十二
頭上に広がる葉叢の間から差しこんでくる陽射しが、地面に点々とモザイクのような光の模様を描いている。風はほとんどなく、肌に当たる陽光の熱さに、額のあたりがうっすらと汗ばむ。もう、季節はいつの間にか初夏だ。
私はほんの一月ほど前にタイムカプセルを掘った、あの母校の校庭の桜の下に、竜とセイラと三人で佇んでいた。足元には以前と同じ、「一九九八年 三年A組卒業記念」と書かれたぼろぼろの木札がある。ただ、タイムカプセルを掘り起こした部分が周りの土と色が違って、うずたかく盛り上がっているところだけが、以前とは違っていた。
「たった一ヶ月しか経っていないのに、なんだか懐かしいわね」
梅雨の谷間の抜けるような青空を見上げながら、セイラが呟いた。校庭では、休日練習に励む野球部やサッカー部の生徒達の、威勢のいい掛け声がこだましている。私達は木札の周りにしゃがみ込むと、土が盛り上がった部分を、再びシャベルで掘り起こし始めた。土をすくい、穴を掘る作業を進めている間、私の脳裏にはこの数週間の間に起こった出来事が、次々と走馬灯のように甦ってきた。セイラの言った通りだ。たった一ヶ月しか経っていないのに、その間にあまりにもたくさんのことが起こりすぎて、同窓会でタイムカプセルを開けたことなど、もう遥か遠い記憶のように感じる。
「このくらいでいいんじゃないか」
ちょうどみかん箱が埋められるほどの穴が掘れた頃、竜はおもむろにボストンバッグの中から、ビニール袋に包まれたセイラのオブジェを取り出した。
この場所にオブジェを埋めようと言い出したのはセイラだった。十一年の時を経て、私達を再び引き合わせてくれたタイムカプセル。今度は同じ場所にオブジェを埋めて、また何かに迷った時や、壁にぶつかった時に掘り起こすの、そうしたら、いつでも今の気持ちを思い出して、また頑張ろうって気になれるでしょう、と彼女は竜がオブジェを私達に披露したあの後、そう言ったのだ。
そして私達は今、ここにいる。もしかしたら私達が埋めようとしているものは、オブジェでもカプセルでもなく、時間そのものなのかもしれない、と私はふと思った。積み重ねられていく日常の中で、更新される記憶に埋没してゆく時間というものを、浦島太郎の玉手箱のように、切り取って保存する。何年後になるかは分からないけれど、次にこの場所に立った時、私は洋介に振られ、セイラや竜と過ごしたあの数日間の出来事を鮮明に思い出すだろう。たとえその時、私に家庭があり、セイラが女になって、竜が有名なアーティストになっていても、このほろ苦く気恥ずかしい思い出だけは風化せずに、私達は癒えた傷跡をなぞるように、この記憶を懐かしさを覚えながら振り返るのだ。
竜はセイラのオブジェを、持参したプラスチックボックスに収めると、慎重にそれを穴の底に置いた。私達は一瞬、お互いの顔を見合わせた後、「じゃあ、始めよう」という竜の合図で、少しずつその上に土をかけていった。作業は拍子抜けするほどあっという間だった。穴をすっかり埋めた後、竜は盛り上がった真新しい土をぽんぽんとシャベルでならしながら、今さらながらというように私達に尋ねた。
「なあ、ところでこれって、何年後に掘り返すわけ?」
「そりゃあ、今度また人生の壁にぶつかった時よ」
「じゃあ、数ヶ月後には掘り返す可能性もあるってこと?」
「やめて縁起でもない」
「どうせなら、二十年後とかに白髪が出始めるころになって、あー私らも若かったなーなんて、懐かしがりながら開けたいよね」
「その頃には、埋めたことさえ忘れてんじゃねーの?」
私達はそんなことを話しながら母校をあとにし、駅へと続く土手道を歩いていった。眼下の川は陽光を受けてきらきらと煌き、涼しげなせせらぎの音をたてて穏やかに流れている。川岸には草野球にいそしむ少年達や、犬を連れて散歩をする家族連れや、釣り竿を持ったまま昼寝をするおじさんの姿などが点々と見受けられ、あの同窓会の帰りの時とは打って変わって、人の気配で賑やかすぎるほどだった。
「あっ!」
その時、私はふと立ち止まって声を上げた。大阪にいる間、竜にあの時のことを謝ろう謝ろうと思っていながら、ずっと忘れていたことを、今思い出したのだ。竜とセイラは振り返り、「どうしたの?」と言って、いきなり素っ頓狂な声を上げた私を不思議そうに見つめていた。
「あのさ、竜……ごめんね」
「は?」
竜はきょとんとして私を見返していた。私が「ほら、ティラノサウルスのこととか……」と言うと、竜はようやく合点がいったように、「ああ!」とポンと手をついた。だが、「何で今さら?」という疑問は拭えないらしく、表情には戸惑いの色が浮かんだままだった。
「いや、今さらなんだけど、ちゃんと謝ってなかったからと思って……」
私は自分で自分の言ったことの収集がつかなくなって、苦しげに言い訳をした。しかし次の瞬間、竜の口から出た言葉は、私の意表をつくものだった。
「俺の方こそ、ごめんな」
「え?」
「いや、お前昔から胸ないって気にしてたのに、ヌードになってくれなんて言って、悪かったよ」
すかさず、隣からセイラの鋭いビンタが竜の頬に飛んだ。
「ほんっとに、相変わらずデリカシーがないわね、アンタは!」
と顔を真っ赤にして怒鳴るセイラを見て、私は笑った。ほんとにその通りだ。昔から変わらない。この竜の少しピントの外れたところは、相変わらず。でも、昔は許せなかったその鈍感なところも、今は微笑ましささえ感じるほど、余裕を持って受け止めることができる。
その時、頭上にかかった陸橋の上を、ゴーッという轟音をたてて、普通電車が慌しく通り過ぎていった。この電車も昔と変わらない。高校の頃、私達はこのくすんだ色の古ぼけた車両に揺られながら、目の前に広がる太く穏やかな河流を何度眺めたことだろう。川はいつも豊かな水をたくわえながら、どこまでも続くように地平線の向こうまで真っ直ぐ遠くに伸びていた。
「何か、世界って一つだよなあ」
唐突に、川を眺めながら竜が洩らした言葉に、私とセイラは「は?」と言って顔を見合わせた。
「何、いきなりグローバルなこと言ってんの?」
と思わず突っ込む私達だったが、竜は悠然と言葉を続けた。
「いや、俺これまでは、いつもここじゃない、どこか別の場所に行ったら、今よりもっとよくなるんじゃねーかって、ずっと理想郷みたいなのを追いかけ続けてきたけど、なんか最近、そういうんじゃないんだなって思うようになったんだよな。結局さ、どこに行っても同じなんだよ。大阪だって、外国だって、宇宙行ったってさ。返さなきゃ借金だってなくならないし、仕事だって探さなきゃ見つからない。いきなり別の自分になれるわけなんてなくて、俺は今まで自分がしてきたことを、抱えながら生き続けていくしかないんだよなーって」
伸びをするように空に腕を突き出しながら、決意を新たにする竜を見て、セイラは穏やかに微笑んだ。
「そうよ、楽園はもともとあるもんじゃない。どんな場所だって、自分が頑張ればそこが楽園になるのよ」
「快楽のために努力するんじゃなく、努力そのものに快楽を見出すことが幸福への秘訣だ」って、かのアンドレ・ジイド大先生も言ってるしね、とセイラはまた格言を口にすると、土手沿いに植わった緑葉樹の枝に手を伸ばすように、ピョンと勢いをつけてジャンプをした。だが、着地をした瞬間、ぬかるみにヒールがはまって、彼女はハネが飛んだワンピースの裾をつまみながら、「もう、誰よ。土手歩こうって言ったの」と、恨めしげに頬を膨らませた。
それから半年が経った。幸い、セイラのオブジェが入ったタイムカプセルは、まだ母校の桜の樹の下にある。
竜はあれからすぐ、借金を踏み倒したまま、海外へととんずらしてしまった。結局、貯まった借金は実家の両親が後で払ったと噂で聞いた。相変わらず何をやってるんだかと思っていたら、先日、私の家にアメリカから一通のエアメールが送られてきた。それは竜からのもので、そこには「最近、やっと仕事を見つけました。一応、ものを作る仕事です」と書かれた手紙と、動物の形をしたバイブレータが一緒に入っていた。そして、手紙の最後には「俺もこっちで金を貯めて、今度こそ美大に入学するつもりです」と雑な字で付け加えられていた。何はともあれ、彼は彼で新しい一歩を踏み出したようだ。
セイラは先日、性転換手術を受けるために、ついにタイへと旅立って行った。空港まで見送りに行くと、彼女は竜にもらったトリケラトプスのフィギュアを大事そうに片手に抱えながら、「絶対、お土産買ってくるからね!」と、大仰に手を振って去っていった。今度、日本の地を踏む時には、同じセイラなのに性別が変わっているのかと思うと、何だか不思議な感じがする。でも、肉体とか性別とかいうのは本当はどうでもいいことなのかもしれない。だって、彼女はこっちにいる時からすでに、私なんかよりずっと女らしかったのだから。
そして私はというと、他の二人ほど変化はなく、相変わらず東京の実家で結婚の予定もなくぶらぶらと過ごしている。
でも最近、近くの陶芸工房で仕事を見つけた。驚くことに、半年前は全く興味の湧かなかった陶芸に、私ははまってしまったのだ。仕事はまだ雑用しか任されていないけれど、空いた時間に土を触って、地道に作品を作り続けている。今は、床の間に置く大きな壷作りに挑戦しているところだ。
今進んでいる道が、果たして自分にとって楽園に続く道なのかどうか、それは分からない。もしかしたらまた半年後には、すっかり飽きてしまって、全く別のことを始めているかもしれない。でも、それでもいいのだと思う。
あの同窓会の日に持ち帰ったタイムカプセルは、部屋の収納スペースの片隅に、いつでも中身が入れられるよう、空のままで置いてある。
(終)