同じ状態のまま、床やベッドの上に散らかっていた。

 私はすぐに、彼女の携帯に電話をかけた。しかし何度かけても、電話はすぐに留守番サービスに切り替わってしまう。おまけにこの雨だ。私は彼女が心配だった。まあ、彼女ほどの大女(男?)を襲う勇気のある変質者はいないにしても、慣れない街だし何か事故があったんじゃ……。

 そう不安に思い、外に捜しに行こうか逡巡していた時、ふいにドアをノックする音が聞こえた。

「はい……。ど、どうしたの?」

 ドアを開けると、その向こうに立っていたのは、ずぶ濡れのセイラだった。彼女は顔にかかった濡れた髪の隙間から「ただいま……」と力なく微笑むと、疲れた足取りで部屋の中に入ってきた。

「ちょっと、どうしたのよ。心配したんだからねっ!」

 しかし、彼女はそれには答えず、バスルームからタオルを一枚取ってくると、濡れた衣服のまま、ベッドにどすんと腰をかけた。そして、濡れた髪や体をタオルで拭いながら、ぽつりと一言、「竜と会ってたの……」と呟いた。

「竜と?」

 私は思わず訊き返した。竜とは、あのお好み焼き屋で別れたはずだ。いったい、いつどこで会ったというのだろう。首を傾げる私にセイラは言った。

「あれからちょっとしてから、携帯に電話がかかってきて、公園で話してた」

「……どんな話?」

 セイラは「大した話じゃないわ」と言って言葉を濁した。

「ただ、あんな形で別れるのは、わざわざ東京から出てきた私達に悪いと思ったみたい。さっきは悪かったって謝ってくれて、それから、お礼にってこれをくれたの」

 そう言うと、彼女はバッグの中から、もぞもぞと何かを取り出した。見ると、彼女の掌に収まっていたのは、竜のカプセルに入っていたトリケラトプスのフィギュアだった。

「まさか竜から、生涯で二つ目のプレゼントがもらえるとは思わなかったわ」

「えー、でも、それじゃあせっかく届けに行ったのに意味ないじゃん」

 むくれる私を見て、セイラは「そうね」と微笑んだ。

「でも、お陰で美術を志してた昔の気持ちを思い出したみたいよ。あの頃は俺も純粋に何かに向かって頑張ってたんだよなあなんて、目を細めながら言ってたもの」

「そう。じゃあここまで足を運んだ私達の努力も、無駄にはならなかったわけね」

 私はキャビネットの上に置いてあったティーパックの封を破ると、急須にお湯を注いで、お茶を二杯入れた。その片方を渡した時、私の手に触れた彼女の指先は、氷水にでも浸けたかのようにひどく冷たかった。

「ねえ、竜はもう一度、美術をやってみるべきだと思わない? きっと彼の中にはまだ、美術を諦めきれない気持ちが残っていると思うのよ」

 セイラは受け取った緑茶を、湯気を吹きながらおいしそうに一口すすると、一呼吸置いて言葉を続けた。

「だからアタシ言ったの。竜、そんなこと言わないで、今からでも美術を頑張ってみればいいじゃない。まだ若いんだから、諦めるには早いわよって。そしたら竜は、『でも、今さらどうやって?』って訊いてきたわ。学校に行く金もないし、もう二十九なのに作品一つ作ったことがないんだぜって。アタシ『何言ってるの馬鹿ね』って言い返したわ。そんなの今から作ればいいじゃない。道具があれば作品なんてすぐに作れるでしょって――」

 すると、セイラはふいに言葉を途切らせ、おもむろに窓の外に目を遣った。外は雨足がさらに強まり、ほとんど豪雨に近いような有様になっている。静まり返った部屋に雨音だけが響く中、私はセイラの口から次の言葉が出るのを、どきどきしながら待ち受けていた。

「それからアタシね、頼んだの、竜に。アタシのオブジェを作ってみないって。アタシの、今の、ありのままの、ヌードのオブジェを作ってほしいって――」

 私は愕然として言葉を失った。今日車の中で、竜のデリカシーのなさをなじっていた彼女が、どうしてそんなことを頼むのか。計りかねた私は彼女におそるおそる「どうして?」と尋ねた。

 すると彼女はベッドの上で膝を抱え、縮こまった姿勢で絞り出すように言った。

「どうしてって、変わりたいからよ。ここに来たのは竜のためだけじゃない。アタシだって、変わりたかったの」

 白熱灯の淡い光だけが灯る薄暗い部屋の中を、一瞬、稲光が通り抜けていった。セイラは立ち上がり、ずぶ濡れのワンピースを脱ぎ捨てると、呆然と立ち尽くす私の脇を通り過ぎて、バスルームへと入っていった。脱いだ形のままで床に放置されたワンピースの上には、トリケラトプスのフィギュアが、新たな島を見つけたように無防備に横たわっていた。



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