思いがけない新生活
マンションに到着した陽。喧嘩を買ったおかげで帰りが遅くなってしまった。ヤタになんと説明するのがいいのか。ヤタのことだ、どうせ菜摘となにかしていたのだろうと推測しているに違いない。面倒事は家に帰ってからも続きそうだと嘆息した。
鍵を差し込み、回して違和感に気づく。鍵が開いている。ヤタは窓から外出するため、扉の鍵を開けることはないはずだ。となれば――空き巣の可能性がある。今朝の一件で身体能力の高さに気づいた陽なら、空き巣を相手取ることも可能なはずだ。だが、その前に警察に電話を入れるべきだろうか。悩む陽だが、静かにドアノブを回した。見慣れない靴が置いてあった。誰のものかは検討がつかなかったが、空き巣がわざわざ靴を脱ぐのだろうか。困惑する陽の耳に、陽気な笑い声が飛び込んでくる。ひとつはヤタのもの。ではもうひとつは?
確認のためにリビングへ向かう。すると、意外な客人の姿があった。タンクトップにホットパンツというラフな格好をした女性だ。
「カッカッカァ! お前さんも大変だったな、ええ!?」
「そんなことないって! あんたこそ陽の世話大変だったでしょ!?」
「そりゃ大変だったさ! オレがどんだけ笑わそうとしても眉ひとつ動かさねーの! 寂しいわ!」
「あっはっは! そっかそっか! 陽って表情動かなくなったんだ!? 昔はいっつもおどおどしてたのにね!」
二人は陽の帰宅に気づいていないようだった。それもそのはず。ヤタはなにかが注がれたおちょこを頻りについばみ、客人はいかにも値の張りそうな酒瓶でテーブルを叩いている。割れたら誰が片付けると思っているのか。怒りよりも呆れが勝るこの光景に、陽は絶句するほかなかった。
やがてヤタの視線が陽に向く。喜んだように翼をはためかせた。続いて客人――美景二葉もヤタの視線を追いかける。
「おう! おかえりヒナタ!」
「ただいま。それより、どうして二葉さんがうちに……?」
「あんたを訪ねてきたら、今日入学式だったんだね! 高校進学おめでとう! まあまあ一杯どうさ!?」
「未成年なので遠慮しておきます。そしてもう一度お尋ねします。どうして二葉さんがうちに?」
「あー、そうね! それ言ってなかった! 陽にね、魔童の情報を伝えに来たの」
意図がわからなかった。それを伝えてどうするつもりなのだろう。怪訝そうに見つめる陽に、二葉は懐から煙草の箱を取り出した。陽は無言で窓を開ける。青少年の部屋に煙草の匂いがついてしまったらよからぬ疑いがかけられる可能性があった。誰を呼ぶ予定もないのだが。二葉は窓の方へと歩き出す。足元が覚束ない、ふらふらとした足取りだった。初めて千鳥足と呼ばれるものを見て、陽はどこか感慨深い気持ちになった。
口から甘い煙を吐き、二葉は語りだす。顔は真っ赤だが、表情は真剣そのものだった。陽は姿勢を正す。
「あたしと一緒に魔童を倒しに行きましょ。ちなみに、あんたに拒否権はない」
「……監視のつもりですか?」
「それもあるけど、あんたが“八咫烏”を使いこなせるかの確認が目的よ。あたしは陽がピンチに陥るまで手を貸さないからね」
陽は焦りを覚えた。“八咫烏”の力を使った戦闘は一度しか行っていない。使いこなすもなにもなかった。もし使いこなせていなければ、陽はどうなってしまうのだろう。“八咫烏”を所有するに値しないとなれば、ヤタは美景に保護されるのだろうか。陽は美景に連行され、罰せられてしまうのだろうか。少しだけ、怖いと感じる。
陽の不安を察してか、二葉は笑った。
「大丈夫、悪いようにはしないよ。ヤタから聞いたけど、こないだの戦闘が初めてだったんでしょ? だから、あんたのレクチャーも兼ねてね」
「……二葉さんは、どうして僕にそこまでしてくれるんですか?」
「前に言ったでしょ、あんたが一哉兄さんを殺したって決定的な証拠がないから。本当にあんたが殺したのなら、あたしはあんたを殺す。それだけよ」
口から安堵のため息が漏れた。一哉を殺したのは陽ではない。それは陽自身がよくわかっていた。証拠など出るはずがない。だから、二葉は全面的に味方になってくれると判断した。
ここで黙っていたヤタが笑い声をあげる。
「カッカッカァ! まあまあ、堅い話はこの辺にしよーや! ほれほれ、ヒナタも飲め!」
「未成年だってば。あーもう、こんなに汚して……誰が掃除すると思ってるの、もう」
テーブルはヤタが飛び散らかした酒で濡れており、足元は二葉が持ち込んだ缶ビールが転がっている。酔っ払い二人を相手にしながら片付けなければならないと考えると、深いため息が漏れた。
まずはごみ袋を手に取り、転がった缶ビールを放り投げていく。ヤタと二葉は相変わらず酒を酌み交わしていた。のんきなものだ、と呆れる陽。二人の話と言えば、やれ最近のテレビはどうだのあの俳優がこのアイドルがと、井戸端会議に興じる主婦となんら変わらない。陽気に語り、笑う二葉を見て少しだけ懐かしく思った。美景の世話になっていた頃に見た二葉を思い出す。あの頃より、よくも悪くもやんちゃになったと陽は思う。
「……それで、二葉さん。今回の魔童の情報について、詳しく教えてもらえますか?」
二葉はぐいっと酒を呷り、陽の方に向き直った。机に放った携帯を掴み、指を滑らせる。メールの確認をしているのだろう。ヤタが画面を覗いて、声を上げた。
「なになに? 口元にクワガタの顎のようなものがあり、姿形は霊長類に似ている。それで女性の髪を切るという被害が相次いでいる……こいつは“髪切”だろーな」
「ヤタは魔童について詳しいね」
「そりゃ同族だしな。長生きってのもあるし、成長した魔童の姿形さえわかりゃーどんな奴かは見当がつくって」
「カラスとは思えないほど物覚えが悪いとか思っててごめんね」
「正直に言ったから許す! カッカッカァ!」
陽気に動き回るヤタ、散らばる黒い羽根。どうしてこうも抜けるのだろう。ストレスでも溜まっているのだろうか。陽は漠然とそんなことを考える。片付けという現実から目を背けているだけなのだが。
二葉は再び煙草に火を点け、窓の外に煙を吐き出す。浮かない顔で片付けに勤しむ陽に、二葉は「でも」と呟いた。
「泣き虫だった陽がこうして一人暮らしして頑張ってるなんてね。あたしは安心したよ」
「……どうしたんです、二葉さん。酔いが回ってきましたか?」
「ああ、だいぶ前から酔ってる。だからこれは本音だよ。あんたが元気に生きててよかった」
「……一哉様を殺したかもしれないのに?」
どうしても負い目を感じる陽。自分がやったわけではない。だが、それを証明することはできない。そんな中でも、二葉は敵意を向けることもなく接する。十年前の、あの頃のように。嬉しくもあり、複雑でもあった。
二葉は煙草を口に咥え――陽に向かって思い切り煙を吐き出した。バニラの甘い匂いが一瞬で迫り、たまらずむせてしまう。
「なにして……!」
「だから、まだ決定的な証拠はないでしょうが。あんたはそれを提示できるの? 一哉兄さんを殺した証拠を」
「……いえ。でも、僕が殺していない証拠も提示できない」
「なら、証拠があがるまでは今まで通りに接する。それにあんたの性格上、そもそも一哉兄さんを殺すなんてできっこないって思ってる。やってないって言うなら、あんたは今まで通り接しな」
無茶な注文だった。自分がやっていないのは確か。だが、美景からは裏切り者と扱われている。そんな中、美景の当主から「今まで通りでいい」などと言われても、簡単にはできなかった。
「ま、好きにしな。証拠が見つからないなら、あたしはあんたの姉貴分だから。それだけは忘れないで」
「……ありがとう、ございます」
「敬語も要らん」
「あはは……ありがとう、二葉ちゃん」
たまらず漏れる笑み。陽にとって十数年越しの笑顔だった。二葉は大きくあくびをして体を伸ばす。
「それじゃ、あたしはひと眠りするわ。魔童の調査は今日の二十三時から。準備しといてね」
「おやすみなさい……ん?」
緩んだ口元がきつく結ばれる。表情もどこか強張っていた。その異変に二葉が気づいた様子はなく、陽の自室の扉を開ける。陽はその腕を掴んだ。二葉はなんのことかわからず、のんきに頭を掻いた。陽の表情は重苦しく、まるで死人が出たかのようなものだった。
「どした?」
「二葉ちゃん、どこで眠るつもり?」
「あんたのベッド」
「僕はどこで眠ればいいの?」
「一緒に寝る?」
「……馬鹿なこと言わないでさっさと寝て」
「ヤタ~、陽が冷たいよ」
「照れてるだけだって、カッカッカァ」
――なんだか、ずいぶん賑やかになったな。この家も。
不思議と、鬱陶しくはなかった。




