一
災難というのは、自分が無防備でいる時に限って、思いがけないところから、全く唐突にやって来る。どこにもつけ入る隙のない、順風満帆で平穏な日常に、突如として冷や水を浴びせるように。
地震しかり、火災しかり、台風しかり、交通事故しかり。そりゃ後から振り返れば、家具を固定しておけばよかったとか、消火器を用意しておけばよかったとか、窓に板を打ちつけておけばよかったとか、周りをよく見て歩いておけばよかったとか、被害を回避すべき手だてはいろいろ思いつくのだろうけれど、いったい誰が忙しい日常の中で、いきなり震度7の揺れが襲ってくることや、外に置いておいた新聞の束に放火魔が火を点けることや、強風で飛ばされた材木が窓ガラスを突き破ることや、飲酒運転の車が歩道に突っ込んでくる危険性まで想定しながら、生活を送っているというのだろう。ああしておけばよかった、こうしておけばよかったはしょせん結果論であり、私達は災難という一種の奇襲攻撃を前にしては、ただただ無力でいることしかできない。いくら文明が進んで、人間が善後策を講じても講じても、いたちごっこのように盲点をついて襲ってくる、それが災難というものなのだ。
この春、私は突然、恋人から婚約を解消された。
結婚式まであと一月という、差し迫った時期での青天の霹靂だった。特別、二人の間に不穏の前兆らしきものがあったわけではない。浮気が発覚したわけでもなければ、どちらかの親が強硬に結婚に反対したわけでもなかった。私達は普通のカップルと同じように、一緒に式場の下見をし、ドレスを選び、引き出物を選び、招待状を書いて、仲睦まじく結婚式の準備を進めていたのだ。なのに、破局は突然に訪れた。ふいに飛んできた火の粉が、一点の曇りもない幸福の設計図を跡形もなく焼き尽くすように。
「ごめん。すごく申し訳ないんだけど、結婚の話は白紙に戻してくれないか」
いきなり、式の打ち合わせの日どりを決めるつもりでかけた電話で、婚約者の洋介から別れを切り出された私は、しばらく呆然として言葉が出なかった。人間、あまりにショックなことがあると、悲しみを通り越して無感覚になるというけれど、本当にその時の私は脳の回線がショートしてしまったみたいに、彼の言葉だけが頭の中でぐるぐる回って、何も考えることができなかった。これは何かの冗談なんじゃないか、そうやって一生懸命、思考を前向きに転換しようと試みたけれど、それが冗談でないことを裏打ちするかのように、電話の向こうでは重い沈黙が影を落としていた。
「どうしてよ。私、何か悪いことした?」
ようやく言葉が出てきたのは、彼の婚約破棄宣言を聞いてから、一分以上も経過してからのことだった。
「いや、ひかるは全然悪くないよ。全部、俺のわがままなんだ」
洋介はしどろもどろのひどく要領を得ない口ぶりで、突然の婚約破棄の理由を説明した。先日、行きつけのバーに足を運んだら、偶然、昔の彼女と運命的な再会を果たしたこと。その彼女は別れても忘れられない特別な存在で、風の便りで結婚したと聞いていたが、その日、夫と離婚したことを告白されて心が揺らいだこと。そして何となく離れがたくなった二人は、そのままホテルで一夜を過ごし、次の朝、彼女から「もう一度やり直さない?」と切り出されたこと……。しかし、それらの言い訳は、私にとっては到底納得のいかないものだった。
「何よ、それ!」
私は怒りで携帯電話を持つ手を震わせながら、唇を噛み締めた。せめて少しでもこちらに非があるのなら、まだ納得もできようものだけれど、自分の知らない時間、知らない場所で、自分の知らない人と起こった出来事に、人生が狂わされてしまうほど不愉快なことはない。これだから災難は嫌なのだ。いくらこっちが用意周到に事を進めていても、ほんの一瞬で全てが覆って、今までの努力がみんな水の泡になってしまう。
「ほんとに、ごめん。俺もいろいろ悩んだんだ。式まであと一ヶ月だし、こんな時にキャンセルしたらお前にも周りの人にも、みんなに迷惑がかかるのは分かってる。でも、こんな中途半端な気持ちのままで結婚した方が、結果的にはもっとお互いのためによくないような気がするんだ。だから、どうか分かってくれないか……?」
「分かるも何も……、たとえここで私が『嫌だ』と言ったところで、結果は変わらないんでしょ? 洋介が私に『結婚を白紙にしたい』って話した時点で、もうどうしたって元には戻れないのよ。それが分かってて、最後の決断を私に委ねるなんて残酷じゃない?」
「そうだな……、ごめん……」
「ごめんじゃないわよっ、ばかっ!」
気がつくと、私は自分でも驚くほど大きな声で洋介を怒鳴りつけていた。その声に気圧されるように、電話の向こうの彼はしょんぼりと黙り込んだ。洋介はずるい。そうやって自分はどんな叱責でも甘んじて受けますみたいな態度を示して。何だかこれじゃ私の方が聞き分けのない女みたいじゃないか。
すると、さらに洋介が私の気持ちを逆なでするように、こんなことを口走った。
「ほんと、今回のことは全面的にこっちが悪いし、できるだけ責任は取るよ。キャンセル料とか発生したら、全部俺が払うからさ……」
私は「いらない」と返事をする代わりに、反射的に携帯電話を床に叩きつけていた。責任取るって何よ……と、思わず答えの返ってこない電話機に向かって、いまいましげに呟く。洋介は自分がぶち壊したものの大きさを、そもそも理解していないのだ。もし分かっていたら、そんなに簡単に「責任」なんて言葉を口にできるはずがない。
私にとって「結婚」とは、人生そのものに等しいくらい重要な決断だった。女性が多様な生き方を選べる現代にあっても、競争社会で男性と肩を並べてあくせく働くことを敬遠し、最初から「家庭」に自分の居場所を求める女性は実は少なくはない。私もそんな一人にほかならなかった。まずは好きな人と温かい家庭を作ることが最優先で、時間に余裕ができれば、家計を助けるためにパートにでも出ればいいか。仕事はあくまで、そういう家庭の添え物的位置づけにすぎなかった。だからこそ、私は資格取得やキャリアアップを目指す友人達を尻目に、将来の夫探しに奔走し、洋介との結婚が決まった後は会社まで辞めて準備に専念してきたのだ。その責任を、たかだか数十万円程度のキャンセル料で済ませられると思っているのなら、私の人生もずいぶん軽く見られたものだ。
だけど、一度壊れてしまった以上、今さら二人の関係を元に戻すことなどできるはずもない。私はそれから一週間、結婚式をキャンセルするための、諸々の手続きや手回しに忙殺された。仕事でなかなか休みが取れない洋介の代わりに、式場に行って話をつけ、彼の家に怒鳴り込んで行きそうな両親を懸命になだめて思い止まらせ、招待状を送ってしまった会社の上司や友人達には、あらためて結婚式取り消しの葉書を送り直した。不思議と、結婚に向かって準備をしている時は、忙しくても疲れなど微塵も感じなかったのに、それが振り出しに戻るための作業だと思った途端、徒労感がどっと押し寄せてきた。何よりも、自分が捨てられるにもかかわらず、かいがいしく洋介の尻拭いまでやっている自分に、情けなくて腹が立った。
そうして傷ついた心に鞭打つようにして、何とか諸々の面倒くさい手続きを終え、状況も一段落してくると、あとには御役御免になった婚約指輪と、空っぽの私だけが残った。
二十九年間、誰かいい人と結婚して幸せな家庭を作るという将来設計しか描いてこなかった私には、当然、腕一本で生計を立てられるようなスキルも、企業が欲しがるような免許や資格もない。私はその時初めて、裸一貫の自分が何の潰しもきかない人間であることを痛感させられた。それまでは、残業残業で仕事に追われる総合職の友人達や、独身を貫いて留学だ転職だと貪欲に邁進する先輩達を横目で見ては、何をあくせくと優越感さえ抱いていたのに、今、私の胸に去来するのは、なぜこれまでさんざん持て余していた暇な時間を、少しでも自分の役に立つ勉強や習い事にあてなかったのかという後悔ばかりだった。
私には何もない。人に誇るべきキャリアも、身を立てられるだけのスキルも。これからどうしたらいいんだろう……。
こんな風に自分が信じてきたもの、疑いもしなかった価値観が、足元から崩れ落ちていくような思いがしたのは、生まれて初めての経験だった。しかし今さら、新しい人生を切り開くといっても、すぐにやりたいことや夢が見つかるはずもない。途方に暮れ、時計の秒針をなぞるだけのような無気力な日々を送る私に、高校の同級生から十一年ぶりに同窓会の誘いがあったのは、婚約解消から一月ほど経った、四月のある日のことだった。