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竹の鳴る小径

作者: 岸田龍庵

京都嵯峨野の有名な観光地、竹林の道に足を運んだエピソードを元に書きました。

また私の作品「奥の院にて」の対になっている作品です。

竹林の道は観光地としてはとてもシンプルでわかりやすいですね。


こちらはhttp://dragonhouse.lar.jp/ryoankishida/Top.htmlにも掲載しています

「写真撮ってくれませんか?」


 男一人で歩いていると大抵はこういうことになる。特に観光地ではそうだ。

 別に「写真を撮ってください」と頼んできた人たちに何も文句はない。

 ただ、一人でこの場所を歩いている自分に対して文句があった。だからという訳じゃないけど、ちょっとした意地悪をしてしまった。

 ピントもポジションもずらして適当に撮ってあげたカメラを女同士の観光客に渡すと、彼女たちとは反対方向に歩いた。

 楽しい観光スナップを撮ってあげるのには虫の居所が悪すぎた。今の僕には。



「京都の夏は暑い」とは京都の夏を知らなくても知っている言葉ではないだろうか。実際に足を運んでみるとその言葉があながち嘘でも誇張でもないことがわかる。

 暑さの質が違う。南国のカラリとした暑さでもないし、都市部のこもったような熱気でもない京都の夏には京都の夏の暑さがある。

 その京都の夏にあって、この場所はいつでも涼やかだ。それは冬に足を運んでも一緒で、寒いのではなく涼やかだ。

 と、ちょっと前までは思っていた。一人で、ここに足を踏み入れるまでは。

 観光地で有名な京都嵯峨野。

 桂川にかかるこれまた有名な渡月橋を阪急嵐山駅から渡った場所に、この場所はある。

 天井一面に描かれた龍の絵で有名な天竜寺の裏手。

 そこに竹の小径がある。


 車がやっと一台通れるくらいの竹に囲まれた小径。

 この場所を訪れると、この「竹に囲まれた小径」という言い方が間違っていることに気づかされる。

 竹に囲まれている小径じゃない。竹の林の中に小径がある。別に言い回しのことだから、どっちでも良いといえばそれまでなんだけど。

 この小径を一人で歩くのは久しぶりだ。いつも「連れ」がいた。今日はいない。平日の昼間でも、この竹の小径に人の姿がなくなることはない。

 平日の真っ昼間に観光地を歩いていられる僕もその一人なのだけれども。

 で、一人で歩いていると写真を撮らされる。

 ただ、

 思うのは、両側を竹の壁に囲まれた、この場所に来たのなら写真を残したいと思って当然だと。

 どこをバックに写真を撮っても絵になる場所。それがこの竹の小径のだと思う。一人で歩いていると景色しか見る物がないだけ、よけいにこの場所の良さが見えてくる。

 道がきちんと舗装されているのがどうかと思うけど、それを含めても、この場所ほど写真映えの良い観光地もないだろう。  



 昔は僕達も写真を撮った。

 それぞれの写真、一緒の写真。

 どの写真もバックにはいつも竹の小径があって、僕達は二人ともこの場所が好きだった。でも、今は僕しかいない。

 風に揺られて竹が鳴った。カシャカシャ、カシャカシャと。竹の合唱。一人で聞く竹の鳴る音は少し騒がしく聞こえた。

 気のせいだろうか。

 今日はとても暑い。小径の中は日陰なだけまだましなのだけれども、それでも暑い。


 おかしい。


 ここはいつでも涼しいはずなのに、今日は暑くてたまらない。汗が止まらない。他の観光客は涼しげな顔をしているのに。首筋を伝ってゆく汗が気持ち悪くてたまらない。風に鳴っている竹の合唱がひどく耳障りに聞こえてならない。 

 自由だった。

 会社を辞めてからというもの自由が周りにあった。いや自由はありすぎた。時間に対しての完全に感覚が麻痺していた。昼も夜も時間はあるのにすることが見つけられなかった。


 わからない。


 会社を辞めたことが正しかったのかもわからないし、自由がありすぎて自分が何をしたらよいのかわからない。会社にいる時は会社に行くことが当たり前で、働くことが正しかった。

 今までの会社では自由がなくて、自由になりたくて外の世界に飛び出したはずだった。欲しくて欲しくて仕方がなかった自由が、今は簡単に手に入るようになり、自由に振り回されている。

 そんな日がもう一ヶ月も続いている。

 いい加減、家にいるのも飽きたし、近所をブラブラするのもバツが悪い。かといって時間はそう簡単に経ってはくれない。当たり前だけど、時間は忙しいときには足りなくて足りなくてイライラするが、暇なときに時間ほど邪魔なものはない。

 だから一人で竹の小径を歩いた。

 いや、歩いていたというのだろうか。



 何も考えずに嵐山で降りていて、渡月橋を越え、天竜寺の裏手の竹の小径を歩いていた。

 しかし、どうだろう。

 竹の小径がなんと殺風景に見えることか。

 なんのことはない。壁の代わりに竹が生えているだけだ。観光客しかいないし、道が狭いのに車はバンバン走って来るし、声を掛けられるのは決まって「写真、撮ってください」だ。おまけに暑い。涼しさなんてちっとも感じない。

 もし二人で来ていたのならば、僕たちも「写真撮ってもらえますか」と誰かに頼めたはず。



 彼女にも連絡を取っていない。



 毎年、この夏の暑い時期に彼女は東京からやってくる。毎年恒例の出張だった。しかし、会社を辞めてしまった今ではなんとなく逢うことがおかしいように思えた。今年は出張に来ているのかもわからない。

 二人で来たときはお互い時間がなかった。

 取れない時間をお互いに絞り出して場所を吟味して歩いた。だから全てが貴重だった。竹の小径も竹が鳴る音も木漏れ陽も「写真撮ってください」だって立派なイベントだった。


 ところがどうだ。時間がたっぷりあって、何も考えずにやってくると、単なる観光地でしかない。今まで楽しく見えた物が全然楽しくないし、貴重にも思えない。ただの道だ。ただの竹藪だ。

 唐突に竹の小径は終わった。二人で歩いている時に比べると随分とあっさり終わった。


「こんなに短かったか?」

 竹の小径がどれくらいの長さだったのか、それも思い出せない。

 今の記憶は二人で歩いた時の、だらだらとした、歩みの遅い、竹の匂いを胸一杯に吸い込みながら歩いた時の記憶しかない。

 二人で歩いた記憶を、一人で振り返ろうとしても無理だった。竹の小径は僕の背中の方でカシャカシャと鳴っていた。

 しかし、

 正直、竹の小径が終わってホッとしている。

 あれ以上先があったら二人で来た時の鮮やかな記憶がつまらない物に書き換えられてしまう。

 記憶は書き換えるものじゃない。残しておくものなのだろう。



 竹の小径の先は嵯峨野だ。嵯峨野の町並みが、山の景色と同化している。

 今までは二人で冷やかし半分で入った店が、ただ僕の目の前を通り過ぎて行く。店に入ろうというような気持ちすら起きない。

 どうやら二人でなら簡単に入れる店も、一人だと敷居が高いようだ。

 落柿庵の先のトロッコ電車乗り場の売店で旅は終わる。天竜寺裏手の竹の小径が旅の始まりで売店がゴールだ。

 あっさりとしたものだった。

 この売店があるトロッコ電車というものには一回も乗ったことがない。観光客向けの電車なのだろう、なにやら時間が決められていているので、いつも乗ったことがない。待つ時間がないというのもあった。



 二人でいる時はあちこちを回って二人の時間を一分でも多く作りたかった。

 でも今は時間が売るほどある。トロッコ電車を待っても良いし、売れる物ならば時間を誰かに買って欲しいくらいだ。

 でも、一人でトロッコ電車というものに乗って何かあるのだろうか。

 売店の下を、ごく普通の電車が轟音を立てて通っていく。JRだろうか。この電車も乗ったことがない。

 旅の終点ではいつもソフトクリームが待っている。この売店のベンチにかけてソフトクリームを食べて、二人でひんやりするのが旅の終わりのいつものイベントだった。

 でも今日は一人だ。

 二百円はちょっと高いような気もするが、ソフトクリームは一人でも簡単に買えた。

 あっさりとした一人旅だったが、最後にソフトクリームが食べたことだけが二人の時と一緒だった。

 でもソフトクリームは冷たいだけで何の味もしなかった。


 一人とは何とつまらないのだろう。会社を辞めたから、時間が有り余っているから、他にすることがないから、そんな単純な理由で来るような場所ではなかった。

 屋根の下から日なたを見るとギラギラした太陽の光がアスファルトを照らしていた。

 観光客が入ってきた。

 男と女。二人は売店でソフトクリームを買うと、僕の後ろのベンチに座った。

「ふー疲れた」

「でも、いい場所だったよなあ」

 一人だと聞きたくもない会話まで良く聞こえてしまう。

 二人だったら、おしゃべりに集中して余計な雑音は聞こえないはず。二人でいる時はいつも彼女の声しか聞いていなかった。

 あとは二人で耳を澄ませた竹の鳴る音だけ。

「カメラもう撮り切っちゃった」

「すごいね竹の中に道があるなんて」

 竹の小径で写真を撮りまくったようだ。

 使い捨てカメラのフィルムを巻くジージーという音が聞こえる。

 ふと、既視感が襲ってきた。そういえば後ろに座っているカップルと同じ様な会話をしたような。


 あの小径でたくさん写真を撮って、あの小径で沢山写真を撮ってもらった。

 あの夏の暑かった日。

 急に寒くなってきた。夏のギラギラした暑さなんかちっとも感じなくなってしまった。


 寒い。ひとりぼっちの寒さ。ソフトクリームを食べたからではない寒さ。

 なんで、一人で来てしまったのだろう。なんで彼女を誘わなかったのだろう。なんで彼女に電話しないのだろう。

 状況が変わったからか?去年と今とは身分が違うからか?

 たったそれだけの理由だけで彼女に連絡を取らなくなってしまうのか?

 状況は変わっても、いつか来た時みたいに二人で歩いて、たくさん写真を撮って、沢山写真を撮られてみればいいじゃないか。

 お前が気に病んでいるのは、一人でしか竹の小径を歩けなくなること、ではなく、もう二人で竹の小径を歩くことができないということじゃないのか?

 一人でいても何も変わらないし、何がわかった訳でもない。でも、これだけは言える。

 やっぱり二人の方が楽しい。ソフトクリームも冷たくて旨いだろうし、竹の鳴る音も気持ちの良いものに聞こえるだろう。

 今度は二人で歩こう、竹の小径を。今度は二人で食べよう、ソフトクリームを。



 そう、二人で歩けたらいい、二人で食べられたらいい、二人で。

 夏が終わる前に。



 急に、さっきの写真を撮った女同士のことが気になった。マズイことしてしまった。そんな感じだった。ひねくれないでまともな写真を撮ってあげれば良かった。

 今更そんな後悔をしても遅いのだけれども。

 急いでソフトクリームを食べて、歩いてきた道を戻った。まだ、彼女たちはこの近くにいるだろうか?

 反対側へ歩いて行ったから、まだ渡月橋の近くの店にいるかも知れない。

 とにかく走った。きちんとした写真を撮ってあげよう。良くわからないけど、そう思った。

 多分、多分、まだ間に合うはずだ。

読了ありがとうございました。

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