「泥水」
通路の壁は、ほとんど赤い塗料がはげて白いしっくいがむきだしになっていた。堅い石の地面は白っぽい石粉でざりざりする。通路の幅は5メートルほどで、人が通るには充分の広さだった。私はなんとなく運動靴で地面をこすりながら歩いていた。通路の先は薄暗かったが、茶色い水が流れる水路が横切っているのが見えた。天井は無く、空は灰色っぽく曇っていた。
さっきまで草原で友だち5人と遊んでいた気がするのだが、気づけば私はこの場所にいた。少し不可解に感じたが、取り立てて気にするほどでもないなと思った。記憶の波を渡り歩いているとき、そんなことは普通に起きるのだ。
特に何を考えるでもなく歩を進めていると、不意に視界の左がひらけた。
それまで両側を壁に囲まれていたから、とても明るく感じる。そちらを見やれば、大きな川と、それに沿って広がる大きな森があった。濃い緑色の葉をしげらせた木々の幹は白い。まるでシラカバの木のようだ。
シラカバの森は、川の向こう側にずっと続いているみたいだった。行きたいとは思わなかったが、きれいだと思った。
曇った空と、森、幅広の川(大雨が降ったのあとのように茶色かった)、そして私のすぐ目の前には、大きめの岩。岩の上には麻のワンピースを着た女性が座っていた。
ティーンエイジャーに見えるその女性は、日本人ではなかった。なめらかな浅黒い肌に、ツヤのある長い黒い髪はパーマをあてたようにクルクルしている。ほりの深い顔立ちで、瞳は黒く、まぶたはくっきりと二重だった。
彼女は岩の上からじっと川の方を見ていた。高価なアパレルブランドのイメージモデルのように、無表情だった。
私はといえば、美人だなあと思いながら彼女の横顔をぽかんと眺めていた。さぞマヌケ面だったことだろう。
女性込みで美しい景色を堪能し、私は、また通路の散歩に戻ることにした。あまり見知らぬ女性をじろじろ観察するのも失礼だろうと思った。通路の奥の方に見える水路の水は、あの川の水と同じだろうか。浅そうな水路なので、あまり怖さは感じなかった。
ぼーっと歩き出す私に、女性は水をさしだした。500mlのペットボトルに入った水だ。
突然のプレゼントだったが、なぜか驚きはなかった。お礼も言わなかった気がする。当然のように私はそのペットボトルを受け取り、内容物を見た。中身は、うっすら茶色くにごった水だった。私は水をくれた美しい女性の方を見もしなかった。後から考えてみれば、私は結構失礼な奴だなと思う。
ボトルの中の水には、いくつかの小さな砂粒がくるくる舞っている。あの川の水だろう、とピンときた。普段は浄水場を通った透明の水を飲んでいるので、この水は汚いなと思った。でも、飲んで腹を壊すレベルの汚さではないとも思った。人間の体は意外と丈夫なのだ。
私はペットボトルに口をつけて水を飲んだ。普通の無味だった。
ちょうどよく冷たい水が喉を通り、気分が少しすっきりした。通路を再び歩き出したとき、あの若い女性の物憂げな横顔が脳裏に浮かんだ。
彼女はあそこで何をしていたのだろう。あの深い森は、私もずっと前に見た気がする。
(完)