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 セイラとは一週間後の夕方に、新宿駅で待ち合わせをした。東南口を出て、大階段に座り込む若者達の間を縫うようにして下に降りると、タクシーや路駐車両が連なる列の中に、人目を引く鮮やかな黄色の軽自動車が停まっていた。セイラはそのドアにもたれるようにして、黒づくめの格好で煙草を吹かしていた。

「ごめん、お待たせ」

「遅いわよ、もう」

 セイラは吸いかけた煙草をヒールの先で揉み消すと、頬を膨らませてすねた仕草をした。彼女はつばの広い黒い帽子にサングラス、タイトな黒のロングワンピースにパールのネックレスという、パーティーにでも出かけそうな格好で決めてきていて、私が「『ティファニーで朝食を』のオードリー・へップバーンみたい」と言うと、セイラは嬉しそうにフランスパンをかじる真似をした。

「NO.1っていうから、外車か何かで来るのかと思ってた」

 助手席に乗り込み、思ったより狭い車内を見渡して、私が思わず感想を洩らすと、運転席に座ったセイラは「ばかねえ」と笑ってそれを一蹴した。

「そんなに儲かるわけないでしょ。オカマは何かと物入りなんだから」

 そう言うと、彼女は帽子を後部座席に投げ込み、キーを差し込んでエンジンをかけた。その瞬間、ブルンという音とともに、狭いシートに小刻みの振動が伝わってくる。これで大阪までの長距離を走るのかと思うと、いささかげんなりした気分になった。

「じゃあ出発! 行き当たりばったりの人捜しへ!」

 セイラの掛け声に、私は「縁起でもない」と突っ込みを入れる。ふと後ろを見ると、後部座席には幅が一メートルもありそうな、大きなトランクが仰々しく積まれていて、「海外にでも行くみたい」と私が茶化すと、「あら、海外より長丁場になるかもよ、何たって見つかるまで帰らないつもりだからね」と真顔で返されたので、私は少しぞっとしてしまった。

 結局、私達はこの一週間で、セイラの当初の思惑通り、村山 茂之の知り合いを辿って、竜の現在の居所を突き止めることはできなかった。村山 茂之からその人の名前を訊いて、関西支社に電話をかけたところまではよかったのだが、その知り合い(名前を神崎さんという)が、私達のことを全く信用してくれず、まるで不審者のように電話口で門前払いを食らってしまったからだ。

 まあ、いきなり知らない人間から電話がかかってきて、友人の連絡先を教えてくれと言われれば、警戒心を抱くのももっともだけれど、それにしても、村山 茂之の名前も出して、こちらが高校の同級生であることを説明しているにも関わらず、「そんなこと言って、あなたが借金取りじゃないって保証がどこにあるんです?」とまで疑ってくるのは、少し度が過ぎるように思われた。しかも、彼はそんな風に竜の事情に詳しそうなことをほのめかしておきながら、「どのみち僕は遠い知り合い程度で、彼の連絡先とかそんなのは知りませんから。ついでに彼の借金とも全然関係ありませんから」と突き放して、ぴしゃりと電話を切ってしまったのだ。それから何度電話をかけても、彼には取り次いでもらえなかった。きっと受付の人間に私達のことを悪質な勧誘とでも言って、上手く根回ししたんだろう。

 しかし、セイラはそれでも、予定通り竜捜しの旅に出発すると言ってきかなかった。いくら「神崎さんは何も知らないって言ってるよ」と諭しても、彼女は古畑 任三郎のように額に指を当てて考え込む仕草をしながら、「あいつは絶対何か知ってるわ」と、自信満々に主張するのだ。だけど肝心の根拠を尋ねると、「どうしてって、女の勘よ」と言うばかりで、行って必ず竜に会えるという確信は彼女の方でも持っていないのだった。

「でもさ、せっかく訪ねて行っても、神崎さんに会うどころか、会社にも入れてもらえなかったらどうするつもり? 大阪中走り回って竜を捜すっていうの?」

 私は車窓に流れるネオンを眺め、自分が大阪に向かっているのだということをあらためて感じるにつれ、現実的な不安を口にした。しかし、セイラはそんな不安などどこ吹く風といったように、しれっとこう言い切った。

「大丈夫よ。電話では簡単に切ることができても、人間、直接訪ねて来られたりしたら、そう邪険には扱えないものよ。それに、何だか今回は絶対に竜に会えるような気がするの」

 確信に満ちたセイラの口調に、私は呆れたように肩をすくめる。その後に続く言葉は、もう分かっていた。

「また、女の勘なんでしょ?」

 先手を打ってそう言うと、セイラは一本取られたというように軽く額を叩いて、いたずらっぽい笑みを私に向けた。


 私達は途中に通りかかったラーメン屋で軽い夕食をとり、明治通りを南へ下って、渋谷に向かった。そして、ぎらぎらとしたネオンの波を抜けると、池尻入口から首都高速三号渋谷線に入った。

 高速に入ると、それまで渋滞に巻き込まれて、亀のようなスピードを守っていた車は、一転して滑らかに進み始めた。ここから先は東京ICから東名高速に入り、コンクリートの無機質な壁が続いてゆく単調な道のりだ。

「これから長いから、眠くならないようにしなくっちゃね」

 セイラはドライブのBGMにと、一枚のMDをカーステレオに挿し込んだ。すると、スピーカーから昔流行った、ミスターチルドレンの「Everything」が流れてきた。

「あ、懐かしい!」

「九七年のベストヒット集よ」

 セイラは得意げに微笑んで言った。

「竜がアタシのために編集してくれたの。高校の時に彼がくれた、最初で最後のプレゼントよ」

 私はスピーカーに流れる曲に合わせて、うろ覚えの歌詞を口ずさんでみた。純粋さを失った大人になっても、何を犠牲にしても守るべき人のいる大切さを歌ったこの曲は、竜の大のお気に入りで、ルナシーの曲とともに彼のカラオケの十八番だった。普段はポップミュージックなど聴かない彼が、例外的にミスチルのCDだけは購入して、「ミスチルは俺らの気持ちを代弁してるんだ」などと、よく訳知り顔で講釈していたのを思い出す。

「ねえ、ご飯食べたばっかりで眠くなりそうだから、何か話をしてくれない?」

 運転席で大きなあくびをしながら、セイラが言った。「どんな話がいいの?」と尋ねると、セイラは迷うことなく、一つのテーマをリクエストした。

「そうね、早川さんが付き合っていた頃の、竜の話をしてちょうだい」

「いいけど、セイラの方があいつのことはよく知ってるんじゃない?」

 これは皮肉でも照れでもなかった。本当にそう思ったのだ。私が竜と付き合ったのはたった半年という短い期間で、それ以前はただのクラスメートの一人にすぎず、私は彼のことを深く知る前に、彼と向かい合うことすらしようとせずに、関係を絶ち切ってしまったのだから。そんな私から話を聞いたところで、セイラに得られるものなどあるのだろうか。しかし、私の懸念とは裏腹に、彼女は首を横に振った。

「そんなことないわよ。アタシが見てきたのは、彼の表の顔ばっかりだもの。しょせんアタシは、クラスメートの一人としてしか接することができなかったから、彼の人には見せない弱い部分とか、そういう深いところまでは知ることができなかったの。ほら、前に早川さんがアタシに竜の相談をしてくれたことがあったでしょ? その時、アタシ本当は早川さんにすごい嫉妬してたの。どうしてこの子は女っていうだけで、アタシの知らない彼をいっぱい知ることができるんだろうってね。結局、アタシが彼を見てきた三年間は、早川さんが彼と付き合った半年間にはかなわなかったのよ」

 私は褒められたのかけなされたのか分からないような、複雑な気持ちがした。あの時、一生懸命に私を励ましていてくれたように見えた溝口 誠一が、本心ではそんなことを思っていたとは、正直少しショックだった。しかし、私の方でも知らず知らずのうちにセイラを傷つけていたのだから、足して引いたらお互い様なのかもしれない。

 私は竜と付き合っていた、十一年前に思いを巡らせた。久しぶりに、あの馬鹿っぽいけど快活な笑顔や、私より頭一つ秀でた恵まれた上背や、少しかすれた低い声が、頭の中にくっきりと蘇ってくる。たった半年という短い交際期間だったから、彼との思い出はそんなに多くはない。しかし、今から思うと、その一つ一つが私の中で他には代えがたい輝きを放っていた。

「退屈な話かもしれないけど……」

 私はそう前置きをした上で、セイラに竜の話を始めた。


 竜から告白された日を、私ははっきりと憶えている。それは、高三の夏休みも終わりに近づいた、八月下旬のある日のことだった。

 まだ残暑の残る昼下がり、郵便受けに新聞を取りに行った母が、戻ってくるとなぜかニヤニヤしながら、縁側で涼んでいた私に、「あんたも隅に置けないわねえ」と言って、一枚の葉書を差し出してきた。何のことか分からず首を傾げた私は、その葉書に目を落とした瞬間、母の言葉の意味を理解した。片隅にすいかの絵が描かれたその暑中見舞葉書の裏には、相田みつをのような力強い筆文字で、「早川ひかる お前が好きだ 付き合ってくれ」と書いてあったのだ。その差出人というのが、ほかでもない竜だった。

 私は最初、それを見て、これは竜が考えたきついジョークに違いないと思った。竜はクラスでも率先してくだらない悪戯や、ばかばかしい冗談を思いつくのが好きなお祭り人間で、英語の授業中に「センセー、英語で『うんこ』って何て言うんスか」などと質問して教育実習の若い女の先生を困らせたり、修学旅行で夜中に友人達とバカ騒ぎをして宿泊客からクレームを受けたり、文化祭のライブで演出に花火を使ってボヤを起こしたりしては、先生達から大目玉を食らっていたのだ。しかし、彼はトラブルメーカーではあったけれど、決して不良というわけではなかった。不良というのが学校という組織に反発し、背を向けた存在であるのなら、彼の場合はむしろ逆に、学校という組織に完全に取り込まれながら、その枠組の中でどれだけ面白おかしく過ごせるかということに、全精力を傾けるような人間だった。

 そんな彼から来たラブレターだったから、私がそれを何の疑いもなく悪戯だと判断したのも、無理もないことだろう。だいたい、皆が受験受験と目の色を変えて勉強しているこの大切な時期に、「付き合おう」なんて言ってくること自体、真実味がなかったし、葉書のやけに仰々しい字体といい、どこから見てもそれが本気だとは考えられなかったのだ。

 私はすぐさま、竜の家に電話をかけた。今なら携帯電話で直接本人と連絡が取れるのだろうけれど、当時はまだ高校生の間ではポケベルが主流だった時代だから、私は女からの電話にどことなく警戒心を抱いている様子のお母さんに、「ちょっとクラスの連絡網で……」とか言い訳をしながら、何とか竜に取り次いでもらった。しばらくして電話口に出た彼は、今起きたばかりのような寝ぼけ声だった。

「よう、久しぶり。元気だった?」

「元気だった、じゃないわよ。何? あの葉書」

「ああ、見たんだ?」

 竜は拍子抜けするほど、素の口調で言った。「びっくりしただろー?」とおどけるわけでもなければ、「もしかしてお前本気にしたの?」と冷やかすわけでもなく、そのやけに普通な感じが、私を心もとない気分にさせた。

「見たけど、あれ、どういうことよ?」

「どういうことって、見たまんまだよ。お前と付き合いたい」

「はあ?」

 私は竜の真剣な口ぶりと、事の唐突さとのギャップに面食らってしまった。思わず「ふざけないでよ」と、語気が荒くなる。確かに竜はクラスの仲良しグループの一人で、みんなで遊園地や海水浴に行ったことはあったけれど、彼が私のことを好きなそぶりなど、一度も見せたことがなかったのだ。「そんなこと急に言われても困るわよ」と、私は当惑した。

「困らないだろ。だってお前、彼氏いないじゃん」

「いなけりゃいいってもんじゃないでしょ! 受験も近いんだし。だいたい、何でいきなり私と付き合いたいって思ったのよ?」

 すると、それまでとは打って変わった物々しい口調で、竜が言った一言に私は絶句した。

「俺、この間死にかけたんだ」

「え?」

 思わず受話器を持った手に力が入る。

「そんな、大丈夫なの?」

 私が尋ねると、彼は「ああ、間一髪で無事だったんだけどな」と、芝居がかった溜息をついて、事の詳細を話し始めた。

「まあ、聞いてくれよ。俺、この間、村山達とキャンプに行ったんだよ。その時、皆で持ち寄りでバーベキューするはずだったんだけど、村山の奴、肝心の肉を買ってくるのを忘れてさ。仕方なく、俺とあいつでレンタサイクル借りて、ふもとのスーパーまで買い出しに行ったんだ。山道はずうっと、ゆるやかな螺旋状の下り坂が続いてて、自転車を飛ばすと吹き抜ける風が気持ちよくてさ。俺、つい調子に乗ってスピード出しすぎちゃったんだよな。そしたら、カーブに差しかかった時に、いきなりブレーキのコントロールが効かなくなってさ。俺、焦ったよ。だって、目の前を見たら、あるはずのガードレールが、そこだけぷっつり途切れてるんだもの。それで、俺はそのままカーブを曲がりきれずに、数メートル下の山肌に放り出されたんだ」

「えー、こわーい!」

 私は思わず話に聞き入ってしまい、受話器を握り締め身をすくめた。そして勝手に包帯だらけの竜の姿を想像し、そういえば電話に出た時に寝ぼけ声だったのも、もしかしたらずっと寝ていなければいけないほどの重傷を負ったせいじゃないかと、不安でいっぱいになった。すでに頭の中からは、彼が送ってきた暑中見舞いのことなど、すっかり抜け落ちてしまっていた。

「それで、怪我はなかったの?」

「うん、幸いなことに着地したとこが柔らかい草叢だったから、かすり傷程度で済んだんだけどな。でも、人間死ぬかもしれないって時には、走馬灯のようにいろんなことを思い出すって言うだろ? あれって本当なんだな。何か自分が生死の瀬戸際にいるにも関わらず、死ぬ前にあれもしたかったこれもしたかったって、いろいろ悠長なこと考えてさ。ああ、俺ってそういえば、今まで女と付き合ったことなかったなー、彼女欲しかったなーって思ったら、いきなりお前の顔が目の前にパッと浮かんできたんだよ。それで、こっちに帰ってきたら、もう居ても立ってもいられなくなって、早速お前にあの葉書を送ったってわけだ」

「は?」

 私は拍子抜けした声で訊き返した。いきなり肩の力が抜けた気分になったのは、今までの大仰な話が全て暑中見舞いの結論に至るための伏線だったと、その時やっと理解したからだった。その途端、私の中にはずっと怪談だと思って聞いていた話が駄洒落で落とされた時のような、腹立たしい気持ちが込み上げてきた。

「ねえ。その話、ほんとなの?」

 疑心暗鬼になり始める私に、竜は「本当だって!」と何度も念を押した。そして、彼は私の機嫌を直そうと、必死になって弁解を試みた。

「言っとくけど、俺はラブレターはおろか、暑中見舞いだって書いたのは初めてだったんだぞ。後にも先にも、俺の書いた便りを受け取ったのはお前だけだ。それだけでも、俺の本気を察してくれよ」

 しかし、私の中ではすでに、包帯だらけの竜の代わりに、机に向かい必死に私の度肝を抜く計画を立てる彼のイメージが膨らんでいた。もし私が休み中に電話をかけてこなかったら、彼は休み明けにはカモフラージュの絆創膏でも貼って、登校してくるつもりだったのだろうか。そう思うと、私は何だかおかしくなって笑ってしまった。もはや話の真偽はどうでもよく、気がつくと私は、彼の勢いに押されるように、「いいよ、付き合っても」と、交際をOKしていた。すると、受話器の向こうで「よっしゃ!」と、嬉しそうな叫び声が上がった。

「よかった〜、正直俺、断られたらどうしようと思って冷や冷やしてたんだよね〜。そうか、そうか。やっぱりお前にも、俺のこの一途な想いが伝わったんだな。あの葉書に凝縮された、溢れんばかりの俺の『愛』がさ」

「何よ、OKしたとたん調子いいわね。どうせ駄目だったら、『冗談だよ』の一言で済ますつもりだったんでしょ。だから葉書なんて回りくどい手段使って。女々しいのよ」

 さっきまでの慎ましさはどこへやら、すっかり有頂天で大口を叩く竜に、私はそう言って毒づく。たった半年ちょっとの私達の関係は、こうして騒がしく始まったのだった。


 私と竜はデートであまり遠出をしたことがなかった。というのも、竜はものぐさの上、忘れっぽい性格だったので、約束をしていても当日待ち合わせ場所に現れず、電話をしてみると「ごめん、今起きた」と寝ぼけ声で出てきて、結局近場に変更になることがしばしばだったからだ。その代わり、私達は二人で駅前のカラオケボックスやボーリング場や映画館によく出かけた。

 竜のボーリングの球を投げるフォームは独特で、足をクロスさせ左手を高く掲げたその姿勢を見て、私は「仮面ライダーの変身ポーズみたい」と、よくからかったものだった。映画はラブストーリーよりも、アクションやコメディを観に行くことが多かった。はにかみ屋の私達は、濃密な愛の物語に浸るよりも、痛快なカースタントやくだらないギャグの応酬を見て、スカッとする方が性に合ったのだ。そして最後は、ファミレスかラーメン屋か回転寿司に行って締める。それがいつものお決まりのデートコースだった。

 外で遊ぶお金のない時は、私達は竜の部屋で会い、一緒にゲームをしたり、漫画を読んだり、勉強をしたりもした。もちろん、異性への興味津々の年頃の男女が一つ屋根の下にいるのだから、それだけの健全な付き合いで済んでいたとは言わない。さすがに下に竜の両親がいると思うと、セックスはできなかったが、キスやペッティングはよくしていた。その頃は、愛情というよりも、そういうことが何か特別なことのように思えて、お互いの肌に触れることを無邪気に楽しんでいた。

 竜の部屋には、小さな楽園があった。それは、ミニチュアの恐竜達が飾られた模型のジュラシックパークだ。フィギュア好きの竜は、百点を超えるロボットやキャラクターの人形を集めていたのだが、中でも恐竜は大のお気に入りで、彼はそれを飾るためだけにわざわざテーブルを買い、そこに本物そっくりの小さな島を作り上げていたのだった。

 島は細部にまで手が込められていて、海岸線には砂浜を模したコルクパウダー、陸地の表面には芝を模した植毛シートが敷き詰めてあり、陸地を奥に進んだジャングルには、広葉樹の模型や、溶岩が吹き上げてきそうな火山まであった。そして、主役である恐竜達は、まるで生命を吹き込まれて実際に生息しているかのように、その風景に溶け込んでいた。湖で水浴びをするエラスモサウルス、首を伸ばして木の葉を食べるブラキオサウルス、火山の上を颯爽と飛翔するプテラノドン、獲物に向かって獰猛に牙をむくケラトサウルス……。ガレージキットと呼ばれるそれらのフィギュア達は、皮膚の皺や目の表情、ポーズに至るまで、今にも動き出しそうなリアルな迫力を持って、その存在を主張していた。

 中でも、竜が特に大切にしていたのは、自分で作ったティラノサウルスのフィギュアだった。フィギュア好きが高じた竜は、そのうちに自分で粘土を使ってフィギュアもどきを作るまでになっていて、初めて作った記念すべき一作目が、そのティラノサウルスだったのだ。それは周りの恐竜達に比べて、精巧さでは見劣りするところはあったけれど、その分、手作りの味があって、皺の一つひとつ、表情の細部に至るまで、竜の情熱が滲み出ているようだった。また、彼は着色にも独自のこだわりを見せ、ティラノサウルスの体の表面に、目を見張るような鮮やかなイエローの塗料を施していた。そして、そのイエローが背中にいくにしたがって、徐々にオレンジ色のグラデーションがかかっていく。それは、おおよそ私達の既成概念を覆すような、恐竜の色彩だった。

「何、これ? こんな色の恐竜なんていないでしょ」

 ある日、それを見てからかうと、彼が真顔でこう言い返してきたのを、私はよく憶えている。

「でもさ、テレビで誰かが言ってたけど、恐竜の皮膚の色や模様っていうのは、本当のところはまだ解明されてないらしいぜ。だから万に一つ、こういう原色の恐竜や水玉やストライプの恐竜がいた可能性だって否定しきれないってことだよ」

 竜はそのちっぱけな夢の詰まった模型の島に、まるで愛玩動物にかけるほどの大きな愛情を注いでいた。普段、自分の部屋は散らかし放題のくせに、その島にだけはこまめにはたきをかけて、埃が積もらないように神経を尖らせていたことからも、その愛着ぶりは一目瞭然だった。そして彼はしょっちゅう、恐竜達を掌にのせて眺めては、「ああ、いいなあ」と言って、うっとりと溜息をつくのだった。

 しかし、私はどうしても、その手の込んだ玩具の島を好きになることができなかった。恐竜達を愛しそうに手入れする竜も嫌いだった。なぜなら、その島は立派で、美しく、壮大だけれど、しょせんは模型というイマジネーションの世界からはみ出すことができないところが、竜という人間を象徴しているように思えたからだ。彼は人をわくわくさせ、未来を希望の色で染めるような夢を思い描くことはできるけれど、残念ながら、その壮大な夢を一つずつ段階を踏んで現実に移してゆく実行力には乏しい人だった。彼の夢はいつも、彼の頭の中で膨らみ、完結し、最後はよくできた模型のように、それを眺めて楽しむだけの、空しい虚像に成り果ててしまうのだ。

 例えば、仲間内でバンドを組むのが流行った頃には、彼もいち早くギターを購入し、「いつか俺もルナシーみたいにヒットを飛ばして、億万長者になってやる」と息巻いていたが、三ヶ月も経たないうちに、コードとの格闘に飽きて諦めてしまった。「ボキャブラ天国」という番組が流行った時には、「芸人ってもてそうだよなー。俺も芸人になって一発当てようかな」と言い出し、「もし俺がブレイクしてビッグになったら、ポルシェの助手席にひかるを乗せて、何でもうまいもん食いに連れていってやるよ」とうそぶいていた。そうかと思えば、沖縄がブームになった時には、「俺、大学卒業して何年か働いて金貯まったら、脱サラして沖縄に行こうかな。サトウキビかなんか育てながらさ、青い空と青い海に囲まれて、時間にあくせく追いたてられずに、のんびり過ごすのもいいと思わねえ?」なんて夢見がちに語ったりもしていた。でも、どれも本気じゃなかった。竜はいつも物事の華やかな部分ばかり見て、すぐその気になるくせに、ひとたび壁にぶつかると、それを乗り越えようと奮闘することはせずに、あっさり身を引いてしまうのだ。そして、結局最後はあの自室の小さな楽園に、自分の可能性を閉じ込めてしまう。私はそうやってくだらない自尊心を守るために、困難から目を反らしてばかりいる竜の弱さが嫌いだった。

「ねえ、竜、『不言実行』って言葉知ってる? 本当に何かをやり遂げようとする人は、夢みたいな理想をあれこれ語る前に、まず着実に一歩ずつ行動を起こすもんよ」

 私は自分のことは棚に上げて、竜によくそう忠告していた。でも、いつも竜は「分かってるよ」と頷くばかりで、決してその重い腰を上げようとはしなかった。

 そんな彼だから、当然、受験勉強だって真剣に取り組むはずもなかった。一緒に勉強をしていても、彼はたいがい先に根を上げ、「プテラノドンの大脱走」などとふざけながら、例の模型の恐竜を参考書の上に這わせたりして、人の勉強の邪魔をしてくるのだ。そして、私が真っ赤になって怒ると、それを見て彼はまた面白がって笑い転げるのだった。

「ちょっと、何がおかしいのよ。人が真面目に勉強してるっていうのに!」

「だって、お前の怒った顔、このプテラノドンそっくりだぜ」

「そんなことばっかりしてて、志望校落ちても知らないわよ!」

「大丈夫、大丈夫。俺には運が味方してるから。それより、メシでも行こうぜ、勉強はまた明日、明日」

「何が明日よ、もう!」

 しかし、そんなことを言いながらも、私は結局、最後には調子のいい言葉に丸め込まれて、彼を許してしまうのだった。「明日やる」と言って、翌日には同じセリフが繰り返されることはよく分かっている。それなのに、何だかんだ言いながら彼のペースに乗せられてしまうのは、私にも彼が語る夢の世界で泳いでいたいという気持ちが、どこかにあったからなのかもしれない。でもあと数ヶ月もしないうちに、私はその現実とは無縁のユートピアに、いつまでも彼と共に留まっていられないと気づくことになるのだ。そんな破綻の入口が見え始めたのが、クリスマスの頃に二人で出かけた、東京ディズニーランドでの出来事だった。


 その日はのっけから、何かいつもと違っていた。

 まず、待ち合わせの場所に行くと、遅刻・ドタキャンの常習犯である竜が、何と先に着いて、手持ち無沙汰な様子で私の来るのを待っていたのだ。いつも約束をしていても、守ったためしなどない彼のことを思えば、これは驚異的なことだった。竜は私を見ると、日頃の自分の振る舞いは棚に上げて、時計を見ながら「五分の遅刻だぞ」と唇を尖らせた。いつもの着古したダウンジャケットでなく、いっちょうらの黒いコートで決めているところも、この日の竜は一味違って、普段よりちょっとだけ男前に見えた。

 私は初めて行くディズニーランドが彼氏と一緒であるということに、胸が高鳴っていた。クリスマスにディズニーランド、なんていかにもベタだけれど、当時の私にとっては彼氏ができたら一度はやってみたいと思っていた、憧れのデートプランだったのだ。それに、思えばいつも地元のカラオケやファミレスなど、近場でしか遊んでいなかった私達にとって、これが初めて行く、デートスポットらしい場所でもあった。だから私も竜に負けず劣らず、白いコートにピンクのミニスカートという勝負服で決めてデートに臨んでいた。

 かくして、クリスマスのディズニーランドは、私達の期待を裏切らなかった。ゲートをくぐると、目の前には巨大なクリスマスツリーがきらきら輝き、路上では軽快な音楽に合わせて、私達のよく見知ったキャラクター達が愛嬌を振りまいている。その奥には無垢の象徴のような白いシンデレラ城、他方に聳える岩山にはジェットコースターが駆け抜け、雪のちらつく寒い日にもかかわらず、園内はたくさんのカップルや家族連れでごった返していた。

「すげえ、何かテンション上がるな」

 竜はそのアニメの世界から抜け出してきたような、ファンタジックな空間を見て、私以上に興奮し声を弾ませた。彼は私の手を引き先に立って歩きながら、はしゃいだ様子でいろんなものを物珍しげに眺めて回った。一方、私はせっかく憧れのデートスポットにやって来たにもかかわらず、どこかはしゃぎきれないような、座りの悪い気持ちを感じていた。そして、それは時間が経つにつれてだんだん強くなっていった。私達はいろんなアトラクションに乗り、耳を着けてミッキーマウスと記念写真を撮ったりして、他のカップルのようにデートを満喫していたけれど、楽しさの反面、私はなぜかそのテンションに乗りきれないような、このおとぎの世界に自分が溶け込むことに抵抗を感じるような、疎外感に近い違和感を抱いていたのだ。

 この気持ちは何なんだろう。しかし、私にはその原因が何であるかはよく分からなかった。いつもさびれたボーリング場やカラオケにばかり行っているから、こんな人の多い場所に来て気後れしてるんだろうか、ぐらいに思っていた。だけど、そうではないと自覚したのは、あるアトラクションに乗った時、隣で竜がふとこんなことを洩らしたのがきっかけだった。

「なあ、ディズニーランドってさ、何でこんなに楽しいのかって思ったら、中から周りのビルとかが一切見えないんだよな。だから、ここにいる間は他のこと全部忘れて、この世界にどっぷり浸かることができるんだよ。一年に何度も訪れるほどハマる人が多いっていうのも、何か分かる気がするよな」

 その時、私は自分が感じていた違和感の正体が、はっきり分かったような気がした。そうだ、ここは竜の部屋にある、模型のジュラシックパークにどこか似ているのだ。そこにいる時間だけ、見る人を完璧に別世界に導いてくれる、あの夢の島に。そのことに気付いた途端、私は今まで自分を取り囲んでいた、夢の世界を彩る小道具の数々が、無性にうらめしい物のように思えてきた。笑顔で手を振る三頭身のキャラクター達、お祭り気分を盛り上げる楽しげなBGM、細部まで細工の行き届いた建造物、心躍る様々なアトラクション……、そんな物に囲まれて浮かれる竜は、あの模型の恐竜達を愛しそうに眺める時と、全く同じ表情をしていたから……。

 そして、その日最高の出来事と、最悪の出来事は、閉園も近づいたフィナーレの頃に、ほぼ同時にやって来た。

 最高の出来事とは、竜からもらったクリスマスプレゼントのことだった。エレクトリカルパレードも見終わって、いよいよデートも終盤に差しかかった頃、私達はフィナーレの花火が少しでも良く見えるようにと、早々にシンデレラ城が真正面に見えるベストなポジションに陣取っていた。すると出しぬけに、竜が斜めに提げた鞄の中から、赤い包装紙に包まれた小さな箱を取り出した。

「ひかる、これクリスマスプレゼント」

「うそ! いいの?」

 私は驚きのあまり、思わず上ずった声で尋ねてしまった。まさか竜がプレゼントまで用意していてくれるなんて、思ってもみなかったからだ。予想外の出来事に、期待に胸を膨らませながら開けてみると、ビロード地の立派なケースの中には、赤い石のついた小さなピアスが二つ光っていた。

「嬉しい! この間ちょうどピアスの穴を空けたところだったんだよね。ねえ、この石ってもしかして……」

「カーネーションとか何とかっていったかな。お前、誕生日一月だろ? その誕生石だって、店の人が言ってたぜ」

 ガーネット、ガーネットだよと私は答えた。夢が叶う石って言われてるらしいよ、と教えてあげると、彼はふうんと頷いて、じゃあ俺も買おうかな、と独り言のように呟いた。私はその時、嬉しさで頭がいっぱいで、竜のその言葉の意味を深く考えることはしなかった。だって、いつも人の変化になど無関心で、髪型が変わってもろくに気づいてくれない彼が、私がピアスの穴を空けたのを憶えていてくれ、しかも誕生月の石をプレゼントするなんて、粋な心遣いを見せてくれたのだ。私はそれまでのどこか浮かない気分など吹き飛んで、竜の変化を喜び、今日は最高のデートだとすっかり有頂天になった。

 しかし、私のその舞い上がった気分は、フィナーレが始まってすぐ、ジェットコースターが急降下するように、一気に底辺へと突き落とされてしまった。なぜなら、光と音楽で盛り上がるフィナーレの真っ最中、頭上で打ち上がる花火を眺めながら、隣にいた竜がふとこんなことを口走ったからだ。 

「なあ、俺、海外の美大を受けようと思うんだ」

「え?」

 あまりの唐突さに、私は素っ頓狂な声を洩らしてしまった。音楽ならまだしも、作品といえば恐竜のフィギュアぐらいしか作ったことのない彼が美大なんて。しかも、これといった準備もしてないくせにいきなり海外とは。私は冗談とも本気とも判断がつきかねて、

「そんな、美大に入るにはデッサンとかいろいろ実技の試験があるんだよ。日本の美大だって今から準備しても難しいのに、海外なんて無理だよ」

と忠告すると、竜は熱の込もった口調で私を諭すように言った。

「俺、アメリカに留学したいんだよな。ポップアートの本場だしさ。芸大とか美大とかもいっぱいあるみたいだし。それでイサム・ノグチみたいな、かっこいい彫刻いっぱい作りたいんだよ」

 光のショーは、その時まさにクライマックスを迎えているところだった。頭上ではキャンバスに絵を描くように、夜空に幾筋もの光線が飛び交い、色とりどりの花火は、ほとばしる絵の具の飛沫のように、華やかに弾けては暗闇の中に溶けていっている。しかし、私にはもはや、そんな夜空の芸術など堪能する余裕はなかった。心の中は急にのしかかってきた疲労感と、裏切られたような虚しい気持ちでいっぱいだった。せっかくずぼらな竜の尻を叩いて、現実的に手の届く志望校を決めさせ、計画を立てて一緒に勉強してきたというのに、彼は私がそうやって一生懸命に現実に繋ぎ止めようと努力しても、ちょっと目を離した隙に、自由奔放に大気圏外に飛び出してしまうのだ。それにしても、私に何の相談もなく、勝手に海外だなんていくら何でもひどすぎる。

「どうして何も言ってくれなかったのよ」

 泣きそうになるのをこらえながら、批難を含んだ眼差しを向けると、竜は「ごめんな」と言って私の頭を撫でた。しかしその口調は、待ち合わせ時間に遅れて、媚びた声で謝る時と同じ程度の重さしかなかった。

 そして、フィナーレが終わった。多くのカップルがまだショーの興奮が冷めやらぬ様子でぞろぞろと出口に向かう中、私達は重い足取りでイルミネーションが煌く道のりを、言葉少なに歩いていった。「なあ、また来年も来ような。ディズニーランド」

 竜は私の機嫌を窺うように、明るい口調で話しかけた。しかし、私はさっき自分が言ったことも忘れて、お気楽にその場しのぎの口約束をする竜にますます不満を募らせた。

「アメリカ行くんでしょ。だったらそんなに簡単には来れないじゃない」

 すると、竜は私の膨れっ面を笑い飛ばし、コツンと額を小突いてこう言ったのだった。

「ばーか、次は本場フロリダのディズニーワールドだよ」

 その時、私はプレゼントにもらったガーネットのピアスの箱を握り締めながら、「夢なんてくそくらえだ」と心の中で悪態をついた。


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