54.溜め息
あの頃、私は独りだった。
高校卒業と同時に単身上京し、右も左も分からない土地での初めての一人暮らし。天涯孤独とまではいってはいないが、寂しさに侵食され、気づくと心にはぽっかりと穴が空いていた。
その穴を塞いでくれるのは、決まって親友の香奈だったが、塞いだ穴はまた直ぐに開き始める。私の心を常時満たすには、その頃の彼女は忙し過ぎた。
ただ、私にはもう一人、寂しさを紛らわせ、心に安寧を与えてくれる人物がいた。
島谷真澄。
職場の先輩だった。
心の寄りどころというのはこういう人の事を言うのだろう。私は仕事、プライベートなど様々な事を相談し、彼女はそれに応えてくれた。
恩を感じずにはいられない。私にとって、彼女はとても大きな存在だった。
でも、そんな彼女が突如として牙を剥いてきた。
といっても、害を為す人物を用意して、さもその人が嫌がらせをしてきたように振る舞った、只それだけ。実際に被害を受けたわけでもないし、別に大騒ぎする事でもない。実際命に関わるようなことがあれば、その人物を返り討ちにしてやれば済むことと思っていた。
だが、彼女の「嘘」はそれだけではなかった。私に教えてくれた妊婦石。それさえも彼女の偽装だったのだ。なんでそんな事をしたのか? それは彼女の口から訊かなければならない事なのだけど。
でも、今はそんな事より……。
未来を展望できない不安感を吐く息と一緒に追い出す。だが、心はちっとも軽くはならない。彩を抱く腕がとても重く感じる。
『溜め息つくと幸せが逃げるよ』
いつのまに入ってきたのか、香奈が備え付けの飾り気のない丸椅子に腰をかけた私の肩に優しく手を置く。
『……香奈』
『瑞希君の着替え、ここに置くよ』
『ありがとう。ごめんね、いつも。仕事大丈夫?』
『平気平気。うちのスタッフ優秀だからね。雇われてた時とは違うのよ』香奈はそう言いながら胸を張る仕草をした。
『そっか……』
『元気だして。ほら、彩ちゃん預かるから、ちょっと外の空気でも吸ってきなさい』
『うん…………じゃ、お願い。もし瑞希が起きたら電話して』
頷く香奈に彩を預け、病室を後にする。が、どこに行く気にもなれず目に入った病室前のソファに座り込んだ。
真澄からの告白を聞いていたあの日、瑞希は倒れた。妊婦石の事を聞いていた矢先の事だ。突然の出来事にパニックをお越しかけたが、真澄が直ぐに救急車を呼び手際良く対応してくれた。搬送先は茂宮総合病院。妊婦である瑞希が通院している病院だと救急隊員に話し、病院へ連絡。受け入れの手筈もスムーズに整ったようだ。
瑞希の友人である茂宮の計らいで個室に入れてもらい、既に3日が経っている。入院費など様々な悩みはあったが、瑞希がこのまま起きないなんて事になったら……そんな事ばかり考えてしまう。
今の私は無力で何も出来ない。周りの皆から支えられて、やっと生きていられる小さな存在だ。島谷に助けられ、香奈に支えられ、瑞希の友人である隼人や茂宮に見守られ。
瑞希に守られて……。
瑞希のいない人生など考えられない……。
『あたし、どうしたらいいのかな…………』
『おっと、菜々子ちゃんはっけーん』
『っ?』
突然の声に振り向く。そんな私を見ながら、声の主は少ししゃがれたハスキーボイスを奏で続けた。
『そんなにやつれた顔して……無理もないか。でも、元気出しなさい。そんなに不安そうな顔してたら彩ちゃんも不安になるわよ』
『そ……そうですよね』
『そうそう。瑞希君の事だったら大丈夫よ。この茂宮総合病院を信じなさい』
そう言いながら瑞希の主治医、茂宮薫は微笑みを浮かべた。