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「……腹減ったな…………」
見通しの悪い森の中をよたよたと歩きながら、俺は力なく呟いた。
魔王との攻防から三日。空腹は限界に達していた。身一つで命からがら逃げ出した俺は、持ち物を全て失っていたのだ。
初めの一日は全力疾走だった。ただただ恐怖に突き動かされて、少しでも魔女の居城から離れるために、俺はひたすら走り続けた。折られた剣や、半壊して最早重りにしかならない鎧はこの時全て投げ捨てた。
二日目、冷静さを取り戻した俺は、これからどうするかを必死で考えた。水が無い、食料も無い、武器も無い。防具もない。
闇雲に走り続けたので現在位置すら把握していなかった。ただ幸いなことに、森の木々の隙間から、彼方にとてつもなく高い岩山が見えた。あれは来るときにも通った天衝く岩壁に違いない……と、思う。麓にあるダンジョンとは名ばかりのトンネルを抜ければ人間達の領土だ。
いったん戻るしか無い。この際恥とかプライドとかは捨て置いて、どこか安心出来るところで休息をとって、補給を得なければとても戦えない。そうだ、逃げるわけじゃ無い。一時退くだけだ。戦略的撤退だ。俺はまだ完全には負けてねえ。
ただ、ちょっと懸念がある。俺は今無一文だ。金や食料、薬草その他はほとんど仲間が持っていた。俺が持ってたわずかな分は、戦闘や逃走の際に全てなくなってしまったのだ。そんな状態で人間の街に戻ったところで、効率よく補給を受けられるだろうか。
そこまで考え首を振った。いやいや、俺は勇者だ。休ませてくれと言えば、誰もが進んで協力するだろう。当たり前だ。俺は人間の為に戦ってやってるんだから。せめてサポートくらい全力でやりやがれ。
とりあえずの指針を決めた俺は、彼方に見える天衝く岩壁に向かって歩き出した。道中幾度も魔物に襲われ、武器の無い俺は魔法で対抗した。しかし、それが疲労をさらに加速させることになった。正確なところは知らないが、魔力ってのはようは精神力だと俺は解釈している。ただでさえ疲弊しているときに、それを削る行為は緩慢な自殺と同義だった。
夜もおちおち休めない。何度も魔物の夜襲を受け、夜が明けたときにはふらふらだった。空腹もそうだが、のどの渇きが酷い。ひりつき、痛みを発していた。飲み込む唾さえ湧いてこない。
こうして迎えた三日目。昨日一日歩き通しだったってのに、未だ天衝く岩壁にはたどり着かない。それどころか昨日からまるで大きさが変わっていないように見える。――いや、大きすぎて遠近感が麻痺してるだけだ。必死に自分に言い聞かせた。そうしないと、心が折れてしまいそうだったから。
拾った枝を杖代わりによろよろと進んでいると、目の前に濁った水を湛えた沼が現れた。躊躇いは無かった。杖を放り出し、地面にに這いつくばって水を飲む。水は苦く、腐ったような臭いがして泥の味がしたが、今の俺にとっては甘露に等しかった。
心行くまで水を飲み、大きく息をつく。これで飢えと渇きを誤魔化すことが出来た。放り出した杖を拾い、俺は再び歩き始めたのだった。
それからさらに五日。未だに天衝く岩壁にはたどり着けない。あれ以来、俺は何も口に出来ていなかった。限界だ。肉体的にも、精神的にも。
くそ……俺は、こんなところで死ぬのかよ。霞む目をこすり、歯を食いしばる。一歩一歩を踏みしめるようにして進む。
限界を迎えた俺をそれでもなお突き動かしていたのは、魔女に対する恨みだった。俺の予定を全て覆した魔女。輝かしい未来を奪い、思い出すだけでも今なお名状しがたい恐怖を刻み込まれた。勇者である俺が負け、恐怖すら覚えるなんて耐えがたい屈辱だ。それを拭うには、あいつを殺すしかない。そうだ。あいつを殺すまでは、俺は死ねない。その一心で歩を進めた。
やがて俺の行く手に、林檎にそっくりな赤い実を大量に実らせた樹が現れた。
「…………」
魔の国に自生する植物は、そのほとんどが毒を帯びていると魔法使いは言っていた。呪われることもあるという。だからこれは賭けだ。どのみちこのままでは遠からず俺は餓死する。今の状態ではそう遠くへも行けないだろう。なら、残されたこの最後のチャンスに賭けるしかない。
緩慢な仕草で実をもぐと、俺は覚悟を決めて齧り付いた。しゃくり、と心地良い歯触り。溢れる果汁。見た目もそっくりなら、味も林檎にそっくりだ。身体に異変はない。少なくとも、今はなにも感じない。魔法使いめ、何が全て毒入りだ。
そこからはもう無我夢中だった。俺は手当たり次第に果実をもぎ、一心不乱に齧り付いた。水分が、固形物が喉を通る感触が堪らない。すさまじい快楽だ。さらなる快感を求めて果実に手を伸ばし――そこで、俺の中で何かが弾けた。
「……あっ…………あっああああぁっぁぁぁああああああがぁあああああああああっっっ!!」
獣のような咆哮が漏れる。身体の内側で、何かが蠢いている。それは容赦なく俺の全身を喰い荒らし――
そして憎悪が爆発した。
憎い。俺を喚び出したやつらが憎い。魔王退治なんて押し付けた王が憎い。嘘の情報を平気で垂れ流した宮廷魔術師筆頭のじじいが憎い。まるで役に立たなかった兵士達が憎い。壁になることすら出来なかった仲間が憎い。渇きが憎い。餓えが憎い。疲労が憎い。苦痛が憎い。魔物が憎い。魔の国が憎い。そこに住む住人が憎い。男が憎い。女が憎い。人間が憎い。魔王が憎い。魔女が憎い。ありとあらゆる、この世の全てが――
憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
「……殺シテヤル…………」
呪詛の言葉を吐き散らす。
そうだ。俺から全てを奪ったあの女を。魔女を。浅井籐花を!
――憎メ
――滅ボセ
――殺セ
声が聞こえる。
――全テヲ破壊シロ
――尽クヲ殺シ尽クセ
ああ、そうだな。
頷く。
魔女も、魔王も、魔の国の住人全て。
「殺シテヤルッ!!」
応じて発した声は、自分のものとは思えないほど邪気に溢れていた。
身体中に力が満ちている。今の俺なら何でも出来る。万能感が溢れ出して止まらない。
――そうか。
そして俺は理解した。
魔女もこの実を食べたに違いない。そしてあの馬鹿げた力を手に入れたのだ。そうでなければ、勇者である俺が負けるはずがない。なんて卑怯な奴だ。自分だけこんなチートアイテムを手に入れていたなんて。
だがそれもここまでだ。俺がこうして真の勇者として覚醒した以上、お前の優位はもうお終いだ。今度こそ、今度こそ確実に――
「殺シテヤルゾッ! 浅井籐ォォォ花ァー!!」
絶叫が森に木霊した。
俺はすぐさま反転し、魔王城目指して突き進んだ。途中、いくつかの街や砦を滅ぼしたかもしれない。些事だ。憎悪はまるで治まらない。当たり前だ。乾いた砂漠に一滴や二滴水を垂らしたところで変化などない。この憎しみは、渇きは、魔女を殺すまでは止まらない。
そして俺は進み続け、気付くと目の前に一人の女が立っていた。女。俺をこんな目に遭わせた魔女と同じ性別だ。憎い。憎い憎い憎い憎い!
「……死ネ」
どこかで奪った剣を振りかぶった俺を無表情に見つめ、
「こんなところに居たんですか。探しましたよ――勇者」
女は淡々と呟いた。
よく見れば、傍らには見知った男が一緒にいた。
「勇者様! よくぞご無事で!!」
剣士だった。




