魔童(まどう)
――陽。
懐かしい声がした。柔らかく、温かさのある声だった。どこで聞いたんだったっけ。おぼろげな記憶を辿る。
――陽。
再び声が聞こえる。どこだ、どこで聞いた。暗闇の中、声だけが聞こえる。せめて顔さえ見えれば。
――どうして、俺を殺したの?
ぞわりと背筋が粟立った。暗闇の中に映像が映し出される。微笑む男、幼い顔立ちの陽。男は銃を差し出し、かつての陽はおずおずと受け取る。直後、男の首が飛んだ。緩やかな弧を描き、呆気なく床に転がった。倒れる体、床に染み込む赤色。開かれるふすま、叫ぶ側近。迫りくる無数の足音。
そうだ、この声は――。
「どうして俺を殺したの? 陽」
転がった生首がこちらを見ている。夜空と青空を混ぜたような長髪、美しい鼻筋、人々を惹きつける穏やかな瞳。生首は赤い涙を流して、陽を見つめる。責めるようなその眼差しに、陽は口を開けた。
「ちが――」
「違わないでしょう? 俺が拾ってあげたのに、俺を殺して“八咫烏”を奪うなんてね」
「僕じゃない」
「証拠はあるの?」
提示はできなかった。なにせ陽自身にも説明ができない。証人もいない、証拠もない。これでは疑われたままで当然なのだ。わかってはいる。けれど――
「僕じゃない」
確かめるように呟く。しかし、生首の涙は止まらない。
「否定しなかったのはどうして? 後ろめたいことがあったからだろう? きみが、俺を、殺したんだ」
「違う」
「違わない」
「やめて」
「きみが、俺を、殺――」
「――タ、ヒナタ!」
甲高い声がした。耳をつんざくやかましい声だ。七尾陽はびくりと肩を震わせ、ベッドの上で跳ね起きる。ベッドの傍には、黒い鳥がいた。闇を思わせる漆黒の体毛に、鋭いくちばし。体を支えるのに心許ない脚は三本ある。
日本の妖怪、“八咫烏”がそこにいた。“八咫烏”は陽の枕元でばさばさと翼をはためかせている。抜けた羽根が散らばって部屋中が大変なことになっていた。
「……ヤタ? どうしてこんなに騒ぎ立てたの?」
「そりゃ、ヒナタがうなされてたからさ。早く起こしてやらねえとって思ってよ」
「お気遣いありがとう。でも、この部屋を誰が掃除するのかまでは考えられなかった?」
「いくら“八咫烏”っつっても、オレはカラスだぞ? そこまでは考えられない」
「カラスは小学校低学年くらいの知能はあるって見たことあるけど」
「じゃあアレだ、どうしようもない個体差があるってこったな。カッカッカァ」
やれやれ、と肩を竦める。まったくどうして、こんなのが憑魔士一族トップの己影なのだろう。
七尾陽はかつて、美景陽だった。幼い頃に両親から捨てられ、一人さまよっていたところを、当時の美景家当主の一哉に拾われた。美景家は憑魔士という一族であり、己影という魔物の力を借りて魔物と戦う役割を担っていた。他にも憑魔士はいるのだが、美景家はその一族の長であった。憑魔士は各々で契約する己影が異なり、美景家の当主が代々契約する己影がこの“八咫烏”なのだ。
最初はもっと威厳のある佇まいかと思っていた。ところがどうだ、この己影――陽はヤタと呼んでいる――は、陽気で軽薄で、サイズだって普通のカラスと変わらない。威厳の欠片なんてこれっぽっちもなかった。美景家を追われる前に抱いていたイメージはことごとく打ち砕かれた。
――あれから、もう十年も経つのか。
ふと、思い返す。美景一哉が死んだ夜から、もう十年の月日が流れた。あと数日後には市内の高校に進学することになる。普通の人間の日常を、十年間も過ごした。うっかり忘れそうになる。机の上に置かれた、一丁の銃のことを。
「……そろそろ行かないと」
「ヒナタ? どこ行くんだ」
「バイトだよ。大貫さんの援助だけじゃ物足りないから」
「カァーッ、真面目だね。もっと寄越せジジイ! くれえ言ってもいいと思うんだがな?」
「命の恩人にそんなこと言えないよ」
あの日、森から逃げ出すことに成功したのは、大貫という人のおかげだった。本人から直接連絡があったわけではなかったが、陽を待っていた運転手が「大貫様の使い」と名乗っていたことで初めて知った。大貫という人物の素性については詳しく知らないが、どういうわけか生活の援助もしてくれている。陽が住んでいるマンションの一室も、大貫が支払っていると聞いた。
――なにが目的なんだろう。どうして僕を生かし、こうも支えてくれるのだろう。
疑問は尽きないが、質問する機会もない。あの日以来、大貫は陽の前に姿を現していないからだ。
「ま、頑張って来いよな。オレはその辺でふらついてくっからよ」
「人に見つからないように。三本足のカラスなんて伝承に過ぎないんだから」
「それオレの前で言うカァ? 実在してんのに?」
「うるさいなあ。もう行くからね」
「おうよ、行ってらァ」
ばさばさと翼を振って見送るカラス。舞い散る羽毛。帰ったらどうしてくれようか。
ため息を一つ。陽はエレベーターに乗り込んだ。閉めるボタンを押したところで、慌ただしい影が駆け込んでくるのが見えた。
「あーっ! 待って待って待ってください!」
時間は午前七時二十分。廊下に元気な声が響き渡る。開くボタンを押して迎え入れる準備をすると、表情がぱあっと晴れた。駆け込んできたのは、マンションのごみ捨て場でたまに顔を合わせる少女だった。
栗色のショートボブに、快活そうな大きな眼。小柄ながらも引き締まった体をしており、春先の少し冷えた空気の中、温かな色味のワンピースを着ていた。
「セーフ! ありがとうございます、助かりました!」
「いえ。それより、朝早いのにあんな大きな声を出して大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫、みんな目覚ましだと思ってくれますって」
ずいぶんと前向きというか、傍迷惑な考え方をするものだ。普通の人間は皆こうなのか。十年、人の世で生きてきたものの、陽の中ではいまだに普通の人間の像が定まっていなかった。
少女は陽をじいっと見つめる。なにか顔についているのかと携帯を鏡代わりに覗いてみるが、別段おかしなところはない。なにを訴えているのか、陽も見つめ返してみると、少女はくすっと吹き出した。
「ごめんなさい、なにもついてないです。ただ、若いなーって思ってて。同年代くらいかな? って思っただけで」
単純に興味があっただけらしい。陽は指を折って年齢を数える。正確な生年月日は覚えていなかったので、実際に今年で高校生なのかも怪しかった。
「たぶん、今年で十六になります」
「たぶんって? 自分の生年月日把握してないんですか?」
「人間、生きてればそういうこともありますよ」
「あはっ、なにそれ! 寝惚けてますか?」
「いえ、手のかかる奴に起こされてとても冴えています」
「あはは、なにそれ面白いですね!」
なにか面白いことを言ったのだろうか。自覚のない陽は首を傾げる。
エレベーターの扉が開き、少女が一礼して去っていく。続いて陽も出るが、少女が振り返って手を振った。
「あたし、真中菜摘って言います! どこかで会ったらよろしくねー!」
「七尾陽です。ええ、それでは」
ぎこちなく手を振り返して、自身も駆け出す。バイト先までは走って十分程度、間に合う時間だ。陽は朝の陽射しを堪能しながらのんびりと歩いた。犬の散歩の途中だろう、井戸端会議に興じる婦人の姿が見える。婦人は陽に気づくと、ひらりと手を振った。若くして一人暮らしをしている陽は、近所ではちょっとした有名人だった。軽く会釈を返す。「頑張ってね」とエールを貰い、微笑で答えた。
そうして辿り着いたのはコンビニだった。中学生の頃から世話になっており、オーナーや店長、パートの主婦は随分気にかけてくれている。人に恵まれたのは、孤独な陽にとって幸いだった。夜勤の青年は陽の顔を見てくたびれた笑顔を向けた。
「おはようございます」
「おはよう、陽。今日は大変だったよ、納品の最中にクレーマーに捕まっちゃってさ」
「胸中お察しします。帰ったらゆっくり休んでくださいね」
「ありがとう、酒でも買って帰るよ」
「程々に」
微笑む陽に、青年は苦笑で返す。事務所に入ると、オーナーが制服を着てパソコンに向かっていた。陽の挨拶に、おうと軽い返事をする。
「おはよう、今日も一日よろしくな」
「はい、よろしくお願いします」
「朝は食ってきたか? 食ってないなら廃棄つまんでから出勤しなよ」
「では、お言葉に甘えて」
陽が勤める店舗では廃棄になった食品を持ち帰ることができる。事務室には籠に積まれたパンや麺類がぎっしりと詰め込まれていた。その中から低脂肪のパンを選び、かじりつく。実際、廃棄になったからといって一晩程度では味に変化はない。もっちりとした生地が腹を満たす。そうこうしていると、相方の主婦も姿を現した。そそくさと制服に袖を通し、勤怠登録を行う。オーナーとそりが合わないのか、二人が会話しているところを見たことがない。
陽も同様に勤怠登録を行い、売り場に出る。夜勤の青年たちが、待ちくたびれたとため息を吐いた。仕事内容の伝達を手短に済ませ、二人は事務所に引っ込む。相方の主婦が、陽の肩を叩いた。
「七尾くん、知ってる? 最近、この辺に出るらしいわよ」
「出る? おばけですか?」
「おばけっていうか、化け物なんだって。猿に似てるけど、もっと腕が太くてごっついらしいの。おまけに真っ黒なんだとか。主婦仲間も見たって言ってたわ。襲ってくる気配はないみたいなんだけど、おっかないわよね。七尾くんも気をつけてね。可愛いんだから」
「……あはは、ご忠告ありがとうございます」
ひょっとすると、近くまで来ているのかもしれない。かつて家族だと思っていた人たちの誰かが。主婦の話を聞いてピンときた。おそらく美景家が――憑魔士が戦ってきたものだろう。
憑魔士が戦うもの。それは闇に生まれ、闇に消える。憑魔士は魔童と呼んでいた。魔童の被害に遭うのは、主に動物だ。犬、猫、鳥、虫。彼らは抵抗の余地もなく闇に飲まれる。その段階での退治は容易だが、成長した魔童は自我を持ち、人に仇為す存在となる。被害の拡大を防ぐために早急な対処をするのが憑魔士の務めだった。
――任せよう。僕は正統な憑魔士じゃないんだから。
入店時の音でハッと我に返る。すう、と空気を吸い込む陽。
「いらっしゃいませ、おはようございます」
その声は、震えていた。




