39.秘密の共有と軽い不安感
ゆったりと時間が流ていた憩いの場の一角は、瞬時に変貌を遂げた。急速に時間の流れが早まり、場の温度が上昇してゆく。頭の中には、今し方耳にした言葉が反芻するが、意味を理解しようとしても、あまりに唐突過ぎて思考が定まらない。
速くなったのは自身の心臓の鼓動。
上昇したのは我が身に伝う血液の流れ。
そう気づくには数秒の時間が必要だった。
次は、言葉を発した蒼太を鋭く凝視している自分に気づく。
その次は、そんな俺と蒼太を交互に見ている雪の不安げな表情に。
そして、やっと言葉の意味を理解し、今自分が取らなければならない行動に行きつく。
瞬間、周りを睨みつける。
どこに?
どこにいる!?
目的の人物を探すが見当たらない。咄嗟に席を立ち、店の階下に駆け下りる。途中ケーキを運ぶ店員にぶつかりそうになるが、紙一重で避け、店外へ。
どこに……どこに行ったんだ!?
人通りはまばらだが、見つからない。でも店内か店外、どこかはわからないが絶対にいたはずなんだ。
『……蒼井』
目的の人物を発見出来なかった俺はひとまず店内に戻った。突然の出来事で驚きが先に立ち、速やかに行動を起こせなかった事が悔やまれた。
蒼太は何者かの意思を受けとった事で菜々子への恨み節が口をついて出たが、その何者かは蒼井渚で間違いないだろう。というか、他に菜々子に対して恨みを持つ者など思いあたらない。まあ、それも逆恨みである事に変わりはないのだが。
店内の階段を一歩一歩上がる毎に、熱を帯びていた思考回路は正常な働きを取り戻してゆく。
『どうしたのよ一体? 突然すごい形相で飛んでっちゃうんだもん』
二階に戻った俺に、雪が心配気味に声を掛ける。その傍らには蒼太がキョトンとした表情で俺を見上げている。
『いや、あの』
『ダメじゃない、あんな風に無茶に動いたら。妊娠してるって事、ちゃんと自覚なさい。赤ちゃんに何かあってからじゃ遅いのよ。急な運動はホントに気をつけないと。あなたまだ安定期にも入ってないでしょ? 今は大事な時期なのよ。わかるでしょ?』
余程心配をしてくれていたのか、結構な勢いで注意を受ける。ただ、もう出産間近だというのに、甘い物を食べて虫歯になった雪に言われている事に、若干の疑問を感じなくもない。
『……すみません。ご心配おかけしたみたいで』
『わかってくれた? …………ところで菜々子ちゃんに何かあったの?』
どうする?
今、自分の周りで起こっている事を話して良いものか考える。
雪には、俺が元男である事、原因不明だが女体化して現在妊娠中である事、雪の高校時代の後輩の島谷と同じ会社で別人を装い働いている事は知られている。現在の俺にとって、他の人物に知られる事で少なからず被害を被る可能性のある内容だ。信じる信じないは別として、テレビ局にでも流された日には目も当てられない状況におかれるだろう。秘密にしておきたかったのだが、成り行きで知られてしまったからには仕方がないが。
そして、今回の蒼井の事。簡単に言ってしまうならストーカー。だか、その正体は我が社の社長令嬢なのだ。もし万が一、彼女が菜々子に対し傷害事件など起こし、それがメディアを通して世間に知られてしまったなら、会社の存在を揺るがす大騒動に発展してしまいかねない。てか、絶対そうなる。そんな事になったら、損なことになる。……そんな事言ってる場合じゃないが、俺自身も職を失うのだ。それだけは避けなければならない。
しかし、この佐藤雪に限っては、そんな心配は不要かもしれないとも思う。彼女が他人の不幸の上に胡座をかき、自身の幸福を乱立するような人間であるなら、既に俺の状況が世間に広まっているに違いない。それに加えて蒼太の個性の話だ。俺も特殊な状況であるが、蒼太もそれに輪をかけて特殊な個性を持っている。これについては、雪にしたって、未来ある子供の為になんとしても公にしたくない事柄だろう。それを若干の迷いはあったものの、俺に打ち明ける事自体、雪が俺にとっての敵ではない証ではないか。なのであれば何も迷う事はない。味方は多いにこしたことはないのだ。
『実は……』
俺は、蒼井渚の暗躍する現状を打ち明ける事にした。
話を聞き終えた雪は押し黙っていた。暫しの沈黙。そして一言。
『何か匂うわね』
『匂う? な、なにがですか?』
『真澄ちゃんが』
『島谷……さん?』
『何か隠してるわよ』
『隠してる?』
島谷が何か隠している。雪は自信たっぷりに断言する。そういえば、島谷から蒼井に対する注意を促された時、何か引っかかるものを感じたのだが、それと何か関係があるのだろうか?
『ま、とにかく私も調べてみるわ。何かわかったら連絡……えっ、もうこんな時間なの?』
動揺を孕んだ雪のその言葉に店内の時計を見ると、針は16時を回っていた。
『視たいテレビがあるのよ』
今まで漂っていたシリアスな空気はどこかへ行ってしまった。我が家の危機は、テレビに負けたようだ。
『とにかくまた連絡するわ』
会計を済まし「舌鼓」を出る。お互いの秘密を共有した後とは思えない雰囲気で蒼太の手をとり足早に去っていく雪。その後ろ姿を見送りつつ、彼女に任せて大丈夫だろうか、と不安を新たにする俺であった。