三章 切ないくらい、愛してた。
「……終わりにしよう」
やっぱりね。
かすみは声には出さず思った。話がある、と言われたときから予想はついていたことだ。
どうして、と聞こうとしてやめた。そんなことはどうでもいい。
「そう。わかった」
淡々と告げる。彼は苦しそうに眉をひそめて口をひらいた。
「本当にごめんな、かすみ」
「いいって。私との関係の方が間違ってたんだし。彼女さんと仲良くね?」
「ああ……」
彼は少し戸惑っているようだった。遊びの女にも愛着は湧くのね、と思うと、こんな時なのに笑いが漏れそうになった。
じゃあね、と彼のアパートから出る。彼は一瞬、引き止めたそうな素振りを見せたが、手を振るとそのまま扉を閉めた。
もう二度と、来ることもないであろうアパート。道を曲がる前にちらりと振り返って、それだけで別れの挨拶に代えた。
「……馬鹿らしい」
体だけの関係、遊びの恋。
お互いにまるで本気のように、その場かぎりで愛し合う。
思ってもみないことを甘い声で囁く私は、ただの道化だ。
貴司から、デート――かすみはそう思っている――の誘いがあったのは、その週の終わり近くだった。
「明日、いつものところでランチ、どう?」
長い日曜日の時間を潰す相手がいなかったのだろう。月に一度か二度、かすみに誘いが来るのだ。
それは貴司にとっては運が悪いことで……かすみにとっては、ラッキーなことだ。
店の前には、貴司の方が先に来ていた。いつもそうだ。貴司はかすみを待たせたことがない。
どこから来るのかを知らせないためなのか、単に性格なのか、その理由は聞いたことがない。
声をかけて気づかせ、一緒に店内に入る。いつものように座敷に案内され、適当に料理を注文した。
「で。また相手見つからなかったの?」
「そうなんだよなー。最近あんまりいい女いねぇんだよ」
「もう、そのまま遊ぶのやめちゃえば? もう年なんだからさ」
おいおい、と貴司は苦笑いした。
「年って。俺まだ二九……もう三十目前だけどな……」
「どちらにせよ私から見たら充分おっさんだからね」
「おっさんとか言うなよ、まったく」
「だって、えーと……十三歳差じゃない」
「かすみは今十六か。その年で――」
料理が運ばれてきて、貴司は一旦口をつぐんだ。ウェイターがいなくなってから続ける。
「その年でそんなに遊んでるのもどうかと思うけどな。まともな恋愛すりゃいいのに」
「貴司さんが言うー? 恋人は遊ぶためだけのもの、って言い出したの貴司さんでしょ?」
「まあな」
ははっ、と合わせて笑いながら、かすみは心の中で溜息をついた。
貴司が、かすみと気が合うと思うのは当然だ。貴司の気に入るように、気に入られるように、細心の注意を払ってきたのだから。
結果として手に入ったのは、誰よりも傍にいられる代わりに、過去に貴司と関係のあったどんな女よりも遠いという現実だった。
「かすみ?」
怪訝そうに声をかけられて、かすみは我に返った。
「あっ、ごめん。ぼーっとしてた」
「まったく。かすみも年じゃねぇの」
「失礼な! まだ花盛りよ!」
「自分で言うからなー」
ふん、とそっぽを向く。視界の端で、貴司が目を目を細めて微笑んだ。きっと本人は、その表情がどれだけかすみに愛しく思わせるか、露ほども知らないのだろう。
「そろそろ帰るか」
「えー、このままホテル行か――」
「未成年抱けるかよ。それに数少ない女友達減らすのもな」
「けち」
「けち言うな、バカ。なんで正論言ってる俺が責められんだよ」
まあ仕方ない、いつものことだ。駅までの道を並んで歩きながら、かすみは貴司の横顔を盗み見た。
何もかもに冷めているような顔。もしも好きだと言ったら、その顔はどう変わるのだろう。
「じゃあな、またお互い暇なときに」
「うん。じゃあ、またね」
言ったことはない。冗談半分にその頬にキスをしたことはあるが、本気になるのは怖い。好きな気持ちが大きすぎて、この報われない距離を手離す勇気が出ないのだ。
たとえ、永遠に続くことなどありえないと、わかっているにしても。
かすみが成人すると、ランチは呑みに移行した。その日は久しぶりに貴司と会える週末で、やっと内定が貰えたかすみは、小さくない決意を胸にバーに向かった。
カウンターでグラスを傾けていると、貴司がやって来た。どさりと隣に腰掛けると、疲れたように頬杖をついてにこりと笑う。
「久しぶりだな」
「だね。何回も誘い断ってごめんね」
「いいよ。いい男でも掴まえたのか?」
「違いますー。就活だよ、就活。私だって卒業したらふらふらしてるわけにはいかないし」
そうか、と貴司は安堵したように溜息をついた。
「で、決まったのか? 就職先」
「うん、やっと内定もらえた」
「よかったじゃん、おめでとう。お祝いで何か欲しいものあったら言えよ」
「何でもいい?」
「……常識的な値段の範囲内で頼むぜ」
「んー、じゃあね……」
やっぱりやめようかな、と心が日和る。かすみは一瞬目を閉じてから、貴司の瞳を覗き込んだ。
「――じゃあ、抱いて?」
「……」
未成年だから、という断り文句は使わせない。かすみは腕を絡ませた。
「最近いい男いなくてさ。就活中は狩ってられないからひとりキープしてたんだけど、もういい加減飽きちゃったし」
「……友達とそういうのは――」
「いいじゃない、お互い遊び人なんだし。それともあたしじゃ無理? そんな気になれない?」
意図的に一人称を変える。貴司は戸惑ったように視線を泳がせ、グラスを握り直した。
「そんなことは――」
「ならいいでしょう? それとも、抱けないほどあたしのことキライ?」
「いや――」
貴司が焦っているからか、かすみは不思議と落ち着いていた。頭を胸にもたせかけると、貴司は顔をあげた。
「……君、後悔しない?」
「あたしから誘ったっていうのに?」
質問で返すと、貴司は肩を竦めて立ち上がった。
「ウチでいいか?」
かすみは頷くと、差し出された手を握った。
恋人逹の日、クリスマス。
その前日の夜、かすみはプレゼントを片手に貴司の部屋へ向かった。この日を貴司の部屋で過ごすのはもう六回目で、チャイムを押すとすぐに扉が開いた。
「こんばんは、貴司さん」
「こんばんは。上がって、寒いだろ」
「お邪魔しまーす」
部屋に入り、ふと違和感を覚えた。少し考えて、カーテンが変わっているのだと気づく。
「はい、ケーキ。カーテン変えたんだ?」
「サンキュ。……ああ、変えた」
「貴司さんが自分で選んだの?」
「んー……まあ、な」
「へぇ、なかなかセンスいいじゃない」
互いに夕食は済ませているので、貴司はケーキを皿に取り分けた。片方をかすみの前に置く。その横に、有名な宝石店の小袋が並べられた。
「はい。クリスマスプレゼント、これな」
「ありがとう!」
開けていいか尋ねてから、かすみは巾着型のそれを開いた。半透明の白い石のイヤリングが入っている。
「うわぁ、綺麗……ムーンストーン?」
照れているのか、そっぽを向いたままで貴司が頷く。ありがとう、ともう一度告げると、貴司は目を細めて笑った。
「はい、私からもプレゼント」
小さな赤い包みをバッグから出す。手渡すと、微かに手が触れ合った。気づかないふりで手を下ろす。
ありがと、と言いながら貴司は金色のリボンを引っぱった。中から出てきたのはメタリックなペンダントだ。
「お、いいなコレ」
「三九歳のオジサンにはいまいちかなーと思ったんだけどね?」
「オジサン言うなって」
苦笑して頭をはたかれる。小さく舌を出すと、貴司がペンダントを差し出してきた。
「つけて?」
「ん」
ひんやりとした金属片を手に取る。貴司の後ろに回り、首の後ろで留め金を留めた。
「はい、できたよ」
肩に手を置くと、薄いYシャツの下で筋肉が動いた。貴司の右手が、楕円形のペンダントトップをつまみ上げる。
「これは……ドラゴン?」
「うん」
ペンダントを胸元に戻した手が、かすみの手に重ねられた。
――ケーキは明日になるかな。
かすみは手を裏返した。重ねられた貴司の手を軽く握る。その腕を引かれて寄りかかり、唇をどちらからともなく重ねた。長々と舌を絡ませ、息が続かなくなって離れると、ふわりと体が浮いた。下ろされた先はベッドの上だ。
貴司の手がブラウスのボタンを外しているときに、チャイムが鳴った。貴司はしばらく無視していたが、二度三度と鳴るチャイムに顔をしかめた。
ちょっと待ってて、と言い置き、貴司はかすみから起き上がった。ややあって、チェーンを外す音が聞こえてきた。
「来ちゃった」
ん?
貴司の女のひとりか、と、ざわつく心を抑えてこっそり顔を覗かせる。しかし、貴司の体に隠れて、相手の女は見えない。
「来ちゃった、じゃないだろ。今日は人来るからって言ったろ?」
「顔見たくなったの。結婚式前って忙しいのね、こんなに会えないなんて思わなかったわ」
貴司が露骨に気配を尖らせた。
「……仕方ないだろ。もう少ししたら、毎日顔合わせられるようになるんだから」
「そう、よね。ごめんなさい、我が儘言って」
「いいよ。悪いな、上げられなくて。じゃあ、気を付けて帰れよ」
「ええ。じゃあ」
バタン、と扉が閉まる音で我に返った。顔をあげると、貴司が悄然と立っていた。
悲しさと、愛しさと寂しさと悔しさが混ざったような感情が、暴力的なまでに胸に込み上げる。
「……かすみ、」
「結婚するんだ?」
口から出てきた言葉はびっくりするほどいつも通りで、かすみは微かに眉をひそめた。
「……ああ」
「言ってくれれば良かったのに、びっくりした。で、どうする? 会うの、もうやめる?」
軽く、聞いたつもりだった。なのに貴司は強く膝をつき、かすみは腰を浮かせかけた。
「待って、土下座とかしないでよ?」
「俺……ずっと嘘吐いてた」
急に何を言い出したのかと、かすみは首を傾げながら続きを促した。
「君と会うようになってから、俺、遊んでた女とは全員別れたんだ。君が本気で好きになったから」
ふっ、と貴司は悲しそうな笑みを浮かべた。
「でも、このままじゃ自分が駄目になると思ってさ。あの、さっきの彼女が、親身になって話聞いてくれて。クサいこと言うけど、君を好きなのが恋なら、あいつのは愛かな、って」
だから結婚することにした。
そう言って、貴司はいつものように目を細めて、どこかが痛むように笑った。
「ごめんな。もう、会うのやめよう。元から今日、そう言うつもりだったんだ」
――なんてことだ。
つまりはそういうことだ。互いに、相手は自分なんかに本気にはならないと思って、諦めてしまっていたのだ。
「そう。わかった」
「……かすみ、」
「いいって。私との関係の方が間違ってたんだし。彼女さんと仲良くね?」
違う。こんなことが言いたいんじゃない。
けれど、口はテンプレートに沿うように、何度も繰り返してきた言葉を垂れ流す。
手早く服を整え、コートを着てバッグを手に取った。
扉を押し開けながら、半身で振り返って「じゃあね」と手を振る。
背後でバタンと扉が閉まり、かすみは俯いた。
初めて、本気で人を好きになったのに。ただ気持ちがあるだけで、行動がいつも通りなら、こうなるに決まっていた。だからいつも通り、出てきた扉がもう一度開くこともない。
苦笑いして一歩踏み出すと同時に、背後の扉が開く音がした。釣られたように振り返る。
「……」
「……」
しばし無言で見つめ合う。やがて貴司が口を開いた。
「本当に……好きだった」
「あなたが私に恋してたなら……」
何を言っているんだろう、と思いながら、かすみは微笑みを浮かべた。
「私は、あなたを愛していました」
驚いた顔で、貴司は何かを言いかけた。
話を聞くつもりはない。かすみはその唇を塞ぐと、すぐに跳び離れて手を振った。
「じゃ、さようなら」
もう見えないだろうと確信が持てるところまで走って、かすみは立ち止まった。
悲しさと愛しさと寂しさと悔しさが混ざったような感情。
人はそれを、切なさという。
季節は流れ、貴司と別れて幾度目かの夏がやって来た。
外国に行っていた従姉妹の綾乃が、結婚のために帰国するという。親戚の手が空かなかったそうで、空港まではかすみが迎えに行くことになった。
「綾姉?」
ロビーで男性と話していた綾乃は、彼に会釈してから、笑みを浮かべて近づいてきた。男性は反対側に歩き出す。
「知り合い?」
「ん……ああ、あなたにも会わせた方が良かったかしら。深山さんよ」
とくり、と、小さく心臓が脈打った。
「綾姉と知り合いだったっけ?」
「カノンの代理してたときにお世話になったじゃない。あなたが紹介してくれたっていうのに、忘れたの? 彼、奥さんと別れちゃって大変みたいよ」
「……へぇ」
「昔の恋人が忘れられないんですって。歳の割に若いわね、ハートが。私もそんなに愛されてみたいわ」
気づいたときには、もう口を開いていた。
「あんまり良いものじゃなかったけど」
「え?」
「何でもない。たか……深山さん、ペンダントしてた?」
「ペンダント?」
「ドラゴンの」
綾乃は怪訝そうに首を傾げたが、かすみの勢いに押されたように頷いた。
「どうだったかしら……たぶん……してた、わね。それがどうかしたの?」
かすみは耳元で揺れるムーンストーンに手を触れた。
――今度こそ、諦めない。
「かすみ!?」
かすみは、人波に見え隠れする哀しげな背中に向かって駆け出した。
貴司さんは銀縁のメガネをしているイメージです。
今じゃあ12歳差なんてそんなに珍しくもないのでしょうか?
私個人としては想像の範囲で書ける限界がここでした。




