終章 君じゃない誰かなんて
再婚して歌音の担当に戻った深山は、手土産に大きなプロジェクトを持ってきた。
「来年、公開予定の映画があるんだ。それで監督が、メインヒロインんをカノンにやってほしい、って」
「そんな」
歌音は戸惑った。
「私、主演張れるほどの演技力はないですよ。その監督ってどなたですか?」
「カノンも知ってる人だよ」
「そんなに有名な……?」
「いや、そこまで有名ではないけど実力派で注目浴びてる人。実は今日、来てもらってるんだよ」
「えっ」
「とりあえず、話だけでも聞いてやってくれないか?」
「……引き受けるかどうかは別の話、ってことでいいなら……」
限りなく逃げ腰な歌音に笑いながら、深山は「呼んでくる」とドアに消えた。
携帯用のミスト発生器で喉を潤しながら待っていると、ほどなくドアが開いた。
「カノンちゃん、お久しぶりです」
「綾乃さん!?」
いつ帰国したのか、監督とはどういうことなのか、どうして私をメインヒロインになんて。
いろいろな疑問が渦巻いて、歌音は言葉を失った。綾乃はにこにこと嬉しそうに笑いながら名刺を差し出してきた。
「5年ほど、アメリカで映画の勉強をしていたんです。半年ほど前、結婚式のために帰国しました」
結婚。
歌音は手元の名刺に視線を戻した。
「咲田綾乃改め、渡辺綾乃になりました」
頃合いを見計らって、深山が映画の話を切り出した。
「――ってことだ。カノンにはそのスクールに通ってもらうが、レッスン料は事務所から出させてもらう」
「わかりました」
「それで、撮影の内容だけど、渡辺さん」
「はい」
綾乃は鞄から分厚い脚本を取り出した。
「タイトルは、仮題ですが“ナイアガラ”といいます。脚本家は亡くなってしまったのですが、私が演出と改稿を担当しています」
一瞬、綾乃は言葉を切って、様子を窺うように歌音を見た。
「……書いたのは、主人の弟であなたのクラスメイトの、渡辺悟です」
思ったよりも衝撃は受けなかった。代わりに、自分はこの役を引き受けるだろうとだけ思った。
「病気で亡くなった恋人が、ナイアガラの花火越しに会いに来るお話です。できる限りCGは使わずに製作する予定で――」
「脚本、見せていただいてもいいですか?」
立て板に水と話していた綾乃は、優しく微笑んだ。デスクに置かれたその紙の束を、指先でそっとこちらに滑らせてきた。
手に取ったそれは分厚い。長さは九十分くらいかな、と見当をつけながら、ぱらぱらとページをめくる。どうやら、病死してしまった女性の霊と、彼女のことを想い続ける男性の二人がメインになるようだ。
「これ、男性の方の役は、もうどなたか決まっているんですか?」
綾乃はさらりと「主人です」と言った。
「もともと、主人がこれを演じたいと言っていたんです。公私乱用と思われるかもしれませんが、長いこと舞台をやっている人間なので、腕は確かです」
「ご主人のお名前は……?」
「渡辺諒です」
もっとも、と彼女は続けた。
「言うまでもありませんが、役名は本名には関係ありませんけどね」
いくつか質問を続けて、やがて歌音が黙ると、綾乃は荷物をまとめ始めた。
「引き受けてくださるかどうかは、後日深山さんを通してお伝えください。脚本は、今日は持って帰っていただいて結構なので」
歌音は無言で頭を下げた。
「あ、それと」
出ていきかけた綾乃は、ドアのところで振り返った。
「この案件は、私情は抜きで、歌音ちゃんの実力を見込んで持ってきたものです。だから、それを考えた上で、引き受けるかどうか決めてほしいです」
それじゃ、と言い残し、綾乃は深山に先導されて出て行った。
諒と初めて顔を合わせたのは、稽古の初日だった。
練習室に入ると既に何人かが中にいて、歌音の目は一瞬で諒を見分けた。
「おはようございます」
おはようございます、と返ってきた中で、一番低い声が諒だった。
とりあえず荷物を置いてから振り返ると、諒と目が合った。一瞬高鳴った胸を抑え込み、微笑んで会釈する。諒も会釈すると、台本を持ったままこちらにやって来た。
「カノンさん、ですよね」
「はい。諒さんですよね、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
挨拶に来ただけかと思ったら、諒は立ち去らずに歌音の傍であぐらをかいた。
「始まるまで少し話しませんか? 仮にも、恋人同士の役ですし」
ね? と首を傾げる姿が悟と重なって、歌音は笑うフリで俯いた。
「そうですね、ぜひ」
いつものように、稽古場の近くの店で昼食をとっていると、カウベルの音がして諒が入ってきた。綾乃さんがいないのを確認してから、奥の方へと向かいかけていた背中に声をかける。
「諒さん」
「あ、歌音ちゃん。隣いい?」
「どうぞ!」
来てくれたりするかな、と期待して取っておいた席からバッグを下ろす。諒は席に座ると、コートを脱ぎながら歌音に微笑みかけた。
「もしかして、俺のために席とっといてくれた?」
「は――」
「そんなわけないか」
そうなのに。
歌音は内心で膨れたが、いつものようにいたずらっぽく笑った。
「あーあ、せっかくの荷物置きが」
「ごめんよ」
諒は笑って、「パフェ食べる?」とメニューを指さした。
「荷物置きの代わりだよ」
通りがかった手にに声をかけるのをぼんやり聞きながら、歌音はこっそり笑顔を浮かべた。まるで、デートみたいじゃない。
その笑顔のまま隣に目をやって、歌音は小さなッ失望感でマグカップに視線を落とした。
悟じゃないのに、悟だと思って浮かれて。……馬鹿みたい。
「歌音ちゃん?」
「あ、ごめんなさい。何ですか?」
「いや、……体調悪そうだけど、大丈夫?」
もしかしたら、これを魔がさしたと言うのかもしれない。歌音は思わず、諒の手元を見つめて問いかけた。
「諒さん、……叶わない恋って、したことありますか?」
「叶わない恋?」
少し戸惑ったようだが、歌音の顔を見てから諒は考え込んだ。
「うーん……絶対に届かない、叶わないはずなのに、叶ってしまった恋なら、あるよ」
多分、と気弱に呟いた諒は、はっとしたように笑顔を作った。
「けど俺は、自分を見てくれないとわかってても、その人のことが好きだったから。ほかの人に告白されたりもしたけど、その人じゃないと心が動かなくて」
「そうなんですか……」
歌音は少し意外な思いで諒を見つめた。なんでもそつなくこなすようなイメージがあったのに……。
「何度も諦めようとしたんだけどね。無理だったなぁ」
「それって、――」
「――綾乃のことだよ」
緊張気味の微笑みを浮かべて、諒はテーブルに頬杖をついた。
「っていうか、話しすぎてごめんな。俺のことじゃなくて、悩みがあるんだろ?」
取り繕うように話を逸らされて、歌音は謝るタイミングを逃した。どう言おうか悩みながら口を開いたところで店員が来て、再び口をつぐむ。
「私も、絶対に叶わない恋、してるんです」
店員が行ってから、歌音は再び口を開いた。
「ほう?」
「何があっても、叶わなくて。忘れたいけど、忘れられなくて。もうさようならを言うべきなのに、言えないんです」
「その人と、会うことはあるの?」
「ない……かな」
悟にそっくりの、諒にならいつも会うけれど。だから、悩んでいるのだけど。
そんなことは言えないので、歌音はそこで言葉を切った。
「じゃあ、そのまま好きでいればいいよ」
「……え?」
「叶わなくたっていい。そう思って、好きでいるのは辛いことだけどね。生まれてから死ぬまで、ずっと同じ人を想い続けるなんて不可能なんだから。いつか……簡単には無理だけど、いつか忘れるものなんだから」
「そう……かも、しれないですね」
歌音はしばらく考えて、小さく首を振った。
「だけど、今は。……生まれ変わっても、彼の傍にいたいって、思っちゃうかな。今すぐにでも会いたいし。いつか、思い出にできればいいんですけど……ね」
「思い出、っていうのはいいね」
窓の外を見つめながら、諒は優しく微笑んだ。
「忘れるよりもずっといい」
しばらく、沈黙がおりた。
「パフェ食べな、溶けちゃうよ」
「ありがとう、ございます」
甘くて冷たいアイスクリームは、口の中で雪のように消えた。
撮影も終盤に差し掛かった頃、歌音から夕食に誘われた。綾乃も一緒にとのことだったが、時間の都合で綾乃は途中参加ということになった。
「いらっしゃいませー、狭くてごめんなさい」
「お邪魔します」
初めて入る歌音の部屋は、人気歌手とは思えないほど質素なワンルームだった。ガラステーブルに椅子が4脚、小さなテレビ、足元にはラグマット。
「すごく整理されてるんだね」
「物が少なくて。お手洗いはそのドアの突き当たりです」
「さんきゅ」
手だけ洗って戻ってくると、歌音はテーブルの上でノートパソコンを開いていた。
「実は、見てほしいものがあって。撮影の参考になるかと思ったんだけど」
そう言って見せられたのは、メール画面だった。差出人を見るなり、諒の目は文面に吸い寄せられるように文字を辿った。邪魔しまいと低く抑えられた歌音の声が耳朶を打つ。
「悟が、前にくれたメールなんです。口で説明するとうまく言えないから、メールで送るねって言われてて」
宛先:宮崎歌音
差出人:渡辺悟
こんばんわ。
カノンがカバーしてる曲で、「君じゃない誰かなんて」ってあるじゃん?
あの曲聴いて、ちょっとひらめいたことがあるんだよね。僕が今書いてる脚本に、使わせてもらってもいいかな……?
こんな頼み方はよくないかもしれないんだけど……。
無理だったらいいんだけど、もしできればでいいんだけど、とえらく自信なさげな文面は、歌音のことをどう思えばいいのか悩んでいる様子がまるわかりだった。
これ、綾乃に知れたら問い詰められてたぞ。命拾いしたな、悟。
心の中で呟いて、諒はマウスを返した。
「そうか……それがあの台本のことなの?」
「たぶんそうかなって。演じているうちにもしかしたらと思って、メール見たんです。そしたらもう絶対そうだとしか思えなくて」
「この曲って、どんな曲なの?」
「ちょっと待ってくださいね」
歌音は先ほどのドアに消えてしばらくがさがさしていたが、手ぶらで戻ってきた。
「ごめんなさい、ちょうど手元に音源がなくて」
そう言ってしばらくパソコンをいじり、やがてマウスを譲られた。「これです」
開いてあったのは大手の動画サイトで、再生画面で一時停止してあった。三角形のボタンをクリックすると、普段よりも低いカノンの声が流れ出した。
曲の視点は男性で、叶わない片想いの歌だった。
「なるほど……」
再生を一時停止すると、歌音はうつむいて静止していた。
「歌音ちゃん……?」
歌音は何も言わない。もう一度声をかけようとして、その肩が小さく震えているのに気づいた。
「お手洗い借りるね」
横を通ろうとすると抱き付かれた。驚いてバランスを崩し、歌音の座っていた椅子が剣呑な音を立てて倒れる。
「悟……」
「かの――」
諒は言葉を切って、覚悟を決めた。覆いかぶさるように倒れていた歌音の肩を軽く掴む。
「歌音? どうしたの?」
「え……?」
「え、って。どこかケガしたの? っていうか、ここ歌音の部屋だよね?」
「諒さん……?」
「今は僕だよ、悟。もしかして、僕のこと呼んだ? だからまた、ここに来られたのかなぁ」
歌音は零れそうなほどに目を見開いて諒を見つめた。うそ、とその口だけが動く。
「それで、どうしたの?」
「……私、」
歌音は膝を擦りながら少し下がって、きちんと座りなおした。
「私……悟のこと、ずっと好きでした。どんな歌を歌えばあなたが喜んでくれるか、どんな服を着ればあなたに好きになってもらえるか……。そんなことをずっと考えて、生きてきました」
「……」
「忘れられると思ったんだけど……。ただの片想いだったのに。ううん、……今でも好きです。あなたじゃない、ほかの人なんて何の意味も感じられない。だけど」
「知ってたよ」
「知って……?」
「ずっと知ってた。歌音が、僕のことを想ってくれてる、って。歌音が憧れの歌手だってわかってからは、そのことが本当に嬉しかった。もし……最初に会ったのが綾じゃなかったら、歌音のことを好きになってたかもしれない」
「……それは、嬉しい」
「今さらこんなこと言うのは虫がいいかもしれないけど……ごめん」
「私も、ごめんなさい。忘れられなくて……」
諒は小さく首を振った。
「でも、もうやめるね。お別れを言いに来てくれたんでしょ?」
「そう……だね」
「今でも会いたいと思ってるし、好きです。だけど……私もう、ずっと前に振られてるもんね」
「本当に……ごめん。だけど、……幸せになってほしい」
「ありがとう。……それじゃあ、ね」
「うん。それじゃあ……」
歌音は少しだけ寂しそうな笑顔で、じっと諒を見つめている。頃合いを見計らって、諒は首を傾げた。
「あれ? どうかした?」
「ありがとうございました」
いきなり深く頭を下げられ、諒は内心で焦った。まさか、ばれていたことはないだろうか?
「“悟”に、初めて名前を呼んでもらえて、幸せでした」
やってしまった。
諒は焦った。もしかしたら、わかりやすく動揺していたかもしれない。けれど歌音は、微笑んだままで首を振った。
「“悟”がどういうつもりだったのかはわからないけど、いいきっかけになりました。今までずっと私は夢の中にいたのかな、と思ったんです。こんなこと諒さんに言うのは違うかもしれないけど……ありがとうございました」
そこまで言い切ると、歌音はいたずらっぽい笑みを浮かべた。諒はしばらく迷ってから「よかった」とだけ答えた。
「そろそろ夕ご飯出しますね。綾乃さんも、そろそろ来ると思うし」
ちょうどそのタイミングでチャイムが鳴って、諒は立ち上がった。
「いいよ、俺出てくる」
「ありがとう」
ドアを開けると、過去の弟の恋人が微笑んでいた。
間が空いてしまい申し訳ありませんでした。
これにて完結となります。




