42.こんな時こそ……
何度かけ直しても、香奈は電話に出ない。
焦りばかりが募ってゆく。
『くそっ!』
俺はやるせなさに、切ったばかりの携帯電話を睨み強く握りしめた。
蒼井渚のターゲット。それは恋愛対象「蓮見瑞希」の相方である菜々子。要は、自身の恋路の邪魔者である。ヤツの言葉を借りるならば「恋敵」だ。そして、その恋敵は菜々子のみならず他にもいたのだ。香奈である。この事は香奈自身が蒼井本人から「恋敵」認定を受けているから間違いない。単なる蒼井の勘違いではあるのだが。
島谷も、俺も、既に対象となっている菜々子自身でさえも、全く気がつかなかった。というより、俺と菜々子に至っては、香奈から直接聞いていたにも関わらず、全く忘れてしまっていた。島谷にとってみれば香奈の存在など知らないのだから無理もないが。
だが、今となってはそんな事を考えていても意味はない。ともかく今は香奈の安全を最優先に考えて行動を起こさなくてはならない。
焦らず。ゆっくりと。確実に。
これらは物事を進める上で重要なファクターだ。
だが、時としてその言葉はやけに虚しく響き、何の役にもたたない事もある。果たして異常事態、緊急事態に直面した瞬間に、それら要因をしっかりと踏まえ行動を起こす事ができる者達がこの世の中にどれだけいるだろうか。
『どうすりゃいいんだっ?!』
「こんな時こそ沈着冷静に行動するべきなんだよ、わかるか?」
昔、ガキの俺にそう言い含めてきた人がいた。
「き、きんちゃく? なに?」
「沈着だ、ち・ん・ちゃ・く……って、お前にはまだ難しいか」
小学校低学年の時、俺は孤児として寺で保護されていた。ある日どこかもわからない寺の境内で一緒にいたはずの両親が突然行方を眩ました。その後、二人は俺を残して命を絶ったらしい事を知った。親戚もおらず、保護される場所のなかった俺は、蓮見家の養子としてこの街に移ってくるまでの半年間、半ば自動的にその寺に住むこととなった。なかなか大きな敷地を持った寺だったが、当時の俺にとってみれば、両親から訳も分からずに捨てられ、先立たれたショックもさることながら、知らない大人ばかりがいるそこは、とても居心地の悪い場所でしかなかった。ただ一つ、その人といる空間だけが、俺にとっての唯一の居場所だった。
彼の名は武。名字は覚えていない。様々な場所を放浪していたらしく、ちょうど俺が保護される直前に寺に厄介になり始めた、二十代前半の男であり、俺が心を開いたたった一人の人物。
当初はことある毎に構ってくるその「大人」を避けていたが、ある日寺の近辺に住みついていた野犬に襲われた俺を救ってくれた事をきっかけに距離をとらなくなった。
それからというもの、まだ小学生にも満たない俺に対し、全力で励まし、全力で叱り、全力で遊びを教えてくれ、全力で同じ時間を共有してくれた。空手を教えてくれたのも彼だ。
俺は、そんな彼を慕い、憧れ、常に側にいたくてしょうがなかった。親、兄弟と同等、いやそれ以上の、幼いながらも、師匠のような存在だったかもしれない。
そんな彼が良く口にしていた言葉が「こんな時こそ沈着冷静」云々だった。今思うと使いどころがあっていたかどうか甚だ疑わしい場面もあったが。何かにつけて使っていたこの言葉も、使わなくてはならない場面にした根本原因は、彼の直前の行いにあったような、そんな気もする。寺の仏像を倒したり、敷地内にある使わなくなった井戸覗いて落っこちたり。
『み、瑞希?』
不可解そうな表情を浮かべ呼びかける菜々子。
あの時の情景が微かに蘇り、こんな時だというのに、うっすらと口元を緩めてしまったようだ。
『あ、いや、大丈夫……──』
そう、こんな時こそ。
『──沈着冷静だ』