すべて彼の想定の範囲内
景色が変わった。
そこはどこまでも続く白い空間だった。空も、大地も、地平線の先も、どこまでも平坦な白が続く。
アルファとデルタ、そしてネルソンが対峙する。
ネルソンの姿がブレて、2人に増える。
デルタが身を屈めたまま、そろりそろりと間合いを詰めていく。
アルファは腕を組み武器すら構えていなかった。ただ、どこか観察するように2人のネルソンを見据えていた。
「……シッ!」
息を吐く音と共に、デルタが仕掛けた。
低く身を屈めたその姿は、獣が地を駆るようだ。
デルタは駆る勢いをそのままに、漆黒の刀を薙ぎ払う。
それは人の身長より遥かに長い刀だった。そこには技も心もなく、純粋な暴力がある。
凄まじい衝撃が大気を揺らした。
全てを薙ぎ払う暴力がネルソンを弾き、彼は吹き飛んだ。
かろうじて防いだようだったが、その顔には隠し切れない驚愕がある。
「化物かッ……!」
デルタが嗤った。
追撃に向かうデルタを止めたのは、2人目のネルソンだった。駆けるデルタの真横から大剣が襲う。
しかし。
「まず1人」
「ぁッ……?」
大剣を振りかぶるネルソンの顔に、漆黒の刀が生えた。
いつの間にか背後にいたアルファが、ネルソンの顔に刀を突き刺したのだ。そのままアルファはネルソンの首を刈った。
音もなく、殺気もなく、ただ淡々と、ネルソンの頭が飛んだ。
血が噴き出し、白い大地に鮮やかな染みを作る。
しかし次の瞬間、その死体は鏡が割れるように粉々に砕かれ、どこかに消えていった。
「感触は人だった。動きも、匂いも、人ね。これも聖域の防衛機能かしら」
血糊も消えた刀を眺めて、アルファが呟いた。
「いかにも」
ネルソンは動揺を隠して構える。そしてその姿が2人になり、さらに4人に増えた。
「少し油断していたようだ。今度は4人でお相手しよう」
1人を残し、3人のネルソンが前に出る。
その中にデルタが突っ込んだ。
数の不利も包囲されるリスクも関係ない。ただ獲物を目掛け猛進した。
「所詮獣か……」
ネルソンが嗤った。
デルタも嗤った。
デルタは正面のネルソンをその大剣ごと叩き割った。
しかしデルタを囲むように動いた2人がデルタを襲う。
横薙ぎに振られた大剣は、前後から鋏のように襲い来る。
退路を断たれたデルタは、前方から迫る大剣を刀で弾き、首だけで後方に振り返った。
そして。
デルタは背後から来た大剣を咥えた。
デルタの犬歯が突き刺さり、鈍い音を立てて大剣が噛み砕かれる。
「は……?」
ネルソンは間抜けな声を上げた。
ネルソンが目を擦っている間に、残った2人のネルソンがアルファに殺された。
「馬鹿な……」
アルファとデルタの魔力はその多くが制限されているはずだ。聖域の力によって制御も安定しないはずなのだ。まともに戦えるはずがない。
しかし、彼女たちはこの制限された状況で、複数のネルソンを倒した。
それは常識では考えられないことだった。
「貴様らは自力で覚醒したのか……? その手法は既に失われたはず……」
ネルソンの呟きに、アルファは微笑みで答えた。
デルタはスライムボディスーツの制御に手間取っているようだ。スライムを手づかみで胸と下半身に貼り付けて、簡易のビキニアーマーを作っていた。
顔と身体を最低限隠せて、デルタは満足そうに頷いている。
「ま、まぁ、この程度は想定の範囲内だ……」
ちょっと震える声でネルソンは言った。
「見せてやろう、これが全力」
その言葉と同時に、ネルソンの姿が増えた。
その数はこれまでの比ではない。10人を優に超え、100人に迫るほどだ。
「獲物がいっぱいぃ……」
デルタはとても嬉しそうに嗤って、やはりその中に突っ込んだ。
「数的不利も理解できんのか、獣め!」
しかしデルタとネルソンが衝突すると、ネルソンの顔が引きつった。
ネルソンが数体、冗談のように宙に舞った。
「アアアアアアアァァァァァァァァァァッ!!」
デルタの咆哮が、まるで質の悪い嗤い声のように響く。
虐殺が始まった。
デルタの漆黒の刀が扇風機みたいに回るのを、アレクシアは少し離れた場所から呆然と眺めていた。
その太刀筋はシャドウのものとは違う、アルファやイプシロンとも違った。
型が無く、技も無く、ただ純粋な暴力がある。それはアレクシアの考える強さとは別の方を向いていた。
あなたそれでいいの?
とアレクシアは聞きたくなった。
だが強いのは事実だ。それも、途方もなく。
そこにアルファも加わって、ネルソンは瞬く間に駆逐されていく。
「なぜだ、なぜこうも簡単に……」
「あなたはきっと研究者だったのね」
どこか憐れむように、アルファは言った。
「コピーがいくら増えても、頭脳は1つ。人間は複数の身体を制御できるほど優れた頭脳はもっていない。それが100体にもなれば、ただの案山子ね」
そしてデルタが最後のコピーを倒し、尻尾を振りながら歩いていく。
「あと一匹ぃ……」
その顔は凶悪に嗤っていた。まるで血に飢えた獣だ。
「ひっ……!」
ネルソンが後退る。
「無限にコピーを生み出せるというわけでもなさそうね」
その様子を見てアルファが淡々と述べる。
事実、ネルソンにコピーを生み出す力はもうなかった。
だから……。
彼は聖域を守る最後の番人を呼び出した。
「来い、早く来いぃ……!」
その情けない声に応えて、空間が裂けた。
そこから光が零れ出し、それは一人の女性の姿を形作る。そのアルファにそっくりの女性は……。
「オリヴィエ……」
アレクシアが呟いた。
それは、英雄オリヴィエだった。しかしその瞳に力がない。ガラス玉のような空虚な瞳が、どこか悲しかった。
彼女はネルソンを護るかのように、デルタの前に立ち塞がった。
デルタは嗤った。
しかし、珍しくすぐに仕掛けない。間合いも詰めない。
ただ舐めるように、血走った眼で獲物を観察していた。
「英雄オリヴィエ……やはりあなたは……」
アルファが唇を噛んだ。
デルタは唇を舐めて、涎を拭った。
その時。
「アルファ様、調査が終わりました!」
豊満な肉体の黒ずくめの女が現れた。しかし彼女はなぜかずいぶん遠くにいる。
「イプシロン……。なら下見は終わりね」
アルファは踵を返し引き返す。
「に、逃げるのか……!」
ほっとした声でネルソンが言う。
「小物の命に興味はないわ。我らの目的は力の源を断つこと。聖域の防衛がどんなものかもわかった。次は、無理やりこじ開けに来るわ」
「に、逃がすと思うか」
「あら、追ってくれるの?」
「ひっ!」
ネルソンはオリヴィエの後ろに隠れた。
「デルタ、行くわよ……デルタッ!」
アルファがデルタの首根っこを掴むと、デルタはそれを振り払い牙を剥く。
「ガァッ!!」
「ぁ?」
そして、ビクッと我に返った。
「がぅ、ごめんなさいです……」
「行くわよ」
耳を伏せ尻尾を丸めてデルタはアルファについていく。
「アルファ様早く! 出口はこちらです! 早く、早く!」
早くを連呼し手を振るイプシロンだった。二つのスライムがボインボインと揺れる。
イプシロンが指さす光の裂け目に全員入って、聖域に平穏が訪れた。
ネルソンは座り込み、ほっと溜息を吐く。
「ま、まぁいい、アルファとやらの顔は覚えた。奴の血を得れば完成に近づくだろう。想定の範囲内だ」
ぶつぶつと呟く。
「ま、まずは上に報告だ。聖域に誘い出し、罠にはめて、アルファの正体を暴いた手柄にしよう」
そして保身に走る。
「そして……ん?」
その時、ネルソンは聖域の違和感に気づいた。
「まさか……聖域の中心にネズミが入り込んだか?」
ネルソンは辺りを見回し悪い笑みを浮かべた。
「ふん、憂さ晴らしに嬲ってやろう。オリヴィエ、ついてこい」
そして、ネルソンとオリヴィエの姿も消えた。