40.そこにいないのに
『ハム』
佐藤親子と別れた直後に安否確認のため連絡した相手の第一声は食べ物の名前だった。
『え?』
『だから、ハムっ。あと卵は? 今どこよ?』
雪の息子である蒼太が発した言葉は、我が妻「菜々子」への恨み節だった。声変わりもまだまだ先の話である未就学児が紡ぎ出した言葉ではあったが、心臓を締め付ける程の脅迫的圧力は、菜々子の無事を確認出来なければ我が心身を押し潰しかねない響きを持って脳内に居座り続けていた事だろう。だが、菜々子の声を聴き、無事を確認出来たのも束の間、菜々子の言葉の意味が、次の瞬間にも自身に降りかかるであろう最悪な情景を脳内に映写させ、焦りを募らせてゆく。
買い物行くの忘れてたよ。
『まさか、まだなの?』
ごめんなさい。
『黙ってないでなんとか──』
『まだです、ごめんなさい、すぐ買って帰ります!』
蓮司に会うために家を出たのは昼の2時近くだったのが、既に6時を回っていた。最近は日が長くなっていたため、まだ空は明るく、まさかそんなに時間が経っていたとは思いも寄らなかった。
外出時に持っていたメモを頼りに買い物を済ませ、急ぎ帰路へ。若干小走り気味に青々と葉を繁らせた桜並木の道を抜け、愛する家族に会いにゆく。菜々子への言い訳を考えながら。
無事我が家に到着。途中少し小走りしたせいか、若干息切れしつつ玄関に入る。
『買ってきました』
『ありがと、そこに置いといて』
思いがけずもかけられた優しい言葉に軽く呆気にとられる。
『なに?』
『いや、なんか優しいなと』
『買い物行ってきた妊婦さんを怒ると思った? 彩の時は苦労したから、大変さはイヤと言うほどね』
『なるほど』
『疲れたでしょ? ソファに座ってて。今水持ってくから──』
本当にあれは菜々子なのか、と疑いの眼差しを送りながら、言われたとおりにする。頼まれていた買い物が遅くなった事により嫌みの一つや二つや三つ四つ浴びせられると思っていたので、些か拍子抜けした気分であるが、願ってもない事だ。優しい菜々子。大いに結構。苦しゅうない。
『──飲みながら、ゆっくりと遅くなった理由でも訊かせてちょうだい』
世の中そんなに甘くはないようだ。
汲んでもらったコップの水を一気に半分以上飲む。梅雨明け間もないこの季節。暑さのせいもあったが、ヤケに喉が渇いていたようだ。
ひと息入れ、事情説明を始めた。
買い物の事はすっかり忘れていたし、外出した本当の理由も菜々子には言えない事なので、若干詳細を省きつつ外出時から帰宅までの経緯を伝える。親父さんの事は一切省き、茂宮の診察最中に歯の激痛に襲われ、歯医者へ直行、帰りにバッタリと雪に会い立ち話に講じていたことで、買い物が頭から離れてしまった。見事なまでのストーリー。
ことのほかあっさりと事情聴取は終わった。
『なるほど』
大変だったわね、と菜々子は立ち上がりながら言う。
ひとつ迷ったのは雪の息子の蒼太の件。雪にとって愛息の事については極力伏せておきたい内容だろう。「隠していた訳ではない」と言いつつも、俺に打ち明ける時の表情が全てを物語っていた。だが、その後に起こった出来事。菜々子にとっての身の危険につながりかねない状況が発生しつつあることを本人に伝えるのに、この事を隠しながら行うことは土台無理があった。こればっかりは仕方がなかった。
まあ、菜々子が知ったところで雪達親子を陥れるような事をするはずはないのだが。
話が終わりキッチンに向かう菜々子を見つめながら、そんな事を考えていると、菜々子が腑に落ちない感じで言葉を紡いだ。
『でも、その蒼太君……だっけ? 何でそんな事言ったんだろ?』
『いや、だからそれは蒼太の言葉じゃなくて』
『あ、そうなんだけど、その近くにいる誰かさんのでしょ? それはわかるんだけど……』
『?』
『いや、アタシが言いたいのは、何でそんな場所で「菜々子許さない」なのかなって……──』
初めは何が腑に落ちないのかわからず、的外れな疑問だろう、などと勘ぐっていたが、菜々子が感じた不可解な何かが、俺の心をも侵食し始めていた。
『──そこにアタシいないのに』