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一章 うたかた花火

 その日は連日の猛暑日とは打って変わって、最高気温が三十度を下回った日だった。

 もっとも、七月半ばに大学が夏休みに入ってから、夜に食材を買いに行く以外は部屋に籠りきりの私にとっては、何の関係もないことだったが。

 いつものように十時頃に起き出し、朝食(と言っても冷凍ピザだが)を作っているところで、携帯が鳴った。誰からかかってきたのかも見ず、電子レンジの前から動かないでいると、留守電になったようだ。ピー、の音の後に、聞き覚えのある声が流れ出した。

『もしもし、綾乃(あやの)さん? 最近顔見てないから、元気かなと思って』

 数秒、躊躇うような間があった。

『あの……今日、迎えにいくのは五時半でいいかどうか――』

 ふいにこらえられなくなって、私は狭い台所を飛び出すと、テーブルに置かれた携帯を掴んだ。通話ボタンを強く押す。

「もしもし」

『あ、綾乃さん。ごめんな、俺、タイミング悪い時に掛けちゃったかな』

 いえ、と答えた声に被さるように、レンジが電子音を響かせた。楽しそうな笑い声が携帯から流れてくる。

『まさかと思うけどさ、家に籠りっぱなしで三食冷食ですが、みたいな生活送ってたりしないよな?』

 一瞬詰まったのは図星だったからだ。

「……そんなことないですよ」

『お、図星か』

「違うって言ってるじゃないですか!」

『ごめんごめん』

「謝罪の言葉は繰り返しちゃ駄目です!」

『ごめんって。まあ、それだけ元気なら大丈夫かな』

 軽口を叩き返そうとして、失敗した。こうやってたまに優しいのは反則だ。

「……何の用ですか」

 自然とつっけんどんになった声に、諒さんは苦笑いを滲ませながら切り出した。

『あのさ、今日、花火大会の日なんだけど……行く?』

「え、っと……」

『あっごめん、嫌だよな。一応聞いてみただけ――』

「行きます」

 その言葉に一番驚いたのは、他ならぬ私自身だった。けれど言ってみると、何だか前からそう言おうと思っていたような気がしてきた。

『……大丈夫? 俺に気遣ってそう言ってたりしない?』

「違いますよ。普通に大丈夫です」

『そっか。じゃあ……五時三十分に君の家に行けばいいかな』

「はい。待ってます」

 じゃあ、それでは、とか何とかごにょごにょ言うと、諒さんは慌ただしく電話を切った。

 携帯をテーブルに戻し、閉めきっていた窓を開ける。もわっとした空気が部屋に流れ込み、久しぶりに額に汗が浮いた。

 ――浴衣を、探さなければいけない。去年着た浴衣を。

 でもその前に食事だ、と私は台所に戻った。


 りょうさんがやって来た時、私は上から下まで全て、去年悟さとると花火を見に行ったときと同じ格好をしていた。紺地に椿の花が描かれた浴衣に、ガラス細工の赤い髪飾り、そして足元は下駄。藤編みの手提げの中身まで全て一緒だ。

「へぇ、綺麗な浴衣だね。綾乃さんによく似合ってる」

「そうですか?」

 ありがとうございます、と言いながら、心が微かに波立った。まったく同じ顔をしているのに、紡ぐ言葉は別物だ。もしも悟だったら、『綺麗な浴衣だね』だけしか言わないだろう。

 自然なエスコートをされながら、会場となっている公園へと向かう。だんだんと周囲に人が増え、本格的に混みはじめる直前で、既に場所をとってあったらしいレジャーシートに導かれた。芝生の広場の真ん中あたりで、かなり眺めがいい場所だ。

 場所取り大変だっただろうな、とは努めて思わないようにした。

「とうちゃーく。思ったより混んでるな」

「これからもっと人増えますよ。まだあと三十分くらいあるし」

「うっわ、マジかよ。じゃあ今のうちに屋台で何か買っとく?」

「そうしましょうか」

 足を休めたかったが、仕方ない。脱ぎかけた下駄を履き直して、立とうとすると手を差し出された。気づかなかったフリでそのまま立ち上がる。

「こういうときはやっぱりりんご飴だよな」

「えー、あんず飴の方がお祭りっぽさが出ませんか?」

「そのふたつの違いってよくわからないんだけど。りんごかあんずかの違い?」

「モナカがついてるのがあんず飴……って聞いたことがあるような」

「あぁ、あの器みたいな奴のありなしなんだ? あ、あそこ」

 諒さんの指差した先を見ると、あんず飴の屋台が出ている。

「買いましょうよ」

「買っちゃおうか」

 出された手を自然にとりそうになり、直前で気づいて慌てて手を引っ込めた。惜しかった、と笑う諒さんを困って見つめると、諒さんはふと真顔になった。

「俺、飲み物とかも買ってくるよ。綾乃さんは座ってて」

「えっ、いいですよ私――」

「混んできたし、足痛いんだろ? 座ってていいよ」

 ぎくりとした。

 実は下駄のサイズが微妙に合っておらず、鼻緒が擦れて痛かったのだ。

「それに、……いや」

 俺は悟じゃないし、と小さく呟いて、私が何か言う前に諒さんは歩いていってしまった。

 ――確かに、諒さんと悟とを、無意識のうちに較べていることはあったかもしれない……あった。けれどそれは仕方ないことだ。何せ兄弟で、瓜二つなのだから。

 レジャーシートに座って下駄を脱ぐ。鼻緒が当たっていたところは赤くなり、血が滲んでいた。

 ――諒さんは悪い人ではない、いい人だ。(こま)やかだし、悟より背も高い。会話だって、気が利いていて楽しい。

 絆創膏を貼り終えると、自然と溜め息が漏れた。

 ――もしも、悟ではなく諒さんと先に出会っていたなら、諒さんと恋に落ちていたかもしれない。……こんなにも、罪悪感を覚えたりはせずに。

 パン、パン、と音だけの花火があがって、時計に目を落とす。六時十五分、あと五分だ。そういえば諒さんは、と首を廻らすと、ラムネを持ってこちらへ歩いて来るところだった。

 一瞬苦しくなった胸には気づかないふりで、私は諒さんを迎えるために立ち上がった。



 弟の悟は、一ヶ月前に死んだ。交通事故だ。

 その日は夏休みの初日で、学校が終わってから悟は、恋人の咲田綾乃に会うため、彼女の大学に向かっていた。悟はそのとき高三で、綾乃さんとは三歳差だった。つまり彼女は、そのとき社会人一年目だった俺の、ひとつ下だ。

 悟には何の非もない事故だった。信号が青になるのを待っていて、……スピード違反の軽自動車に跳ねられてしまった。怪我人は運転手を含めて四人で、悟以外の三人は軽傷だった。悟だけが、打ち所が悪くて死んでしまったのだ。

 そのとき、綾乃さんに連絡を入れたのが俺だった。綾乃さんに面識があるのは俺だけだったし、悟はそもそも、俺以外の家族には彼女がいることを言っていなかったからだ。もっとも俺も、彼女とは一度しか会っていなかったのだが。

 なぜなら、彼女は人間として、とても魅力的な人物だったからだ。



 ドォン、と低く重い音が響いて、観客がざわめいた。

「いやぁ、近くで見ると壮観だね」

「ですね! 綺麗だなぁ……」

 ひとつ、花火が上がる度に、綾乃さんは律儀に歓声をあげる。その様をぼんやりと見つめていて、ふと気づいた。――頬が濡れている。

「綾乃さん?」

「……去年、悟と来たとき。私、花火なんて見てなかったんです」

「……」

「三つも年下なんだから当然なのかもしれないけど、いちいちはしゃぐ悟が可愛くて。悟のことばっかり見てたんです」

 今の自分の心境のようで、少し胸が苦しくなった。とても仲が良かったことが、聞いているだけの身にもわかるような口ぶりだった。

 そんなことを思っている間にも、綾乃さんはゆっくりと言葉を紡いでいた。

「だから、今ここに、悟がいないなんて信じられなくて。花火の音を聞くたびに、思い出してたから……悲しくて」

「じゃあ今日は、どうして来ようと思ったの?」

 純粋な疑問――多少の期待を含んではいたが――だったのだが、責められていると思ったのか、綾乃さんは睫毛を伏せた。花火の光が、濡れた頬を色とりどりに照らす。

「どうしてでしょうね……」

 多分、と呟いて、彼女は言いあぐねたように口をつぐんだ。顔を向けると、濡れた瞳と目が合った。

「……寄りかかりたかったから、だと思います」

 俺じゃ駄目だ、と、何故かそのとき直感した。彼女の想いはただただ純粋で、俺なんかが入るような隙はない、と。

「あのさ、綾乃さん。俺――」

 何かを諦めたように光の消えた瞳を見た途端、言おうとしていた言葉が喉の奥で(こご)った。

「――悟に、三人で花火を見に行こうって言われたときにさ。言ってたんだ、悟が。〝去年は雨でナイアガラだけ見られなかったから、今年は綾と一緒にナイアガラが見たい〟って」

 泣くかな、と思った綾乃さんは、しかし泣かずに口を覆った。呆然とした表情だ。

「悟、少し前から、『ナイアガラ花火の幽霊』っていう脚本書いてて」

「ナイアガラ花火の……?」

「ナイアガラ花火の幽霊。死んだ恋人が、ナイアガラ花火越しに会いに来る話なんだ」

 もしかしたら、会いに来るつもりなのかな。

 祈るように呟いた綾乃さんから、枠組みだけのナイアガラに視線を移す。ドォン、と一際大きな花火が上がって、観客が一層沸いた。拍手が起こり、少しして静まる。次はナイアガラだ、と人々の間に興奮した囁きが交わされている。

 来てくれるといいよな、と声をかけようとして、真剣にナイアガラが始まるであろう方を見つめている彼女の横顔と合い、俺は無言で同じ方向を向いた。


「綾」

 ナイアガラが点火した瞬間、悟の声がした。思わず腰を浮かせ、花火を透かして見つめる。

「ちょっと、綾?」

 肩を叩かれて振り返ると、諒さんが首を傾げていた。

「……諒さん?」

「僕だよ、悟。びっくりしたよ、兄貴がイタコ体質だったなんて」

「はぁ? わざわざ会いに来て、最初のセリフがそれ?」

 泣き笑いで言うと、悟は眉を八の字にして頭を掻いた。

「本当はナイアガラの向こうから、ドラマチックに登場しようと思ったんだけどなぁ」

 馬鹿じゃないの、と言おうとして、涙で言葉が詰まった。せめて無言で悟を睨み付ける。悟は苦笑いして私の頭を撫でた。

「泣かせないつもりだったんだけどなぁ。最期まで馬鹿だねとか言って、僕のことなんて忘れさせるつもりだったのに」

「何言ってるのよ」

「死んじゃったからもう、聞き分け良くなろうと思ってさ。ねぇ、兄貴と付き合ってやってよ。兄貴も綾のこと――」

「ふざけないで!」

 思わず手が出てしまった。

 周りの人たちが急に気配を潜め、こっそりと窺ってくる様子が、空気でわかった。

 叩かれた頬を押さえて唖然としていた悟は、やがて子供のように顔を歪めた。

「もう僕には時間ないんだよ!? 何で――」

「だからって物分かりよくなられたら私が寂しいの! それくらいわかれバカ!」

「わかんないよ! わかるわけないだろ!? もう知らないよ、僕がいないからって他の男と付き合ったりしたら許さないから!」

「当たり前でしょ!?」

 散々に怒鳴り合って、気付くと周囲は皆私たちに注目していた。気まずくなって座り直す。

「あー……悟、ごめんね」

「僕もごめん……」

 俯いた悟の輪郭がぼやけて見えた。予感がして頬に手を触れると、悟は悲しそうに笑い、私の髪を玩んだ。

「もうあと二十秒くらいで、お別れだよ」

「え」

 ナイアガラに目をやる。三分の一くらいはもう、光が消えていた。まだ、何も言えてない。何も、伝えられていないのに。

悟は言葉を紡ごうとした私の唇を人差し指で押さえると、早口で囁いた。

「だから聞いて。僕、やっぱり綾には幸せになってほしいんだよね。だから気兼ねとかしないで。何年先かわからないけど、少しでも先のことだといいなとか思っちゃうけど、いつか好きな人と幸せになって。いい? 絶対だからね、約束して」

 何も言えず、こくこくと頷く。膝に冷たい雫が散った。

「悟、」

 言おうとした唇が塞がれた。そっと触れるだけのソフトキス。悟はすぐに離れると、幸せそうに笑った。

「さよなら。……大好きだったよ」


 大好き〝だった〟よ。


 待って、と呟いたつもりの声は、言葉にならなかった。ゆっくりと観客の間に拍手が広がり、花火が終わったことがわかる。

 悟だった瞳にだんだんと戸惑いが広がってゆき、諒さんが戻って来る。まったく同じ顔……なのに、悟ではなくなってゆく。

 私はぼんやりと、消えたナイアガラに視線を向けた。



 ドォン、と重い音がして、私はベランダに出た。ビルの隙間から、大きな花火が見え隠れする。

 あれは冠菊、それからあっちは千輪か。菊と牡丹の見分けは、悟のおかげで得意になった。今上がったのも冠菊……じゃない、金波牡丹だ。

 そんなことをぼんやり考えていて、心に小さな棘が刺さったような気がした。そういえば最近はほとんど、悟のことを思い出しもしなかった。

 一番の思い出であるナイアガラは、ここからは見えない。色とりどりの牡丹が空に咲き乱れ、花火に特有の切なさを押し流していった。

 最後のスターマインまで見終えて部屋に戻ると、ふと思いついて携帯を手にとった。電話帳の一番上に登録してある番号を発信する。コールは数回で繋がり、私は気が変わらないうちにと急いで言った。

「もしもし、諒? 私。披露宴のことなんだけど、悟の席も作りたいな」


今回の作品は、昔に書いた作品を手直ししたものとなっております。

章のタイトルですが、聞いたことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

それもまたイメージの一助になれば幸いです。

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