二章 人魚姫
サビにさしかかったところで、歌音は一瞬、自分の目を疑った。満員のホールの中で、最前列の隅に座っているのは、渡辺悟ではないか?
けれどそんなはずはない。“カノン”が、宮崎歌音のことだと知っているはずはないからだ。あり得るとすれば、悟が単に“カノン”のファンだということくらいだが……可能性は低いだろう。
歌音は軽く目を閉じると、一番の見せ場であるコーダに向けて、片手を天に差し上げた。眼裏に浮かぶ悟の姿を打ち消すように、いつも以上にビブラートを効かせて最高音を響かせる。最後の残響がホールから消えると、耳を聾するほどの拍手が舞台上のカノンに向けられた。
手を振って応え、舞台袖に入る直前、客席に目をやったが、悟はいなかった。
渡辺悟は、歌音の想い人だ。
それは、高校二年になって数日経った、ある放課後のことだった。
教室に入ろうとした歌音の耳に、三、四人の女子が中で話しているらしき声が聞こえてきた。
「ねえねえ、聞いた?」
「今度は何?」
「また彼氏の話?」
やだー、と彼女らは甲高く笑った。そのまま違う話題に流れそうになったのを、リーダー格の女子が強引に私の話に戻す。
「で、こないだ知ったんだけどね。宮崎さんってひとり暮らしなんだって」
「ふーん」
「宮崎さんって、あの地味なコだよね? それが?」
「地味かなぁ」
「その宮崎さんの家にね、昨日男が来てたんだって。三十代くらいの!」
「うわ、マジ!? 同棲?」
「え~、そんなタイプに見えないのに~! それどこ情報?」
それはマネージャーの深山さんです。
歌音は扉の外で肩を落とした。
歌手の"カノン"としての仕事を持っている歌音は、利便性の面から都心近くにひとり暮らしをしている。今はちょうどコンサートが多い時期なので、夜中でも深山が来ることもあるが、どうやらそれを見られていたようだ。
「でも宮崎って、魔性の女っぽいとこないか?」
誰か男子の声がして、歌音は眉をひそめた。
「何考えてるかわかんねえし。ああいうのにコロッといく奴もいんのかな」
「そういうこと言うなよ」
それが悟だった。
「本当はどうなのかわからないんだから。来てた男っていうのも兄弟かもしれないし。陰で色々言うの、よくないよ」
「悟って潔癖だよね~」
「そういう問題じゃ――」
……へぇ。
話が悟の性格に移ったのを確認して、歌音はそっと扉に寄りかかった。
なかなかいい人。話したこともないけど。
歌音が悟のことを目で追うようになったのは、それからすぐのことだった。
もしも昨日、夜のコンサートに来ていたのが悟なら、間違いなく寝不足になっているはずだ。何せコンサートが終わったのは真夜中を過ぎた頃だったからだ。
歌音は授業が始まってから、こっそりと斜め前の席の悟を窺った。柔らかな春の日差しに照らされ、気持ち良さそうに居眠りしている。
やっぱり、見間違いではなかったのだろうか。確定ではないが、可能性は少し上がった。
昼休みに可能だったら聞いてみようかな、と決めかけて、歌音は顔を曇らせた。
実は、歌音のクラスは今、少しばかり勢力図がややこしいのだ。
悟は、クラスの中心で仕切ろうとする男子や、蝶のようにひらひらした女子などが属するような、“メジャー側”の人だ。対して歌音は、物静かで目立たなかったり、特殊な趣味を持っていたりする人が属する“マイナー側”の人間だ。それだけならありがちなことかもしれないが、歌音のクラスではそれがとても極端なのだ。
そんなことを気にするなんて、と馬鹿らしくなることもある。だが、学校という閉じられた世界の中で生き残るためには気をつけねばならないことが多いのだ。
茫然と黒板の方に投げかけていた視界の端で、悟が動いた。ポケットから音楽プレーヤーを取り出すと、イヤホンを耳に差して、再び机に伏せる。コードが筋ばった首にかかっている何でもない様子に、何故か胸が高鳴った。
しばらくしてチャイムが鳴り、悟がぱっと目を開けた。見ていたことがバレないように、歌音は慌てて下を向く。その後そっと視線を上げると、悟はひとりで教室から出ていくところだった。
悩んだのはほんの一瞬、歌音は急いで教室を出た。
「渡辺くん」
いつものように、意図して作った細い声で呼びかける。カノンだとバレないための処世術だ。もっとも、殆ど口を開きもしない学校では、そこまで気を付けなくても問題ないのだが。
歩き出していた悟は振り返り、「何?」と首を傾げて歌音が追いつくのを待った。
「あの……渡辺くん、昨日の夜、どこにいた?」
「――どうして?」
壁を作られた、と歌音は直感的に感じた。どうしよう。聞いてみたい、けれど嫌われたくない。
ふたつの感情の板挟みになって、歌音は言い澱んだ。
「あの……その、見ちゃって……コンサートの会場で」
「会場? 僕を?」
こくり、と頷くと、悟は困ったような恥ずかしいような表情を浮かべた。見られてるとは思わなかった、と呟く。
悟が内緒話をするように顔を近づけてきて、歌音は暴れる心臓を押さえ込んだ。
「実は僕、カノンのファンなんだよね。秘密にしといて」
歌音は無言で頷いた。じゃ、と軽く手を振って歩いてゆく悟を見送る。
そして努めて無表情で教室に戻ると、机に伏せて寝る体勢をとった。
――あの渡辺くんと話せた。
目を閉じたまま、歌音は微笑んだ。
――“私”のファンだ、って。嬉しい。死んでしまいそうなくらい。
次の日からレッスンに力が入ったのも、歌音としては無理なからぬことだった。
それからしばらくの後、制服が夏服に変わって一か月ほど経った頃。
数か月後のコンサートに向けての練習が忙しくなり、歌音の帰りは毎日遅くなった。とは言え一人暮らしなので、帰るのが遅くなっても朝帰りをしても何の問題もない。
そんなある日、マネージャーの深山貴司が歌音の家へやって来た。
「カノン、最近調子悪いな」
「え、そうですか?」
「何か悩みごとでもあるのか?」
悩みごと。あるにはある……が、言うようなことではない。悟と話してしまったから、何も喋れない毎日が辛い、なんて。今までずっとこうだったのだから、今更悩むのもおかしいのに。
「ないですよー、悩みごとなんて」
「それならいい」
無理だけはしないようにな、と言い残して、深山は帰っていった。
残された歌音は、冷房を弱めてから立ち上がり、洗面所へ向かった。部屋着を脱ぎ散らかして、バスルームのドアを開ける。
湯船に体を沈めると、緊張が解れて眠気が押し寄せてきた。抗いがたい眠気に、歌音はほんのちょっとだけだと心の中で言い訳して、目を閉じた。
気づくと、大きな鏡の前に立っていた。
自分の姿が映っている。……否、“カノン”の姿が映っている。表情は明るく、綺麗な衣裳を纏い、自分に自信がありそうなカノンが。
鏡のカノンが口を開いた。
『あなたがあたしになれば、悟はあなたを見てくれるわ』
「……でも、私は“歌音”。“カノン”は本当の私じゃない」
『けれど“カノン”でもある。願いを叶えるために“歌音”を擲つことくらい、簡単でしょう?』
「……」
心が揺れた。
悟がいなければ、座っているだけで辛い教室のことを思うと。
『“カノン”になりましょうよ』
「……嫌」
呟くと、カノンが柳眉を吊り上げた。
『どうして? あたしになれば、この声で話すことにも躊躇しなくていいのよ? それに、悟があなたのファンになってくれるのよ?』
「でも、“カノン”と渡辺くんは友達じゃないし」
カノンは馬鹿にしたように両手を広げた。
『じゃあ“歌音”は悟と友達だって言うの? 話すことすらできていないのに?』
「……それでも、嫌。一緒の教室にいられるだけでどんなに幸せか、……カノンは知らないでしょう?」
『幸せ? 今は辛いと思っているじゃない。自分を偽るのなんて無理よ。あなたはあたしなんだから』
「私は“歌音”として、渡辺くんに見てもらいたいの。高嶺の花の“カノン”じゃなく」
『無理よ。不可能よ。“カノン”であることが知られた途端、“歌音”の生活は破綻を来すでしょう?』
「それなら、“カノン”をやめる。それで、私が私として渡辺くんの傍にいられるなら」
恐ろしいほどの沈黙が降りた。
一分、二分、三分の間、双方とも口を開かなかった。やがて、カノンが口火を切った。
『“カノン”と引き換えにしてでも? あたしと、この美しい声をなくしても、悟の傍にいたいというの?』
歌音は頷いた。
「この声がなくなるなら生きてる意味なんてないと思ってたけど。代わりに、渡辺くんの傍にいられるのなら。そんなの惜しくない」
カノンは溜息をつく。
『わかったわ。……それなら、一ヶ月。三十日間だけ、あたしは他の人になる。その間は何があっても、あなたは“カノン”には戻れない』
「その間、……私は渡辺くんと……?」
『仲良くなれるわ。まったく、とんだ人魚姫ね』
鏡の中からカノンが消え、気づいたときには、歌音は湯船の中で、立ち昇る湯気を見つめていた。
夢にしては嫌に鮮明だった。何故だろうかと考えながら、歌音は湯船から体を引き上げた。
結局歌音はその夜、自分に来した変調に気づくことはなかった。
昼休みに、歌音は放送で呼び出された。応接室だということで、きっと深山が来たのだろう。教室で空気のような存在になっていると、そっと抜け出しても興味をひかれないから楽だ。
応接室にいたのは、やはり深山だったが、ひとりの女性を連れている。歌音が向かいに座るのも待ちきれない様子で、深山が切り出した。
「カノン、声、出るよな?」
何の話ですか?
言ったつもりの言葉は、ただの空気の塊になって口から零れた。あれ、と呟くも、声にならない。
ゆっくりと、顔が強張っていくのがわかった。深山は顔色を失って立ち上がると、歌音の隣に座って肩を押さえた。
「何か言ってみろ」
歌音は口を開いた。口の動きに合わせて、息だけが出てくる。目眩がして、歌音は思わず目の前の机に手をついた。
「――本当に、声、出ないんですか?」
向かいに座っていた女性の声を耳にして、歌音は弾かれたように顔をあげた。当たり前でしょう、と言う代わりに目を見張る。
――似ている。“カノン”に、似ている。
顔が似ている、というわけではない。ただその雰囲気と、そして声が、酷似していた。
「どうすれば――」
顔を覆いかけた深山は、しかし立ち上がると小さく息を吐いた。
「対策を考えよう。……カノン、君の声が出ないことは、誰が知ってる?」
誰も知らないはずだ。自分だってさっきまで知らなかったのだから。
覚束ない視界のまま、歌音は首を振った。
「誰もいないんだな?」
今度は頷く。
深山はしばらく困惑したような表情を浮かべていたが、やがて血の気の失せた顔で頷いた。
「君の声が戻るまで、こちらの咲田さんに代理を務めてもらう。そう、この子、咲田綾乃さん……大学二年生なんだけど、カノンにそっくりだろう?」
歌音は複雑な心境で綾乃の姿を眺めた。
「――で、いいか?」
綾乃に何かを確認していた深山が、歌音に了解を求めた。
歌音は『よろしくお願いします』という意味を込めて、深く頭を下げた。
教室に戻ると、一度も話したことのない“メジャー側”の女子が駆け寄ってきた。名前は星野かすみ。個人的な理由で、あまり良い感情を持っていない相手だ。
何の用かと身構えると、彼女は心配そうな声音で歌音に問いかけた。
「宮崎さん、呼び出し何だったの? それに、なんだか顔色悪いよ」
大したことじゃない、と言おうとして、声が出ないことを思い出した。仕方なく、ポケットから携帯を取り出す。メール作成画面を出して、手早く書き込んだ。
『ちょっと声が出なくなっちゃって』
画面をかすみに見せると、かすみは目を見張った。
「大丈夫!? 風邪とか?」
返事を打とうとして、一瞬指が止まった。声が出なくなった理由は自分でもよくわからない。考えられるのは、昨日風呂場で見た、意味ありげな夢くらいだ。……だとしたら、
『心因性みたい』
再び画面を向けると、かすみは複雑な表情になった。何か言いかけて、歌音の背後に目をやる。
「どうしたの?」
顔色ひとつ変えずに振り返ることができたのは、自分でも上出来だと思う。歌音は冷静そのものに、自分とかすみを交互に見つめる悟を見上げた。
「宮崎さん、風邪で声出ないって言うから」
広めたくないだろうと思ってくれたのかな。ちらりとかすみを見ると、かすみはこっそり片目を瞑った。
濃やかな人だな、と歌音は少し意外に思った。"メジャー側"の人は、人の気持ちなんて気にもかけない人種だと思っていた。
「え、大丈夫? 宮崎」
歌音は無言で頷いた。ちゃんと、何でもないように見えているだろうか?
「長引きそうなら病院行った方がいいよ。喉って傷めたら大変らしいから」
「何か不便なこととかあったら、いつでも頼ってね?」
歌音はまた頷いた。心臓の限界が来る前に、と軽く頭を下げて席に戻ろうとすると、かすみがついてきた。怪訝に思って首を傾げると、かすみはにこりと笑った。
「歌音、って呼んでもいい?」
いきなり何で!?
歌音は目をしばたたかせながら辛うじて頷いた。
「じゃあ、歌音。今日一緒に帰らない? 悟もいるけど」
だから何故!?
更に混乱して、歌音はただただ頷いた。
その日から歌音は、いつもかすみと悟と一緒に行動するようになった。帰り道もいつもふたりと一緒で、電車の中でも会話が弾んだ……歌音は基本的に聞き役だが。
「じゃあ私はここで。また明日ね」
「じゃあね」
かすみに手を振って、電車のドアが閉じてから、歌音は悟に携帯の画面を向けた。用事があるから次で降りるね、と書いてある。
「用事って?」
ちょっとね、と親指と人差し指で小さな隙間をつくると、悟は拗ねたように唇を尖らせた。教えてくれてもいいじゃん、とその表情が雄弁に語っている。
歌音の心はその顔に綻んだが、言うわけにはいかない。カノンの歌の指導をしに行く、なんて。
少し悩んでから、歌音は文字を打ち込んだ。
『病院』
「――あ、ごめん。……声、まだ戻りそうにないの?」
言いたくなかったらいいんだけど、プレッシャーかけたいわけじゃないし、と、悟は慌てて付け足した。その優しさに、本当のことを言えない後ろめたさを感じた。
『まだみたい』
「そっか……」
早く良くなるといいね。
悟の言葉に、歌音は俯いた。"カノン"の声で、悟に語りかけたいと思ったこともある。けれど、声が戻ったら、悟の側にいることはできなくなってしまうかもしれない。
悟やかすみが仲良くしてくれるのは、同情からだろうとしか思えないのだ。
電車が減速を始め、思わず歌音の指が動いた。画面を悟の目の前に突き出す。
『嘘 カノンに会うの 知り合いで』
もし、カノンと歌音が知り合いなのだと思ってくれれば。歌音の声が戻っても、友達として隣にいさせてくれるかもしれない。
「…………マジで?」
静止していた悟が、目をいっぱいに見開いて呟いた。
「宮崎……知り合い? ……カノン……? ……僕も行かせて。一生のお願いだから」
歌音が渋っていると、悟はプライドも捨てて土下座しようとした。さすがに慌てて、歌音は悟の手首を掴み、開いた扉からホームに降りた。
自分を“カノン”だと言えない哀しさよりも、今、一緒にいられることだけが幸せで。
それが必ず醒めてしまう夢だということに、歌音は気づいていなかった。
スタジオの前で深山を待っていると、綾乃の方が先にやって来た。
「宮崎さん?」
通った声に、ふたりして振り返る。本物だ、と呟く声が耳に入って、歌音は微かに眉をひそめた。
本物じゃない。本物は私なのに。
「こちらの方は?」
歌音は綾乃に携帯を手渡した。悟がなぜここにいるのか、説明を打ち込んである。綾乃が読んでいる間に……と悟に視線を移して、歌音は息を止めた。
悟の顔は、単なる憧れのアーティストを見ている顔ではなかった。
複雑な表情を浮かべて読み終わった綾乃から携帯を受け取り、歌音は唇を噛んだ。
「渡辺さん――」
“カノン”として挨拶をしようとした綾乃が、一瞬言葉を切った。瞬きの間だけ表情を変えた綾乃は、すぐに元の“カノン”に戻った。
「――いつもありがとうございます。これからもカノンをよろしくお願いします」
ああ。このふたりを、会わせてはいけなかった。
歌音は地面に膝をつきそうになった。
「宮崎? どうしたの?」
悟に声をかけられて、頬を伝う生温い滴に気づいた。悟の顔は、興奮したように上気している。
なんでもない、と口の形だけで言うなり、歌音は身を翻した。
「宮崎!?」
「宮崎さん!?」
泣きながら走って、泣きながら電車に乗って、家に着くなり歌音は玄関にしゃがみこんだ。
神様が、いるのなら。
この声を捧げてもいいから、悟の隣にいたいと願ったのに。どうして、声を奪われた上に、彼の恋が始まる瞬間なんて、見せつけられなければいけないの。もう、一緒にいることもできないじゃない。
うわぁぁぁ、と子どものような泣き声があがって、歌音は目を見開いた。
「何で……」
よろめきながらカレンダーの前へ移動する。
あの日から、一か月が経っていた。
“宮崎歌音”が、歌手の“カノン”だというニュースは、一月ほどで学校に浸透した。どんな目新しいニュースも、すぐに廃れてゆくのは学校の良いところだと歌音は思う。
騒がれている間、騒がれなくなってからの間もずっと、歌音は相変わらず、かすみと悟と一緒の毎日を送っていた。
ある意味では、歌音の願いは叶ったとも言えるのだろう――声が戻っても、傍にいられたのだから。
クリスマスが近づいたある日の放課後。
三人でパーティしようよ、と提案したかすみに、悟が申し訳なさそうに手刀を切った。
「ごめん、僕、クリスマスは用事が……」
「えっ、悟まさか彼女できたの!?」
「まぁ……うん」
「えーっ、誰!? 誰誰誰!?」
「うるさいよお前、高野は知らない人だよ」
「――わかった」
唐突に声をあげた歌音に、ふたりは取っ組み合おうとした姿勢のままこちらを向いた。
「咲田綾乃さんでしょう?」
「……」
「あら、図星ね?」
「えっ……!? 私の従姉妹と同姓同名なんだけど!? 詳しく教えなさいっ!」
悟にヘッドロックをかけようとするかすみを笑って眺めながら、歌音の心は冷えきっていた。
嫌がりながらも少し嬉しそうな悟と目が合った瞬間、もう駄目だと思った――もう、私がここにいる意味はない。
『とんだ人魚姫ね』
“カノン”の声が脳裏に蘇った。その通りだ、恋に破れた人魚は、泡となって消えなくてはならないのだ。
じゃあ私用事あるから、と席を立つ。その足で職員室に行き、退学届をもらうと、次の日、誰にも何も言わずに、歌音は学校をやめた。
サビにさしかかったところで、カノンは一瞬、自分の目を疑った。満員のホールの中で、最前列の隅に座っているのは、渡辺悟ではないか?
けれどそんなはずはない。悟は先日、……死んでいるはずだからだ。
カノンは軽く目を閉じると、一番の見せ場であるコーダに向けて、片手を天に差し上げた。眼裏に浮かぶ悟の姿を打ち消すように、いつも以上にビブラートを効かせて最高音を響かせる。最後の残響がホールから消えると、耳を聾するほどの拍手が舞台上のカノンに向けられた。
手を振って応え、舞台袖に入る直前、客席に目をやると、悟はまっすぐに歌音を見つめていた。
悟くんの過去編。
この章は書いていて一番意味がわかりませんでした。カノンちゃん勝手に動きすぎ。
現実的に考えれば歌手の代役なんてありえませんが、そのあたりは気にしないでください。




