表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/12

「早川さん、さすがにアタシもそろそろヤバくなってきたわ」

 助手席でうつらうつらしていた私は、セイラのその声で目を覚ました。時計を見ると、時刻はもう午前五時に近く、すでに東の空はうっすらと白み始めている。運転席のセイラは、あれからずっと休まずに運転し続けていたらしく、助手席から見える横顔は、この数時間でずいぶんやつれたように見えた。目の下には深い隈が刻まれ、まとめた髪は使い古したほうきのように乱れている。きついミントのガムを噛んでいるにもかかわらず、彼女の目は時折、焦点を失ったように宙を泳いでいた。

「ちょっとだけ、休んでもいいかしら?」

 セイラは脇道にハンドルを切ると、近くにあったサービスエリアの駐車場に車を入れた。そこは、滋賀県の湖東のあたりに位置する、多賀サービスエリアというところだった。ここから大阪までは、多めに見積もっても二〜三時間といったところなので、時間的にはまだかなりの余裕がある。

 セイラは「二時間だけ、二時間だけ寝かせて」と言ってシートを倒すと、後部座席に用意してあった毛布を取って一枚を私に渡し、自分は残った毛布を肩から被って横になった。

「向こうにはお昼までに着けばいいんだから、二時間と言わずにもっと休めばいいのに」

と私は言ったが、すでに彼女は寝入ってしまったらしく、返事の代わりに聞こえてくるのは、すやすやと気持ちの良さそうな寝息ばかりだった。

 私は助手席のシートを倒し、自分も毛布を被って眠る態勢を整えた。鼻先には、静かな寝息をたてて眠る、セイラの端正な横顔がある。私よりも長い睫毛、細く尖った鼻頭、そして魅惑的な厚ぼったい唇。私にはこんな美貌を持った人が、未だに性別の枠からはぐれて、男とも女とも名前のつかない境界をさまよっているのが信じられなかった。

「ねえ、早川さん。こんなこと今さら言うのも何なんだけど、アタシ、怖いのよ。自分が持って生まれてきた肉体を、自分の意志で作り変えてしまうことが。おかしいわよね。ずっと本当の女になるために、お金も貯めて、着々と準備を進めてきたっていうのに。最後の一歩のところで躊躇してしまうなんて」

 車の中での告白の後、セイラは自嘲的に笑いながら、私にそう胸の内を打ち明けた。私は何と答えていいか分からず、「そうよね、私も盲腸の手術するっていう時は怖かったもん」と言うと、セイラはプッと吹き出して、そうよねえと呟いた。ずいぶんとピント外れなコメントをしてしまったことは、自分でも分かっていた。

 しかしあらためて、もし自分が彼女と同じ立場だったとしたらと考えてみても、やっぱり分からないのだ。私は生まれた時から女として扱われ、それを何の抵抗もなく受け入れてきたから、生まれ持って与えられた性別を自分自身の手で変えることが、どんなに勇気のいることか。いや、性に関することだけじゃなく、振り返ってみると、あらゆる場面において、私は欲しいものを掴み取るためにがむしゃらに努力したりはせず、自分の手に入れられる範囲内のものだけで、満足してきた人生だったような気がする。高校までは地域で指定された学校に通い、大学は受験を避けて推薦で女子大に進み、たまたま一社だけ受かったという理由で、前の会社に就職を決めた。最も重視していた結婚でさえ、さんざん出会いを求めてコンパやお見合いパーティーに行った割には、最終的には会社の同僚という一番平凡なパターンに収まった。一体、私は人生においてどれだけ、自分の強い意志で何かを選択してきたというのだろう。でも、それは他の人にだって言えることなんじゃないだろうか。自分で人生の青写真を強く思い描いて、それを実現する人なんてほんの一握り。だいたいの人は自分に与えられた運命みたいなものに特に不満も感じず、ただ何となく受け入れ、人生を終えていくんだと思う。でもセイラは、その最も初歩的なところで、自分の運命に違和感を感じてしまったのだ。例えば名前とか、服装とか、トイレとか恋愛とか、他の人が当たり前なこととして受け入れているものに、いちいち違和感を感じなければいけないというのが、一体どのくらい苦痛を従うことなのか、私なんかには決して計り知ることはできない。そんな私が安易な想像で彼女の苦しみを分かったふりをして、訳知り顔でものを言うのは、何だか申し訳ない気がしたのだ。

 だからああいうコメントになってしまったわけだけれど、それでももうちょっと他に言いようがあったんじゃないかなどと、悶々と考えているうちに、私の頭にももやがかかったように、強烈な眠気が襲ってきた。私は目をつむり、だんだんと意識を麻痺させ始める睡魔に身を任せるように、硬いシートに深々と頭をもたせかけた。


 車内でセイラと昔の話をしたせいか、眠っている間に久々に高校時代の夢を見た。

 夢の中の私は制服姿で竜の部屋にいた。高校の頃に入り浸った、あの懐かしい部屋だ。目の前には、部屋の中央を陣取るように大きなローテーブルがあって、それを挟んで竜と私が座っている。テーブルの向こう側では、ひときわ鮮やかな色のティラノサウルスが、獰猛な眼差しで私達を睨んでいた。

 竜は、スケッチブックを膝の上に置いて、頬杖をついたポーズの私をスケッチしていた。ちょうど、竜が美大の受験を決めた頃のことだ。一足先に推薦で女子大に入学を決めた私は、ごきげんで彼のモデルを務めている。

「ねえ、竜、まだなの? 同じポーズしてるの疲れちゃったよ」

「ちょっと我慢して。もうすぐだから」

 夢の中では声は聞こえなかったけれど、私には二人が何を話しているかは分かっていた。十一年前、同じ会話をここで交わした記憶がある。確かこの後、私は彼の狂ったデッサンを覗き込み、クスクスと笑うのだ。

「竜、何それ? それじゃまるで空豆みたいじゃない。私そんなに不細工じゃないわよ」

「何だよ、人が一生懸命描いてるのに、うるせーな。もう今日はやめだ、やめ。おい、メシ食いに行こーぜ」

 私達がまだ仲が良かった頃の、微笑ましいシーンだ。でも、私はこの幸せな時間が長く続かないことを知っている。二人を傍観していた私は、そのことを知らせるために、彼らに声をかけようとした。だが、私と彼らは透明な分厚いガラスのようなもので隔てられていて、いくら声を張り上げても、私の言葉は彼らの耳には届かないのだった。

 私はガラスの壁を叩いた。

 ドンドン、ドンドン!

 しかし、二人は私の存在には全く気づかず、自分達の世界で幸せそうにじゃれ合っている。

 私は叫んだ。

 聞いて、聞いてったら!

 しかし私を閉じ込めたガラスの箱はすごいスピードで彼らから遠ざかっていき、やがて周りは漆黒の闇に包まれた。宇宙のようにどこまでも広いかと思うと、押入れの中のようにどこまでも狭いような、計り知れない闇。私はその闇の中を、ジェットコースターが落下するような速度で、ぐんぐんぐんぐん底知れぬ深みへと引き込まれていった――。

 ひゅん。

 すると、ふいに場面が変わった。季節は春。私はたくさんの若者達がひしめく人だかりを、少し高い目線から俯瞰していた。

 集まった若者達は私に血走った視線を注ぎ、そこここで、「あ、あった」と喜ぶ声や、「くそー、ない。浪人だ!」と悔しがる声が上がっている。中には、泣きながら友達と抱き合ったり、皆に胴上げされたりしている若者の姿もあった。

 どうやらここは大学の合格発表の会場らしかった。

 私は知らぬうちに、合格者の番号が貼り出された、掲示板になっていたのだ。

 私は掲示板を見つめる学生達の中に、一人の見知った顔を見つけた。それは竜だった。彼は受験生達が次々と喜びの歓声を上げる中、一人沈痛な面持ちで、何度も手元の紙に目を落としながら、掲示板に目を走らせていた。しかし、何度確認しても彼の番号はなく、彼はとうとう諦めたように溜息をつくと、掲示板を支えている私の足を、憎しみを込めて思いきり蹴り上げた。

 すると、硬い鉄の棒だったはずの私の足が、溶けた飴のようにぐにゃりと曲がった。

 その瞬間、抜けるように青かった空が、舞台の照明が落ちるように突然暗闇に変わった。辺りを見ると、いつの間にか、あれだけたくさんいた若者達はどこかに消え去り、私の前には竜一人だけが舞台上でスポットライトを浴びた役者のように、ぽつりと取り残されていた。空からは三月だというのに、雪が舞い降りている。

 すると、どこからともなくエレクトリカルパレードの軽快なテーマ曲が流れてきて、周りから電飾に彩られたキャラクター達が陽気に踊りながら、竜のところに集まってきた。彼らは落ち込んだ竜を慰めるように、おどけた仕草をしたり、くるくる回ったりしながら愛嬌を振りまき、リズムに合わせて楽しげに舞い踊っていた。大学のキャンパス内に突如として出現した、光と音のめくるめく世界。竜は最初、その光の乱舞の中で子供のようにはしゃいでいたが、やがてキャラクター達の間を縫って私の方に歩み寄ってくると、まるで聖火ランナーが聖火台に点灯するように、掲示板に貼られた合格発表の紙に、ライターで火を点けた。

 私の体は炎に焼き尽くされて、やがて火の玉になって空に打ち上がり、パーンと花火のように上空で破裂した。その高いところから私は、竜と並んで花火を見ている高校生の私を眺めていた。すると、竜がふいに地上にいる私を見つめ、耳元でそっと囁いた。

「なあ、今度はディズニーワールドに行こう」

 ひゅん。

 また、場面が変わった。舞台は再び竜の部屋。しかし、今度はさっきとは打って変わって、部屋には重苦しい空気が漂っていた。私達は机を挟んで、冷めきった夫婦のように疲れた顔で向かい合い、こんなやり取りを繰り返している。

「なあ、お願いだ。頼むよ」

 手を合わせて頼み込む竜に、私は取りつく島もなく言い放つ。

「嫌よ、ぜったい嫌!」

 これもかつて見覚えがある、現実に起こった出来事だった。私はこの続きを見たくはなかった。しかし、目をつむろうが、耳を塞ごうが、そんなことはおかまいなしに、状況は記憶というプロジェクターによって、容赦なく私の脳裏に浮かび上がってくる。

 高校生の私は夢の島に並んだ恐竜の中から、一つの人形を取り、竜に向かって投げつけた。人形は彼の耳の横をかすめ、仰向けになった無様な形で床に落ちた。私はさらに罵声を浴びせて、竜を責め続けた。それは彼のプライドも夢も人格もズタズタに引き裂く、ひどい言葉だ。しかし、竜は何か言いたげな目で私を見つめながらも、何も言い返そうとはしなかった。その態度に私はさらに苛立ち、今度は彼の大切にしていたティラノサウルスを取り上げて彼に投げつけた。ティラノサウルスは竜の肩の横を通過し、壁に当たって粉々に砕け散った。

 ひゅん。

 次の瞬間、私の目の前に現れたのは、これまでに見たことがないほど消沈した竜の面輪だった。彼は膝を抱えてしゃがみ込み、呆然と私を見下ろして、指先で優しくなぞるように、私の体を撫でていた。私の意識は今や、壊れたティラノサウルスに憑依していたのだった。彼の悲しみが、破片の一つひとつに触れる力ない指の感触を通して、私の中に伝わってくる。

 あの時、私は後ろ姿しか見ていないはずなのに、夢の中に現れる彼の表情はどうしてこんなにも生々しいのだろう。彼は放心したように首をうなだれ、虚ろな暗い目で私を見つめていた。教室の明るいムードメーカーからは想像もつかない、内に籠った彼の姿。今の彼は洋介に捨てられたばかりの私のように、それまで自分を装っていたメッキを剥がされ、内気で気弱な素顔を晒していた。

 ああ、私はこれほどまでに、あの時、竜を傷つけていたのだ――。

 私は今さらながら、自分が不用意にぶつけてしまった言葉の影響の大きさに、自責の念でいっぱいになった。しかし、泣きたいのに、粘土でできた私はいくら胸の中が悲しみでつかえても、涙をこぼすことができない。代わりに頭上から、大粒の滴が私のもとに降ってきた。それは竜の涙だった。竜は込み上げてくる感情を一気に吐き出すように、肩を震わせて、激しく嗚咽を上げていた。この光景を私は知らない。高校生の私は、自分の浴びせた言葉に竜が傷つくのを見ているのが耐えられず、逃げるようにその場を飛び出したのだ。

 私は再び目をつむった。十年前と同じように、自分が招いた状況から目を反らすように。彼が私のせいで悲しみに暮れるのを、もう見ていたくはなかった。

 ひゅん。

 目を開けると、私の頭上に顔を覗かせたのは、竜ではなく洋介だった。彼は裸で薄暗いホテルの一室におり、罪悪感の込もった顔つきで、じっと私を見つめている。

 すると、洋介の後ろで、甘く絡みつくような、熱っぽい女の声がした。

「洋介、早く。何してるの?」

 見ると、奥のベッドの上では、私の見たことのない、髪の長いすらりとした女性が一糸まとわぬ姿で横になり、キャビネットの前で逡巡する洋介を、じれったそうに仰ぎ見ていた。その視線に急きたてられた洋介は、ぐっと決心したように目を上げると、やがて私をするすると滑らせて指から外し、キャビネットの上にカランと放り投げた。

 婚約指輪に変身した私は、取り残されたショックに呆然としながら、しかしその場から立ち去ることもできずに、ただ事の成り行きを見つめているしかなかった。洋介は私の方を一瞥もせずベッドに向かうと、寝そべった女の体の上に優しく覆い被さった。そして程なく、二人はベッドの上で激しい絡み合いを始めた。

「ねえ、洋介、ほんとにいいの? 彼女のこと」

「ああ、いいんだ」

 私は行き場のなくなった婚約指輪と同じ、居たたまらない気分でその場に佇んでいた。脳裏には漠とした敗北感が、暗雲のように立ちこめていくのが分かった――。

 ひゅん。

 と、次の瞬間、今度は私が女と立場が逆転したように、裸でベッドの上に横たわっていた。ただし、私の上に重なっているのは、洋介ではなく竜だった。竜は何か、自分の中で蓄積したやるせなさをぶつけるように、痛々しいほど激しく私に腰を擦りつけていた。そして、私の中で果てると、そっとベッドから離れ、いつの間にかテーブルセットの上に用意されていた粘土を、無心にこね始めた。私が起き上がってそばに向かおうとすると、彼は手を突き出して制止し、無言でそのまま寝そべっているよう目で合図した。彼はどうやら、私のヌードのオブジェを作っているようだった。しかし、彼の作っている粘土の塊は、どう角度を変えて眺めても、人間の形をしているようには見えなかった。私はベッドで寝そべった姿勢のまま、訝しげに竜に問いかけた。

「ねえ、竜、それは恐竜よ――」


 ひっく。

 と、私は自分のしゃくり上げる声で目を覚ました。頬の上を生ぬるい涙が一筋、跡を描いて流れ落ちているのが分かる。

 脳裏には、まだ先ほどの夢の断片が、子供の頃観た恐怖映画のように、まざまざと焼きついていた。ばらばらになったティラノサウルスの破片、壊れてしまった夢の島。それらの断片は後味の悪い罪悪感を伴って、私の胸を締めつけた。その罪悪感が、夢が見せた幻などではなく、現実的に根拠のある悔悟であることを、私自身は痛いほどよく分かっていた。

 十一年間、振り返らないようにしてきた苦い記憶。

 自然消滅などとよく言えたものだ。本当は竜に合わせる顔がなくて、自分から彼のことを避けるようになったくせに。

 最後に竜の家に行った日、私達のムードは最悪だった。竜は美大に落ちたショックから終始無口で、彼の不機嫌な態度に呼応するように、私の苛立ちも募る。そんな一触即発のピリピリした雰囲気に、止めをさしたのは竜だった。彼はここ数日、ただでさえ鬱憤のたまっていた私に、さらに追いうちをかけるように、こう切り出してきたのだ。

「なあ、ひかる。一度でいいから、俺にお前のヌードのオブジェを作らせてくれないか?」

 竜は床に頭をつけ、必死に私に頼み込んだ。

「なあ、お願いだ。俺、作品たくさん作ってさ、来年こそ海外の美大受けようと思うんだ。だから、協力してくれよ」と。

 私が「何もヌードじゃなくても、他のものを作ればいいじゃない」と返すと、竜はなおも食い下がった。

「俺、これを作ったら、何か変われるような気がするんだよ。これからもずっと美術をやり続けていける、自信みたいなのが身につくような気がするんだよ。だから、なあ、お願いだ。嫌なこと頼んでるのは分かってるけど、俺を助けると思って、頼むよ――」

 しかし、私は頑なにそれを拒否した。今から振り返れば、どうしてそんなに意固地になったりしたのだろう、別に減るもんじゃあるまいしと思うのだけれど、思春期真っ只中で、自尊心の塊だった私は、その言葉が甘えにしか聞こえず、彼の言い訳に自分が利用されているような気がして、どうしても頼みを受け入れることができなかったのだ。

 そして私は粉々に打ち砕いた。

 彼の大切にしていたティラノサウルスのフィギュアを。

 彼の夢を、プライドを、積み上げてきた価値観を。

「いいかげんに目を醒ましなさいよ、竜! あんたのそういう現実逃避のお遊戯に付き合わされるのはもうたくさんなの!」と、罵詈雑言を浴びせて。

 どうしてもっと優しい言葉で彼を包み込んであげられなかったのだろうか。本当は一番、慰めを必要としていた時だったのに。

 今さら後悔しても仕方のないことはよく分かっている。でも、あの同窓会で竜のことを聞いた時、私は思ったのだ。もしあの高三の春、私がもっと彼の気持ちを慮って優しい言葉をかけていれば、違う未来もあり得たんじゃないかと。もちろん、竜の人生なのだから、今彼の置かれた状況の責任は、彼自身にあることは言うまでもない。けれど、竜の人生があの日を境に、ころころと坂道を転がるように悪い方向に向かっていったことに、私は少し負い目のようなものを感じてしまうのも事実なのだ。

 ふと隣に目を遣ると、私の鼻先には、シートに深く身を沈めて、気持ち良さそうに寝息をたてるセイラの横顔があった。顎にはうっすらと、朝陽に照らされて金色に輝く、産毛のような短い髭が生えている。私はそっと、その柔らかい毛先に覆われた、細く尖った形のいい顎先を撫でた。すると、セイラはくすぐったそうに目を覚まし、赤く腫れあがった私の瞼を見て、驚いた顔をして言った。

「どうして、泣いてるの?」

 その瞬間、私の喉元に再び熱い感情の波が込み上げてきた。こらえきれなくなった私は、セイラの胸元に嗚咽を上げながらわっと飛び込んだ。

「ねえ、セイラは昨日、どうして私達が別れてしまったのかって訊いたでしょう? あれはね、私のせいなの。本当は私が悪いのよ。私がひどいことを言って竜を傷つけたから。私があんなこと言わなければ、今ごろは竜だって――」

 セイラは支離滅裂なことを口走る私を優しく抱き締め、高ぶった感情を鎮めるように、そっと頭を何度も撫でてくれた。そして、「大丈夫よ、早川さんのせいじゃない、だからそんなに泣かないで」と、子供をあやすような口調で慰めながら、高校の時と同じように何も詮索することなく、私の話に黙って耳を傾け、どんな子供じみた泣き言でも丸ごと広い心で受け止めてくれたのだった。

 私はセイラの腕に抱かれて、自分の気持ちがすうっと潮が引くように鎮まっていくのを感じた。スポンジに水が染みこむように、耳に、体に、心に、じんわりと温かいものが浸透してゆくのが分かる。どうして彼女といると、いつもこうとても肌触りのよいクッションに身を沈めているような、無防備な気持ちになれるのだろうか。それは、彼女がニューハーフで女の気持ちが理解できるからなのか、それとも彼女の言葉や仕草や声のトーンが、私の求めているものとぴったりフィットしているからなのか、理由はよく分からなかった。いずれにせよ、もし彼女が純粋な男なら、意外に波長が合ってうまくやれるのかもしれないのにと、私は少し惜しく思うのだった。

 そうやって恍惚な気分に浸っていると、突然、セイラが「あっ!」と頓狂な声を上げて、シートから身を起こした。

「何? どうしたの?」

 呆気にとられる私をよそに、彼女は慌しくシートを元に戻すと、急いで車にキーを差し込み、エンジンをかけた。明らかに慌てた様子の彼女に、私は「どうしたの、一体?」と、もう一度尋ねてみた。すると、彼女は時計を指差し、切羽詰まった表情でこう答えたのだった。

「どうしよう、寝坊しちゃった。もう十一時よ」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ