五
「ねえ、ちょっとお腹空かない?」
セイラが道端のサービスステーションの看板を見て、思いついたようにそう切り出したのは、ちょうどディズニーランドの話が終わって、竜編集の九七年ベストヒット集が、三巡目のミスチルに差しかかった頃だった。時計を見ると、すでに時刻は深夜の一時を過ぎている。食事といえば八時頃にラーメンを食べたっきりなので、言われてみれば、確かに少し空腹感があった。
「今ってどのあたりなの?」と訊くと、セイラは頭上を通り過ぎる案内標識に目を遣りながら、「そうね、もうそろそろ名神に入るころだと思うけど」と答えた。
「じゃあ名古屋のあたりか。時間には余裕ありそうだし、ちょっと休んでいく?」
セイラは「そうね」と頷き、脇道に反れると奥へと進んで、煌々と明かりの灯るサービスステーションへと入っていった。車を降りて中に入ると、すでに軽食を売っている調理場は電気が消えてひっそりとしており、私達は仕方なく、入口付近にずらりと並んだ自動販売機で、カップラーメンを買って食べることにした。
「今日はラーメンばっかりね」とセイラは苦笑いをしたが、それでも彼女は湯気が立ち上る即席麺をおいしそうに頬張っていた。
セイラは車の中で私がした話を、ずいぶん驚きを持って受け止めたようだった。彼女はラーメンを食べる間も、ずっと竜の部屋の恐竜の島の話を持ち出し、「やっぱり私って何も知らなかったのねえ」と、悔しそうに唇を噛んだ。しかし一方で、その話は彼女にとって大きな収穫でもあったらしく、彼女は生き生きと目を輝かせながら、「やっとこれで納得がいったわ。ずっと不思議に思ってたのよ。何でまた美術部でもない竜が、受験の三ヶ月前になって、いきなり志望校を変えたりしたんだろうってね」と、興奮した様子でまくしたてていた。
「でも、三ヶ月前のどたん場で、いきなり美大でしかも海外なんて無謀すぎると思わない?」
私が言うと、セイラはいたずらっぽい目で私を見返しながら、「あら、そこが面白いんじゃない。竜らしくて」と言ってニッと笑った。
「でもさ、結局、竜が願書を出したのって、東京の美大だったでしょ? それはどうして?」
私はセイラの記憶力に驚いて唖然とした。確かにそうなのだ。東京ディズニーランドで、あれだけ海外の大学を受験すると息巻いていた割に、何も調べていなかった竜は、いざ出願するという段になって、海外の美大の出願にはポートフォリオというプロフィール代わりの作品集の提出が必要だと知って、仕方なく東京の美大に進路を変更したのだった。しかし、それだって付け焼刃の知識で受かるほど甘いはずはなく、結果は惨敗。そのいきさつを説明すると、セイラは「全く、竜らしいというか」と言って肩をすくめた。そして、泣き笑いのような表情を浮かべながら、「そんなに海外の美大に行きたかったんなら、作品を作って次の年に挑戦すればよかったのに。本当に根気がないんだから、ねえ?」と、同意を求めるように私の方に首を傾げた。
私は彼女の問いかけに「そうね」と生返事をし、目を反らした。彼女の目を直視できなかったのは、竜が次の年に海外の美大を受験しなかった本当の理由に心当たりがあったからだ。しかも、私自身が、彼に受験を諦めさせた原因を作った張本人かもしれないということは、口が裂けても言えなかった。あの私達の破局の日。桜の散り際とともに、私達の関係も終わりを迎えてしまった、卒業後間もないあの日の出来事が、竜の人生を狂わせるきっかけになってしまったのだとしたら……。私は同窓会で彼のその後の顛末を聞いて以来、そんな罪悪感に時折苛まれてしまうのだった。
すると、セイラが私の頭の中を見透かしたように、唐突にこんなことを訊いてきた。
「ねえ、ずっと気になってたんだけど、早川さんって、一体どうして竜と別れたわけ?」
私はぎくっとして身をすくめた。一瞬、彼女は全ての事情を知っていて、私を困らせるためにわざとこんなことを訊いているんじゃないかと疑ってしまった。だけどすぐに、竜が美大を志した理由さえ知らなかった彼女が、まさかそのことを知っているはずはないと、冷静に思い直した。
「別に、特にこれって理由はないよ。卒業して何となくお互いに連絡を取らなくなって、自然消滅って感じ」
動揺を悟られないよう、平静を装って答えると、セイラはなおも食い下がって「本当?」と、私の顔を覗き込んだ。たまりかねた私が、「どうしてそんなこと訊くのよ?」と尋ねると、彼女は長距離走行の大型バスが、列をなして入ってくる駐車場にちらりと目を遣ってから、ひそひそ話をするように身を乗り出してきた。
「だって、いきなり一緒に大阪に行くなんて言い出すんだもの。十一年も前に別れた男に会うためによ。そりゃ、別れ際によっぽど後味の悪いことでもあったのかって勘ぐるのも当然じゃない」
「……まさか。私が行くって言ったのは、ただ暇だったから。旅行がてら向こうの友達にも会いたいしさ。そんな深い意味なんてないよ」
苦し紛れに言い訳をすると、ちょうどその時、長距離バスから降りてきた団体が、ぞろぞろとサービスステーションの中になだれ込んできた。私は助かった、とばかりに席を立つと、「そろそろ出ようか」と言ってセイラを促した。
「女の勘も今度ばかりは外れたわね」
と、私は空いたカップを手に、出口に向かうセイラに軽口を叩いたが、内心ではばくばくと心臓が高鳴っているのを悟られやしないかと、心配でたまらなかった。
サービスエリアを出ると、私達は再び深夜のハイウェイを大阪に向かって車を走らせた。周りの風景は先に進むにつれ、次第に田舎の色合いを帯びていき、今、車窓から見えるのは、喬木の生い茂るうっそうとした山肌ばかりだ。私達を威圧するように幾重にも連なるその山並は、いつ絶えるともなくどこまでも続いているように見えた。
その単調な道のりに、セイラの疲労にも拍車がかかったのだろうか、彼女は時折、こめかみを押さえて目をしばたかせながら、生あくびを繰り返すようになった。道路にはドライバーの眠気を防ぐために、一定距離ごとに金属の継目のような起伏が設けられているが、それは子守唄を聴かせる時に母親が子供の背中を叩いてリズムを取る時のような、優しい刺激しか与えてくれない。高速に入ってから、かれこれ五時間以上もハンドルを握り続けているセイラの体力は、もう限界に近づいていた。
私はさりげなく「運転、変わろうか?」と、声をかけてみた。しかし、セイラは不安そうな一瞥を私にくれて言った。
「早川さんって、免許持ってたんだ?」
「失礼な。これでも優良ドライバーよ」
「……それってもしかして、ペーパーだから点数引かれてないだけじゃないの?」
「やあねえ、乗ってるわよ、ちゃんと。……年に二回か三回ぐらいだけど」
ボソリと付け加えると、セイラは諦めたように溜息をつき、苦笑いをしながらハンドルを握り直した。
「……やっぱりアタシが運転するわ。早川さんに運転してもらって、目が覚めたらあの世だったなんてご免だもの」
セイラがそう言うのも無理はなかった。走行する車の多くが、ダンプトラックや長距離バスという深夜のハイウェイは、スピードの無法地帯といっても過言ではなかった。セイラはそれらの大型車が猛スピードで脇を駆け抜けていくたび、風圧で車がよろめきそうになるのを、巧みなハンドル操作で何とか凌いでいたのだ。重量級のいかつい車体に囲まれると、私達のぽんこつ軽自動車は、まるで象の群れに紛れこんだ鼠のようだった。
「煙草吸っていいかしら?」
セイラは眠気を醒まそうと、ダッシュボードのシガレットケースから取り出したヴァージニアスリムに火を点け、運転席の窓を少し開けた。すると、隙間からびゅうびゅうと唸るような冷たい疾風が吹き込んできて、一瞬、目の醒めるような感じがした。セイラが外に向けて煙を吐き出すと、紫煙は白い筋を描いて立ち上ることもなく、その頬を叩くような強い風にかき消されて、慌しく闇の中に溶けていった。
「寝ていいわよ」とセイラは言ったが、疲労困憊の彼女にハンドルを握らせておいて、自分だけ隣でぐうぐう寝入るなんてことは、さすがの私でも気が引けてできない。その代わり、私は風に髪をなびかせながら、煙草をくゆらすセイラの涼しげな横顔をじっと見つめていた。暖色の灯りに浮かび上がった肌は陶器のように白く、繊細で彫りの深い目鼻立ちを持った面輪は、ガラスケースにしまって遠巻きに眺めたいような、近寄りがたい美しさがあった。中でも私は、どこか哲学的な思惑をたたえた、澄明な鳶色の瞳が好きだ。他人よりも秀でた資質を有しているにもかかわらず、何一つとして自分に満足していないような、憂いを秘めた瞳。私はこんな瞳を持った彼女が、どうして竜みたいな男に惹かれたのかが、未だによく分からなかった。
竜は物事を頭ではなく全て感覚で捉えるようなタイプで、セイラとは全く正反対の性質を持った人間だ。例えば、一枚の絵を観るにしたって、セイラならその画家の背景や美術史における役割まで関心が及ぶのだろうけれど、竜はきっと色彩や構図など、視角から与えられる印象以外には興味を払わないだろう。誰かを好きになっても、セイラならその人の魅力を的確な言葉で表現することができるだろうけれど、竜は自分が心を惹かれているものの正体をきちんと分析することができずに、「何かいい感じ」という曖昧な言葉で片付けてしまうだろう。そんな彼のどこにセイラを惹きつける魅力があったのか、私は不思議でたまらなかった。
「ねえ、どうしてセイラは竜のことを好きになったの?」
セイラは不意を突かれたのか、戸惑ったような表情で私の顔をじっと見返した。
「どうしてそんなこと訊くの?」
「どうしてって……、そんなに深い意味はないけど、ただセイラと竜じゃ不釣り合いというか、全然タイプの違う人間のような気がするからよ。セイラにはもっと、知性も思慮分別もある大人の男の人の方が似合うと思うの」
すると、セイラは自嘲的な微笑を浮かべ、「そうね。アタシもどうして竜のことを好きになったのか、自分でもよく分からないの」と肩をすくめた。
「でも一つ言えることは、竜が早川さんが言うような、隙のない完璧な男だったら、たぶんアタシは竜のことを好きになったりはしてなかったっていうことよ。アタシってどうも、将来出世しなさそうな、頼りないタイプの男に弱いみたい。損な役回りよね」
セイラは指に挟んでいた煙草を、くしゅっと灰皿の上で揉み消すと、おどけるように言った。そして、彼女は過去の記憶を懐かしむうに目を細めながら、私と知り合う前の竜との思い出話を語り始めた――。