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 そして次の朝から竜は、黒い大きなボストンバッグを携えて、私達のホテルの部屋にやって来るようになった。

「考えたんだけどさ、俺、やるよ」

 そう言って、彼がバッグの中から粘土や道具を取り出した時、セイラは感極まって、思わず「竜……」と口ごもって涙ぐんだ。それから、セイラがモデルとなり、竜がオブジェを作る、二人の共同作業が始まった。

 ビジネスホテルの小さな一室は、にわかアトリエに変貌した。私達がいつも寝起きをするベッドの上でセイラがポーズをつけ、その前に設置された小さなローテーブルの上で、竜が作品を作るのだ。

 私は彼らが作品に取り組んでいる間は、できるだけ外出して部屋を二人きりにするようにした。「気を使わなくていいのに」とセイラは言ったが、第三者にずっと見られていたら竜だって集中できないだろうし、私としても緊張感が漂う空間に、手持ちぶさたで居座り続けるのは、何となく場違いのような気がしたのだ。

 私は毎日、ホテルの周りの、難波や心斎橋の界隈を歩き回った。なんばパークスやマルイ、心斎橋筋商店街やビッグステップで買い物をし、巨大書店で立ち読みをし、有名なお好み焼き屋やうどん屋を食べ歩いた。おかげで、初めは道に迷ってばかりで目当ての場所まで辿り着くのに時間がかかっていたのが、最近では周辺の地理にすっかり詳しくなった。さらに、周辺散策だけでは飽き足らなくなってくると、時には地下鉄に乗って梅田や天王寺にまで足を伸ばしたりもした。

 しかし、そうやって観光気分で散策に耽る一方で、私は内心、焦りを感じてもいた。セイラも竜も自分を変えるために新しい一歩を踏み出しているのに、自分だけがそこに乗りきれずに、取り残されている気がした。 

 私も変わるために何かを始めなきゃ――。

 そうやって、心ばかりははやるのだけれど、じゃあ何を、どうやって? と考え始めると、具体的には何も思いつかないのだった。

 試しに転職の本や趣味の本を手に取ってみても、いま一つ自分にピンと来るものがない。本には「三十代から輝く女の秘密」とか、「好きなことを仕事に! 切り開けあなたの可能性!」と題して特集が組まれ、三十代で成功を手にした女性達の体験談が載せられていた。だが、三十代で留学し外資系企業に転職を果たした元OLや、起業して年商数十億を稼ぐ女社長や、趣味が高じて教室を開くまでになったフラメンコ講師などの体験談を読むたび、そのあらゆるものに見向きもせず一つのものに打ちこむ姿勢に、どこか自分とは違う種類の人間だという隔絶感を覚えてしまうのだった。もしかしていい人がいたら一年後には結婚してしまうかもしれないのに、今までとは全く別のことを、一から始めるのは正直言って面倒くさい。結局、いつも私はそんな感想を抱いて、何の解決も見出せず、買った本を手に悶々としたままホテルに戻る羽目になるのだった。

 一方、立ち往生している私とは裏腹に、竜の作品の方は順調に完成に向かって進んでいるようだった。驚くことに、十一年前は何にでもすぐ根を上げていた竜が、今は目を見張るほどの集中力を見せているらしい。作業中なんてほとんど喋らず、黙々と作品づくりに没頭しているんだから、とある日、セイラは帰ってきた私に言って、部屋の隅のローテーブルを指差した。テーブルの上には、濡れタオルを被せられた作りかけのオブジェが置かれていた。

「これが、例の?」

 私がタオルをめくって中を覗こうとすると、セイラは「駄目よ、まだ」と言って、私の手をピシャリと叩いた。

「出来上がってからのお楽しみなんだから。それまではアタシだって見ちゃいけないって言われてるのよ」

 でも、まさかずっと目をつむってモデルをするわけにもいかないし、セイラが見ないなんて無理じゃないの? そう訊くと彼女は、確かに全然見ないわけじゃないわよ。でも、アタシの位置からじゃ後ろ姿しか見えないの。竜ったら、作業が終わるとすぐタオルを被せちゃって、アタシに途中経過を見せてくれようとしないのよ、と不服そうに頬を膨らませた。

 しかし口ではそう言いながらも、彼女の表情はどこか嬉々としていた。さらに、彼女は私が「でも、お互いずっと喋らないんなら、じっとしてるのって退屈じゃない?」と多少皮肉を込めて訊いても、全く意に介する様子はなく、「全然」と首を振り、幸せそうにこう答えるのだった。

「アタシ、ほとんど言葉を交わしてないのに、今までで一番、竜のことが分かるような気がするの。不思議よねえ。高校の頃はあんなに長い時間一緒にいて、たくさん言葉を交わしても、竜のことが分からなくて不満だらけだったのに」

 私はそれを聞きながら、満たされているのだな、と思った。彼女は初めて偽りのない自分のままで竜と向き合えている時間に、心からの充足を感じているようだった。対照的に、私は彼女の口から二人の時間がいかに実のあるものかを聞かされるにつれ、だんだんと寂しい気持ちが増していった。自分がますます二人から遠のいていくような疎外感に加え、私はセイラを竜と付き合っていた頃の自分と無意識に比べてしまい、彼のことをここまで献身的に思える彼女に多少の嫉妬心さえ感じてしまうのだ。

 そしてその寂しさは、時間を追うごとにますます募っていった。気晴らしに私も没頭できることでも見つけようかと、陶芸教室の体験レッスンに参加してみたりもしたが、そこで同じく一人で来て、大きな壷作りに没頭している、おそらく常連であろう三十代くらいの女性の姿を見つけて、何となくやる気が萎えてしまった。しかし、それは今に始まったことではなかった。竜が作業をする間、一人で出かけるようになってからというもの、私は映画館やレストランや美術館やマッサージショップに一人で来ている少し年上の女性の姿を見かけるたび、こうはなりたくないと思っていた女性像に自分が近づいている気がして、ブルーな気持ちになっていたのだ。このままだと、自分が一人でアラスカにでもチベットにでも行けるようになれそうな気がして怖かった。私は寂しさに慣れたくはなかった。寂しさに慣れることで、孤独を正当化するような女にはなりたくはなかった。

 そんな矢先、私は道頓堀川の戎橋のところで、一人の男性に声をかけられた。時刻は確か六時頃、そろそろホテルに戻ろうかと難波に引き返し始めた頃だったと思う。「あの、すいません……」とぎこちない口ぶりで声をかけてきた彼は、紺のスーツをパリッと着こなした、サラリーマン風の風貌で、年は三十代半ばといった印象だった。

「いやあ、普段はこんなことしないんだけど、きれいな人だったものだからつい……」

 彼はいかにもナンパに慣れていないといった様子で、照れたように頭を掻くと、私に一枚の名刺を差し出した。そこには、CMで見たことのある有名な企業の名が書かれていた。

 私は久しぶりに胸が高鳴るのを感じた。それは同級生との再会やおいしい料理やショッピングや陶芸では得られなかった気持ちの高ぶりだった。私はその時、洋介と別れてから自分が一番何を求めていたのかを、はっきりと意識した。フラメンコも英会話も陶芸もガーデニングも、どうりでピンとこないはずだ。私が求めていたのは何よりも新しい出会いだったのだから。

 私は一緒に食事に行こうという彼の申し出を快くOKした。彼が連れていってくれたのは、雑誌などでも紹介されたことがあるという評判のイタリアンレストランだった。そこは、竜やセイラと行くお店とは雰囲気が違って、重厚な内装やかしこまった接客態度からも、かなり高級であることが窺えた。私は間接照明の薄暗い灯りと、落ち着いた店の雰囲気に呑まれるように、ワインをたくさん飲み、したたかに酔ってしまった。食事の後、彼は足元のおぼつかない私を抱えるようにしてタクシーに乗せると、車をそのままホテルに向かわせた。

 ホテルに向かう車内で、私はシートにもたれながら、酔った頭で果たしてこのままこの男の思惑どおり、ホテルについていっていいものかを考えていた。いくら今まで彼の態度は紳士的とはいえ、私達は今日出会ったばっかりで、しかもその出会いというのが橋の上でのナンパなのだ。今までの私なら、連絡先を聞くだけにしておいて、レストランの前で別れているはずだった。でも……、とそこまで考えて、私は想像を巡らせた。もしあそこで別れていれば、東京から来ている私は彼に二度と会う機会がないかもしれないし、私が帰ったら、彼は一緒に食事をしただけの相手と会うために、わざわざ東京に出てきたりはしないだろう。お互いに深く知り合えるチャンスは今しかないのだ、と私は腹を決め、男の肩に頭をもたせかけた。見知らぬ土地で酔っ払った私は、いつになく大胆になっていた。

 しかし、ホテルに入ると、それまで紳士的だった彼の態度が、人が変わったように急変した。彼は私の衣服を剥ぎ取るように脱がすと、乱暴にベッドに押し倒し、両腕を掴んで私の上にのしかかってきた。そして、強い力で私の喉元に手をやり、首を締めるようにして顎を上げさせると、自分の唇で私の唇を塞いだのだった。

「苦しい……」

 私は呻くように呟いたが、彼は聞く耳を持たなかった。そして、長いキスを終えると、彼はいったん私から離れ、ベッドの脇に置いていた自分の鞄をごそごそと探り始めた。私がこっそり後ろから中を覗いてみると、そこにはロープや革ベルトなどの怪しい器具がたくさん詰め込まれていた。

「いやっ!」

 私は思わず叫び声を上げ、急いで自分の服と鞄を掴むと、引き留めようとする彼の手を振りほどいて、下着姿のままで廊下に飛び出した。そして、服を着ながら階段を駆け下り、逃げるようにホテルを去った。すでに素っ裸になっていた男は、「ちょっと待って!」と部屋の中から必死に呼び止めたが、外に出てまで私を追ってこようとはしなかった。

 私は憔悴しきった足取りで、ビジネスホテルへの道を引き返した。先ほどまでほどよく回っていた酔いは、さっきのショックと夜風のせいで、もうすっかり冷めきっていた。時計を見ると、時刻はもう十一時を回ろうとしていた。何の連絡も入れていなかったので、セイラはきっと心配しているだろう。でも、口を開くとその場で泣き崩れてしまいそうだったので、電話をかける気にはなれなかった。

 どれほど歩いただろうか。いつの間にか、私の前には先ほど男に声をかけられたところと同じ、戎橋の風景が広がっていた。私は欄干にもたれ、道頓堀川に向かって、男からもらった名刺を憎々しげに破り捨てた。ひどく惨めな気分だった。危うく難は逃れたとはいえ、どうして私ばかりがこんなひどい目に遭わなければいけないのだろうか。洋介といいセイラといい竜といい、人を差し置いて成長したり幸せになったりして、私ばかりが貧乏くじを引いている。そう思うと、悔しさが込み上げてきて、私は固い鉄製の欄干を拳で思いきり何度も叩いた。

 そもそも、私の悪運の始まりを遡って考えてみると、きっかけは洋介の婚約解消だった。あれがあってから、私はろくなことがない。そう思うと、私は急に自分に起こった悪い出来事の原因の全てが、彼にあるような気がしてきた。しかも、今ごろはのうのうと新しい恋人と幸せに過ごしているのかと思うと、余計に憎しみが込み上げてきた。

 私は衝動的に携帯電話を取り出すと、どうしても削除できなかった彼の番号を呼び出し、発信ボタンを押した。すると、三回コールの後で、聞き慣れた低い声が電話口に出た。

「……もしもし?」

「もしもし、洋介? 私……」

「お、おお、久しぶり。……どうしたの?」

 洋介は約二ヶ月ぶりにかかってきた元婚約者からの電話に、警戒心を隠さない怪訝な口調で訊いた。その明らかに迷惑そうな口ぶりに、私はますます腹立たしさを覚えた。

「ねえ、洋介。今、私どこにいると思う?」

 洋介はしばらく間を置いて、「さあ?」と戸惑ったように答えた。

「大阪に来てるのよ。道頓堀の橋の上にいる。グリコの看板がすぐそこに見えるよ」

 「橋の上」と聞いて、洋介は言葉を詰まらせた。おそらくあらぬことを想像したのだろう。私は彼の頭に思い浮かんだであろう言葉を、そのまま口に出してやった。

「ねえ、私、このまま川に飛び込んで死んじゃおうかな。そしたら、いろんなこと悩まずに済んで楽になるし」

「ばかっ! よせっ、そんなこと」

 慌てふためく彼に、私は「嘘だよーん」と馬鹿にするように言った。洋介はふうっと安堵の溜息をつくと、「悪い冗談はよせよ」と、吐き捨てるように呟いた。

「ねえ、今どこにいるの、外?」

「……いや、家だけど」

「へえぇ。ねえ、もしかして、例の彼女と一緒?」

「……関係ないだろ、そんなこと」

「いいじゃない、別に今から押しかけようっていうんじゃないんだから。で、どうなの? 本当のところ」

 洋介は私の執拗な追求にうんざりしたように嘆息すると、渋々「ああ」と白状した。その途端、私は自分が言わせたくせに、何だかひどく不愉快な気分になった。この電話の向こうに、私達の仲を引き裂いた張本人がいるのかと思うと、私は涼しい顔で人の男を盗っていったその女の横っ面を引っぱたいてやりたくなった。

「ねえ、洋介。ちょっと代わってよ。私、喋ってみたいなあ、その人と」

 すると電話の向こうから、重い沈黙が流れてきた。しばらくして、「いいかげんにしろよ」という、冷たく突き放すような洋介の一言が、その沈黙に電流のように注がれた。それはさっきまでの逃げ腰の姿勢とは一転して、どこか凄みのある言い方だった。

「こう言っちゃ何だけど、俺はお前の両親にも謝りに行ったし、キャンセルにかかった諸々の費用も、ちゃんと支払っただろ? 一体いつまで俺を責めれば気が済むんだよ」

 私が答えられず黙っていると、洋介は「じゃあ。もうこういうのはやめてくれよな」と言って、一方的に電話を切ってしまった。私は無情にも待ち受けに切り替わった画面を呆然と眺めながら、携帯を川に投げ捨ててやりたいような、激しい衝動が自分の中に湧き上がってくるのを感じた。

 悔しい……!

 でも、その悔しさをぶつける先がどこにもないのだ。それがまた、悔しかった。自分は人を犠牲にして幸せになったくせに、寂しい私に優しい言葉の一つくらいかけてくれたっていいじゃないか。と、私は元婚約者の自分を、まるで忌者のように扱った洋介の態度をひどく妬ましく思った。

 いっそのこと本当に川に飛び込んでやろうか、とも思ったが、さすがにこんなことで人生を不意にするのは、ばかばかしいと思ってやめた。ふと辺りを見回すと、周りは人をあざ笑うかのように、けばけばしいネオンがこれでもかというくらいに街を彩っていた。目の前に瞬く張りついた笑顔のグリコの看板、川沿いに群生する居酒屋の雑居ビル、遥かに続く光の帯が川面でゆらゆらと揺れている。欄干にもたれる私の前を、たくさんの人が通り過ぎていった。計らずも、今日は土曜の夜だった。道頓堀は次の朝まで飲み明かそうという酔っ払いで、ひときわ賑わいを見せている。私は突然、ひどい孤独感を感じて涙ぐんだ。そして、ついにこらえきれなくなってその場にしゃがみ込むと、私は人が通るのも気にせず、携帯電話を握りしめたまま、嗚咽を上げてむせび泣いた。


 結局、ホテルに戻ったのは十二時過ぎになった。ドアを開けるやいなや、セイラは「何してたのよ、もう! 心配してたんだからねっ!」と、母親のように私を叱責した。だが、私の泣き腫らした瞼に気づくと声を和らげて、「どうしたの?」と心配そうに尋ねてきた。

 その途端、私の眼からは再び涙が溢れ出してきて、私は彼女の胸に飛び込むように泣きついた。セイラは一瞬、訳が分からずきょとんとしていたが、すぐにその優しい腕で私を包み込むと、「まあ、落ち着いて」と言って、私をベッドの上に座らせてくれた。 

「言いたくなかったら言わなくていいけど、よかったら事情を説明してくれないかしら?」

 私はぐすぐすと鼻をすすりながら、セイラに今日起こった出来事の全てを打ち明けた。陶芸教室の帰りに男に声をかけられ、あやうく危ない目に遭いそうになったこと、元婚約者に電話をかけたら、厄介者のように冷たくあしらわれたこと。ずっと険しい顔で話を聞いていたセイラは、話が終わると、「とにかく、無事でよかったわ」と言って、ぎゅっと私を抱き締めてくれた。

 私は彼女の胸で再び嗚咽を上げて泣いた。そして、泣きながら、私はこの優しさを、自分が一生独占できないことを残念に思った。どんなに優しくされても、彼女はその胸を私のために一生空け続けていてくれることはないのだ。彼女の胸はいつか素敵な男の人の腕に抱かれるためにある。

「あんまり焦らないことよ。アタシだって、自分が心が女だって気付くのに、十数年かかったんだから」

 セイラはそう言うと、私に近くのリフレクソロジーショップで買ったというハーブティーを入れてくれた。湯気からふんわりと立ち上るローズマリーの香りは、疲れきった私の心と体を癒すように、鼻腔に優しく染み込んでいった。

「少しずつ、ゆっくり進めばいいじゃない。『速やかならんを欲するなかれ』って、昔の偉い人も言ってることだし」

 私は以前、竜の愚痴をこぼした時に彼女に言われたことを思い出し、人を慰める時、何かにつけ格言を持ち出すセイラに、思わず吹き出してしまった。

「セイラ、それ誰の言葉?」

「……孔子」

 セイラは私を励まそうと、いつもお店で踊っているというダンスを、私のために披露してくれた。映画「プリシラ」のように、アバの「Mamma Mia」を口ずさみながら、頭や腰を大げさに振るコミカルな彼女のダンスに、私はお腹を抱えて笑った。そして曲も終盤に近づいた頃、彼女は踊りながらおもむろにこちらに近づいてくると、私の鞄の中からするりと携帯電話を引き抜き、耳元で囁いた。

「その元婚約者の名前は何ていうの?」

 私は彼女のしようとしていることを察して、戸惑った目で彼女を見返した。しかし、セイラはそんな私の迷いを見透かすように、ぴしゃりと言った。

「駄目よ、いつまでも未練がましくしてたら」

 セイラの諭すような強い眼差しに決意を固めた私は、「里見 洋介」という彼のフルネームを彼女に告げた。すると彼女は携帯を手に再び歌を口ずさみながら踊り始め、何かの祈祷のように携帯を頭上に高く掲げると、私の方を振り返って言った。

「消すわよ、いいわね?」

 私は彼女の目を見返し、こくりと強く頷いた。彼女はそれを見て微かに口元に笑みを浮かべると、また歌の続きを口ずさみ始めた。歌はすでにフィナーレに近づいており、彼女はサビのリフレインのところを歌いながら、何かの呪いを込めるように目をつむり、頭上の携帯をわなわなと震わせた。そして、最後のフレーズの代わりに、「食らえ! 里見 洋介!」とドスのきいた声で叫ぶと、日本刀でぶった斬るかのように、携帯を思いっきり上から振り下ろしたのだった。

 返してもらった携帯を見ると、画面には四角い枠に囲まれて、「『里見 洋介』のデータを消去しました」という表示が現れていた。でも、その画面を見ても、意外とショックを受けていないことに、私は自分でも驚いた。ふと顔を上げると、フルコーラスを全力で歌いながら踊り切ったセイラの顔には、雨に濡れたように汗が流れ落ちていた。


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