二
電話がかかってきたのは、ちょうど近くのスーパーで買い物を終え、家に帰ってきた夕方頃のことだった。
キッチンで冷蔵庫に買ってきたものをしまっていると、ふいに玄関の方で電話が鳴るのが聞こえた。急いで廊下に飛び出し受話器を取ると、私の耳元に響いたのは、聞き慣れない野太い声の女言葉だった。
「どーも、久しぶり! 早川さんでしょ。元気だった? アタシよ、アタシ、憶えてる?」
しかし「アタシ」という割には、その壊れたスピーカーから発されたようなだみ声は、明らかに男の人のものである。いくら記憶をフル回転しても、ニューハーフの知り合いなど一人も思い当たらない私は、「すいませんが、どちら様でしょう?」と尋ねると、電話の主ははしゃいだハスキーボイスで答えた。
「溝口 誠一よ。高三の時、同じクラスだった。もっとも、今じゃみんな私のこと『セイラ』って呼んでるけど」
溝口誠一……、私は再び記憶を巡らせて、脳のメモリスティックを検索し始めた。すると、記憶の片隅でわずかにヒットする手応えがあった。
「あっ!」
「すぐには思い出せなかった? まあ、分かるけど。アタシ、地味でおとなしかったから。あんまりみんなの記憶には残らないタイプよね」
溝口 誠一=セイラは、ニューハーフの人がよくそうするように、無理やりおばさんっぽい自嘲的な感じを作って、ギャハハと笑った。でも、私の記憶にある溝口 誠一のイメージは、本人が言ったような暗いものばかりではなかった。確かに彼は口数が少なく、クラスで目立つようなタイプではなかったけれど、別に嫌われたりいじめにあったりはしていなかったし、その中性的なきれいな顔立ちと、休み時間にもあまり人とつるまず、一人で本を読んでいるような孤高な雰囲気は、ある種のカリスマ性さえ漂わせていたのだ。大勢で騒ぐうるさい男子達には敬遠されていたけれど、一部の女子からは熱狂的に支持される存在だった。しかしなぜ、特別親しくしていたわけでもない彼が、今になっていきなり電話なんかしてきたんだろうと、私は訝しく思った。
「それはいいけど、どうしたの? 溝口君が私のところに電話かけてくるなんて」
「あっ、そうね! 肝心なこと言い忘れてたわ。実はね、十年ぶりに同窓会をやることになったのよ。担任の大牟田先生って憶えてる? あのごっつい、熊みたいな先生よ。あの先生が今年定年で学校を退職したんで、久々にみんなで集まって先生を労おうって、クラス委員やってた山本君と井上さんが計画してくれたの。それで、二人に連絡回すの手伝ってって頼まれて、こうして早川さんのところに電話したってわけ。ねえ、こんなことって滅多にないし、都合つきそうならぜひおいでよ」
「うん、行く、行く!」
私は即答した。どうせ家にいても暇を持て余すだけだし、同窓会は沈んだ気分を紛わしてくれる願ってもない誘いだった。大乗り気の私に、セイラも「そうこなくっちゃ!」と声を弾ませる。続けて彼女は「ところで」と話を脱線して、あるクラスメートの名前を口にした。
「早川さんって、橋爪 竜とはまだ連絡取ってる?」
その名前には、溝口 誠一と違ってすぐにピンときた。なぜなら、彼と私は高校三年生の時に付き合っていたことがあったから。たった半年ちょっとという、短い交際期間ではあったが……。
「ううん、取ってない。私と竜、卒業したらすぐに別れちゃったから……」
すると、セイラは「やっぱり、そうよね」と、肩を落としたように溜息をついた。話を聞いてみると、どうやらクラスの中で彼だけが誰とも音信不通で、実家の電話番号も変わってしまっているために、連絡の取りようがなくなっているということだった。
「万が一、竜の連絡先が分かったら、ここに電話してちょうだい」
彼女はそう言うと、仕事先と携帯の番号を私に教えてくれた。しかし、私はメモを取りながらも、きっと竜の連絡先を積極的に調べることはしないだろうし、間違っても竜の方から私に連絡が来るようなこともないだろうと思った。何せ、あんな別れ方をしてしまったのだから……。
セイラはそれから同窓会の場所と時間を告げると、「じゃあ、当日楽しみにしてるわ」と明るく言って電話を切った。受話器を置いた後、私は時の流れがもたらす人の変化にただただ驚いて、しばらく呆然と電話の前に立ち尽くしていた。
あの溝口 誠一が、まさかニューハーフになるなんて。
いや、そもそも同級生が将来ニューハーフになるなんて事態を、いったい誰が想像できるだろう。私の記憶の中にある溝口 誠一は、確かに容姿が中性的なところはあったにせよ、れっきとした男に違いなかった。百七十センチを超える長身に、陸上部で鍛えられた細く引き締まった肉体。短距離走が得意な彼は、高校の体育祭でも脚光を浴びる存在だった。無駄のない精悍な筋肉が、スタートダッシュと同時に伸びやかに躍動するさまは、洗練された駿馬のようで、玉のような汗をほとばしらせながら、先を走るランナーをじわじわと追い上げていく姿に、ギャラリーの女子達は黄色い歓声を上げて熱狂したものだ。
しかし、グラウンドの華やかな活躍に反して、普段の彼は凪いだ海のように物静かな性格だった。他の男子のように制服を着崩したりせず、学ランの詰襟はきっちりと上まで留め、涼しい目でいつもどこか一歩引いてものを見ているような雰囲気は、ガキっぽい男子が多数を占める中にあって、ずいぶん大人びて見えた。
彼は竜とは一年生の時クラスが一緒だったこともあり、結構仲良くしていたようだけれど、私とはあまり言葉を交わしたことはなかった。だけど、その数少ない会話の中で、一つだけ印象に残っていることがある。それは竜との関係に亀裂が生じ始めていた一月に、偶然、放課後の教室に二人で居合わせた時のことだった。
話のきっかけを作ったのは私の方だった。その時、私は進路のことで担任から呼び出しを受けた竜を待っていて、持て余した時間を潰すぐらいの気軽な気持ちで、窓際の席で読書に耽る溝口 誠一に声をかけたのだ。
「何読んでるの?」
そう訊くと、彼はにっこり微笑んで、持っていた文庫本のカバーをめくり、表紙の題字を私に見せてくれた。それはタイトルだけは私も耳にしたことがある、どこか海外の作家の有名な小説だった。
「すごい、博学だねえ、溝口君は。私なんか、読書感想文を書く時ぐらいしか、本なんて読まないよ」
感心する私に、溝口 誠一は「そんなことないよ」と言って、照れくさそうにはにかんだ。そして、彼は本を閉じると、脇に立った私を見上げ、「誰待ってるの、彼氏?」と、邪気のない笑顔で尋ねてきた。
「うん、まあ……ね」
と、曖昧に頷いてはみたが、無理に作った笑顔はきっと引きつっていたのだろう。溝口 誠一は怪訝な顔をして、「何かあった?」と、心配そうに尋ねてきた。その優しい問いかけに、私は思わずぽろりと本音を洩らしてしまった。
「……聞いてくれる?」
そして気がつくと私は、自分の中に押し止めていた竜への不満を、洗いざらい彼にぶちまけていた。今から思えば、どうしてそんなことをしてしまったのか自分でも不思議に思うのだけれど、私は大して話したこともない異性のクラスメートに「竜は調子はいいけれど、実行が伴わなくて、その上、自分の欠点を直視しようともせず、何からも逃げてばかりいるところが許せない」と、そんなことをとりとめもなく喋っていた。彼からしてみれば、いきなり親しくもない女子から彼氏の愚痴を聞かされて、さぞかし迷惑だったことだろう。しかし、彼は嫌な顔ひとつすることなく、時々、私の目を見て、うん、うんと深く頷きながら、要領を得ない私の話に我慢強く耳を傾けてくれた。特別、何かを言って慰めてくれたわけではない。だけど、過敏に反応するでもなく、適当に相槌を打つでもなく、全てを丸ごと柔和な表情で受け止めてくれる彼に思いを吐露していると、気心の知れた女友達といるようで、不思議と不安や苛立ちが和らいでいくような気がした。
「でも、あいついい奴だよ」
私の愚痴をひととおり聞き尽くした後、溝口 誠一はそうぽつりと呟いた。彼は「『人間の持っている天性で、徳となり得ぬ欠点はなく、欠点となり得ぬ徳もない』って、誰か偉い人が言ってたよ」と鼻歌を歌うように囁くと、夕焼けに染まったグラウンドを眺めて眩しそうに目を細めた。
「だってよく言ってるよ。またひかるに怒られた、俺、あいつを喜ばせようとしてるのに、どうしていつも裏目に出ちゃうんだろうって。ほら、あいつって、目の前の大切な人を喜ばせようと思って、後先考えずにものを言うところがあるからさ。だから、その調子がいいとか、実行が伴わないとかっていうのも、本当はサービス精神の裏返しなんだと思うよ。あいつは言ったことが実現できるかどうかよりも、その場で早川さんをどう楽しませるかってことの方が大切なんだよ。それで、自分ができる以上のことを、何倍にも誇張して言っちゃうんじゃないかな、きっと」
その言葉に私はハッとさせられた。確かにそうなのだ。私は竜の一見軽いと誤解されがちだけど、ありふれた話に脚色を加えたり、夢のような思いつきを本当らしく話したりして、一生懸命に人を楽しませようとするところが好きだった。しかし、付き合っていくうちに、いつも本心をはぐらかすようなおちゃらかした態度が鼻につくようになって、そんなところも魅力に思えなくなっていたのだ。そんな冷めかけた私の気持ちを、溝口 誠一は何気ない言葉で、原点に立ち返らせてくれた。私は正直、それまで溝口 誠一に対して、どこか冷めた人だというイメージを抱いていたので、このことは意外な一面として私の記憶に印象深く残った。
このことがあったおかげかどうかは分からないけれど、私と竜はそれから二ヶ月もった。しかし、結局最後は、卒業後に起こったある出来事がきっかけで、けんか別れをしてしまった。それからは一度も会う機会がなかったので、彼が今どうしているのかは全く分からない。
私は久しぶりに、高校の時、ごく短い間だけ付き合った彼の顔を頭の中に思い浮かべた。当時、人気絶頂だったバンド「ルナシー」のボーカル・河村 隆一を真似て中途半端に髪を伸ばし、いきがって眉を細く整えたにきび面の学ラン姿。お調子者で授業中も騒いでばかりいたけれど、不思議と誰からも憎まれない得なキャラクターだった。竜は一体どうしているのだろうか。私は彼に同窓会に来て欲しいような、欲しくないような複雑な気持ちがした。でも、もし誰かが連絡先を突き止めて彼が同窓会に来てくれたならば、今度こそはあのことを謝ろうと、私は壁のカレンダーに丸印をつけながら、密かに心に誓った。