全て彼の読み通り
ジョン・スミスの正体が敬愛する主であった事実は、七陰の中だけの機密となった。
この事実が広まればシャドウガーデンの士気が落ちると判断したのだ。
そして、おそらくその判断は正しかったと、ガンマは物憂げに瞳を伏せるアルファの姿を見ながら思った。
暖炉の火がパチパチと燃えていた。
「きっと、何か理由があるはずなのよ……」
「私もそう思います」
「彼は私たちを見捨ててなんかいない……」
「もちろんです」
「そうよね……?」
その会話はもう何度も繰り返されたものだった。
しかし何度繰り返しても不安は晴れず、アルファはどんどん悲痛な表情になっていく。
その想いはガンマとて同じだ。
しかしいつも毅然としたアルファがここまで揺らいでいる様子は、逆にガンマを落ち着かせることとなった。
アルファにはもう正常な判断能力は残されていない。
現在シャドウガーデンを統率できるのはガンマで、だからこそガンマが揺らぐわけにはいかなかった。
ガンマには途方もない重圧がのしかかり、ほぼ不眠不休で働いていた。
化粧では隠し切れない目の下の隈とこけた頬が、ガンマの限界も近いことを物語っている。
ガンマはしばらくアルファの話を聞いて、彼女を落ち着かせてから話を切り出した。
「大商会連合の信用崩壊が始まりました。今朝から多数の民衆が押しかけて大商会連合で紙幣の換金を済ませたようです。おそらく、明日にはさらに多くの民衆が押し掛けるでしょう……」
「そう……」
「大商会連合ほどではありませんが、ミツゴシ商会にも換金を求める民衆が訪れています。おそらく明日以降も増え続け、大商会連合が破綻すると同時に一気に押し寄せるでしょう」
「そう……」
アルファは虚ろな表情でガンマの報告を聞いていた。そして、一言。
「耐えられそう?」
と訊ねた。
ガンマはアルファの表情を見て一瞬言葉に詰まってから、包み隠さず打ち明けた。
「ミツゴシ商会として、ミツゴシ銀行として、全力で金貨を集めてきました。しかし……王都で流通するミツゴシ銀行の紙幣全ての交換を求められたとしたら……足りません」
それが現実だった。
途方もない量の金貨を集めても、信用創造で増やした量には届かない。だが全員が換金を求めるとは限らない。
耐えられるかどうかは五分五分だ……。
「そう……」
アルファは微笑んだ。
その泣きそうな微笑みを見て、ガンマの瞳にも涙がにじんだ。
「きっと、大丈夫です。山のような金貨を見せれば、きっと……」
「もういいの」
大商会連合の崩壊を目にした民衆がそれで止まる保証はどこにもない。
そんなことはガンマも、そしてアルファも分かりきっているのだ。
「もういいのよ……」
「アルファ様……」
アルファは泣きそうな微笑みのままガンマを見つめた。
「彼がそう望んだのよ。私たちを切り捨てることを、彼が望んだの……」
「そ……そんなことはありませんッ! シャドウ様は私たちを見捨ててなんか――ッ!」
「私たちには彼の期待に応えるだけの力がなかった……それがこの結果よ」
「そんなことは……そんなことは……ッ」
無い……とは言えなかった。
主の戦闘力、創造力、そして智謀、なに一つとっても彼女たちは彼を上回れなかった。最高の環境と、最高の知識を与えられて尚、主の領域に辿り着けないでいた。
主は、彼女たちの能力を、見限ったのだ。
「そん……な……」
ガンマの膝から力が抜けた。
彼女はふらふらとソファーに崩れ落ちる。
「彼がそれを望むなら、私は彼の望みに応えましょう。だって、約束したもの。彼が死ねと言えば、私は死ぬって……」
「アルファ様……」
アルファの顔は悲痛だった。しかしそこには今までにない決意があった。
「最期の仕事を果たしましょう」
そして彼女は立ち上がる。
その時だった。
「アルファ様ッ!」
ノックもせずに、ベータが部屋に飛び込んできた。彼女は手に一枚の書類を持っている。
「研究室のイータに解読させていたシャドウ様の暗号が――解けました!」
イータは研究を専門とする七番目の七陰だ。そういえばベータは主から暗号を受け取り、イータに解読を任せたと言っていた。
「これです!」
ベータの差し出した書類をアルファが受け取る。
その文面を読み進めていくにつれて、アルファの顔に喜色が表れていく。
「アルファ様……?」
怪訝なガンマの声に、アルファはくしゃくしゃの笑みで応じた。そこにはもう悲痛な面持ちはない。
彼女の頬に流れる一筋の涙は、喜びの涙。
「私たちは、見捨てられてなんかいなかった……」
そう言って差し出された書類をガンマは受け取り読み進める。
「こ、これは――ッ!」
そこにはイータの筆跡で驚くべき事実が書かれていた。
『悪いね、僕は裏切ることにするよ。
雪狐商会のユキメと一緒に偽札を造って金貨を集めることにしたんだ。
覚えているかい?
君たちと一緒に姉さんを救出したあの地下施設に偽札工場を作って、そこに金貨を集めているのさ。
もうじき金庫をいっぱいにしても収まりきらない量の金貨が手に入るんだ。
でもね、これはただの裏切りじゃない。君たちを救うためでもあるんだよ。
なぜだか分かるかい?』
気が付けば、ガンマの頬にも涙が流れていた。
アルファも、ガンマも、そしてベータも。
みんなでくしゃくしゃに笑いながら泣いていた。
「何もかも、全てシャドウ様が用意してくださいましたね」
ベータが尊敬に満ちた声で言った。
「これから裏切る人間が、わざわざ裏切るって書くはずないじゃない」
アルファが少し呆れた声で。
「そんなバカいませんよね。やはりシャドウ様はお優しい」
ガンマが少し疲れた声で。
「ベータの言う通り、彼が全てを用意してくれたわ。シャドウガーデンとミツゴシ商会との関係が漏れるわけにはいかなかった我々の代わりに、彼が裏で動いてくれた」
「はい。シャドウ様は偽札の換金により我らが必要としている大量の金貨を用意して下さったのです」
「後は我々が金貨を回収すればいい。ご丁寧にもそこは我々にとってなじみのある場所で、そして金庫の位置まで記されています」
「この苦難を耐えるしかできなかった私たちなのに、彼は容易く乗り越えて莫大な利益をシャドウガーデンにもたらした。この金貨があればミツゴシ商会の信用は崩壊しない。それどころかさらに躍進する」
誰からともなく深いため息が漏れた。
「まったく、ここに書かれている通り、まさに私たちを救うための裏切りね……」
「敵を騙すにはまず味方から……勉強になります」
「最初から、すべてを読み通していたのですね。さすがシャドウ様です……でも、だとしたらデルタは?」
不安そうなガンマだったが、しかしアルファの瞳はもう揺らがない。
「彼のことだからきっと心配はいらないわ」
その時、外で物音がした。
そしてゆっくりと窓が開く。そこに、どこかばつが悪そうなデルタの姿があった。
「――ほらね」
「デルタッ!? よかった……」
ガンマの顔に喜びが満ちる。
「うぅ……アルファ様……デルタは秘密のシークレット任務で……その……」
デルタはアルファの反応を窺いながらビクビクしていた。
「わかっているわ。彼に何か任されたのでしょう?」
デルタはパッと顔を明るくしてコクコク頷く。
「デルタは黒いジャガを……! ぁぅ、秘密のシークレット任務だから言えない……」
「デルタ、言葉は正しく使いなさい。秘密のシークレット任務じゃ意味が重複しているわ」
「で、でもボスが……!」
「彼がそんなこと言うはずないじゃない。でも、無事でよかった……」
アルファは何か言いたそうなデルタの頭を撫でて抱きしめる。
ガンマも、そしてベータもデルタを抱きしめて、そして彼女たちは涙を拭いて微笑んだ。
「さぁ、彼が用意した金貨を回収しましょう」
「はい!」
「ええ!」
「うぅ~~」
その夜、シャドウガーデンが動いた。