深淵なる計画の一端
「やあ、イプシロン。久しぶりだね」
そう言って振り返った主を、イプシロンは惚けた顔で見上げた。
「治すよ」
主の温かな魔力がイプシロンの胸の傷を癒していく。
「ありがとうございます……」
傷口が塞がり、痛みも引いていく。無駄が一切ない、いつ見ても感動するほどの治癒である。
消耗した体力と血の回復には時間が必要だが、完治した胸を見下ろしてイプシロンはほっと息を吐いた。
その時、イプシロンは気づいてしまった。
「――あ」
胸スライムのボリュームが減少している。
イプシロンが重傷を負った際に斬り落とされて、補充できずにそのままだったのだ。
治療した主は当然気づいているはず。
イプシロンの頬に冷や汗が流れた。
「あ、う……あ、えっと」
どうしよう。
真っ白になった頭で、イプシロンは考えた。
「あ、なるほど。潜入捜査中だったわけだね」
イプシロンを見下ろして主が言った。
その手があった。
「そ、そうそうそうです! 潜入捜査で変装を!」
「そうそう、髪も短くなってる」
「あっ」
そうだ、モードレッドのおかげで都合よくヘアカットされているのだ。
「ですです! これも変装で!」
「いやー、やっぱりイプシロンは凄いや」
「いえいえいえ、それほどでも!!」
た、助かった!
しかも主に感心されてしまった!
災い転じて福となすとはこのことである。
イプシロンはいつもの自信満々の笑顔で立ち上がった。
「ありがとうございますシャドウ様」
そして優雅に一礼した。
「私の危機を察知し、助けに来て下さったのですね。深い洞察力と鮮やかなお手並みに、感激しました」
「ん? うん、そうそう。イプシロンも大変そうだね」
「はい、厳しい任務でした。この命があるのもシャドウ様のおかげです。私は本隊に戻りアルファ様に報告を――」
「――待った」
「え?」
「アルファに報告するの?」
「はい、しますが……」
「うん、報告は無しだ。ほとぼりが冷めるまで……そうだな。イプシロンはしばらく僕と一緒に行動してもらう」
「シ、シシシシ、シャドウ様と一緒ですか!?」
イプシロンの顔が真っ赤に染まった。
イプシロンの危機を察知し助けに来てくれた主に、まさかのパートナーとして指定されたのだ。
主は単独行動を好み、最近はアルファですら共に戦うことは少ないのだ。
あまりの感激に、イプシロンの心が震えた。
「ぜ、ぜぜぜ、ぜひご一緒させてください! 命を懸けてがんばります!!」
「よろしくね」
「そ、それで、どう動けばよろしいでしょうか」
「高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応するのだ」
「はい!」
つまり、今はまだ説明できないということだ。
主は常に物事のはるか先を見通して綿密な計画を練っている。その情報量は莫大で、常人には決して理解できない領域で思考しているのだ。
報告を禁じたのも、イプシロンをパートナーに指定したのも、そして今この場にいるのも、その全てに深い理由があっての事である。
イプシロンは尊敬の念を込めて主を見つめた。
「あの、シャドウ様。先ほど外で膨大な魔力を観測しましたが、何かご存知でしょうか?」
おそらく、主の計画に大きく関係していると予想して、イプシロンは訊ねた。
主はしばらく沈黙して、まるで真相を言うべきか考えているかのようにイプシロンを見つめた。
「そうだな……話そう」
イプシロンはゴクリと喉を鳴らした。
計画の一端に触れるかもしれない。先ほどの質問の意図を、主に評価されたということだ。
「あの魔力は僕が放った」
「やはりシャドウ様が……しかし、なぜ」
「『黒き薔薇』を模倣した」
「――なッ!?」
『黒き薔薇』は、この内乱の核だ。
イプシロンは瞬時に理解した。
主の凄まじい計画の一端に、確かに触れたのだ。
未だ計画の全貌はつかめない。
しかし、もしイプシロンの予想が間違っていなかったとしたら――主はいったいどれほど先を見通しているのだ。
イプシロンは心が痺れるような興奮に襲われた。
「つまり、そういうことだ」
「全力で、サポートいたします」
イプシロンは震える手を握りしめ、その透き通った泉のような瞳に熱い想いを込めていた。
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