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3.体調不良?

 まだ少し肌寒い4月。

 世間では新社会人という言葉で一括りにされた若者達が、すぐに壊されてしまうであろう夢や希望というガラス細工のような儚いモノを胸に、瞳を輝かせながら働き始める時期だ。

 先日降った雨は止んでいたが、今にも涙を落としそうな雲は遠くまで広がっている。少し風が強い。

 勤め始めて5年になる職場の新人歓迎会に出席した俺は、一次会でそそくさと退散、帰宅の途についていた。

 最近は営業とはいうものの飲みが多く、妻である菜々子はかなりご立腹だ。別に好きで参加している飲み会でもないのに、それが原因でケンカになるのも馬鹿らしいので早めに帰ってきたのだ。

 すでに酔いは醒め、春とはいえスーツ一つではまだ寒い。薄手のコートでもあればよいが、そんなものは持ってない。去年、娘が生まれ、それ以来自分の服など買ってない。買ってもらえないのではなく、買ってないのだ。もとより安月給の身である。少しでも節約しなければ、妻子を養う事などできやしない。年収を少しでも上げ、彼女達に何不自由ない生活をさせてあげたい。その為に、行きたくもない接待などに参加し、休日出勤などもして頑張っているんだ。

 そんな想いとは逆に、妻の菜々子とはケンカが絶えない。出産の時に立ち会わなかった、子供の面倒をあまり見ない、頻繁に飲む。端からみれば俺が悪いと言われるだろうけど、俺は彼女達を養うために仕事を優先しなければいけないんだ。

 そんな事を考えながら、自宅近くの桜並木に通りかかる。先日の雨で桜の花はかなり散っていた。


 今週で全部散っちゃうな。


 最近は仕事仕事で、家族で出かけることなんてなかった。花見くらい行っとけば良かった。風に枝を揺らす桜の木を前にした俺はちょっとした悲しみに襲われた。

 桜の木を眺めていた俺は、しばらくして歩き始めた。急に家族が恋しくなり、その歩みは早かった。



 自宅マンションに着いたのは9時半過ぎ。家に入ると菜々子が出迎えた。娘の彩は眠っているようだ。


『遅かったね? 残業?』

『あれ、言ってなかったっけ? 今日は新人歓迎会だよ』

『……聞いてないけど』


 また始まったか。痴呆か? 言ったっつーの。


『おかしいなぁ、言ってなかった? ゴメンな』


 こういう場合はこっちが負けて、素直に謝っちまうほうがいい。

 菜々子は、まあいいけど、と言いながら俺が脱いだ上着を受け取ると怪訝な顔をした。


『ん? どうした?』

『…………浮気してるでしょ?!』

『はぁ?』


 いきなり何を言いだすかと思えば。


『とぼけんな! 香水の匂い! これは女物でしょ!! あとコレ! 長い髪の毛!』

『えっ? つーかそんなの――』 満員電車乗りゃいくらでも付くだろうが……。


『うるさい!! もう頭に来た! こんな家出ていってやる!』

『はあ〜〜?』


 なんだなんだ?

 香水?

 髪の毛?


 一体いつ付いたのか。

 答えはすぐに見つかった。

 歓迎会に出席していた新人の女の子が終始くっついて離れなかったのを思い出した。腕とか組んできて、多分その時に付いたのだ。


『おい待てって!』

『うるさい! 頻繁に飲みに行くと思ったら浮気とはね』

『浮気なんかしてねぇって! 飲みだって行きたくて行ってるわけじゃないって言ってんだろ!』

『どうだかね。接待とか言って、浮気してたんでしょ!』

『違うって!』

『うるさい!』


 全く聞く耳を持っていない。

 素早く身支度を済ませた菜々子は、眠っている彩を抱き抱え、外へ出ていく。

 3階に停まっていたエレベータに素早く乗り込んだ菜々子は、俺を置いて1階まで下がっていってしまった。

 俺は階段を駆け下りたが、エントランスに来たときには菜々子はマンションを出ていた。

 急いでマンションから飛び出すと、菜々子は数メートルほど先を歩いていた。


『おい!? おいって!』

『うっっさいわね、この近所迷惑男! もうあんな家二度と帰らないから!』


 お前の声のほうがよほど近所迷惑だろ、と思ったが、それは口には出さない。

 火に油を注ぐだけだ。


『菜々子! どこ行くっつんだよお前は!?』

『あたしの勝手! 付いてこないでっ!』

『彩は……彩はどうすんだよ!? まだ赤ん坊だろ? 連れ回したら可哀想だろ?』


 彩は目を覚まして泣きだしていた。


『可哀想ぉ? よくアンタがそんな事言えるわねぇ!? いつも飲み歩いて、ろくに面倒もみないくせに。そんな事言うんだったら、アンタ一人で育てる?』

『なっ?!』


 コイツ、人の気も知らないで……。


『……出来ないくせに。さあ、こんな口だけ男放っておいて、行きましょ。ねぇ、彩ちゃん。』


 菜々子は彩に顔を向けながら歩きだした。

 俺は、今は何を言っても無駄だと思い、もう追いかけるのをやめた。


『くっっ……勝手にしろっ』



 菜々子を連れ帰る事が出来なかった俺は、自宅に戻り私服に着替えた。ネクタイをハンガーに掛ける際に、今日の争いの原因となった香水付きスーツに鼻を近付ける。


 『うわっ、くっさ……』


 結構匂う。これは臭いと言われても仕方がないかもしれない。


 ……でもコレだけで浮気って。まさか、こんな事で出ていくなんて。


 3年前に買った2LDKのマンションは、一人で過ごすには寂しさを覚える広さだ。只でさえ帰りの桜並木で家族が恋しくなってたってのに……。


 ……隼人でも呼ぶか。


 隼人は小学校からの友人で、今でもたまに飲んだりする仲だ。

 彼は薬学部のある6年制の大学を卒業し、製薬メーカーでMR(医薬情報担当者)として働いていたが、営業先の医者共に媚売るのがバカらしくなったと言って転職し、今は別の製薬メーカーで新薬を研究、開発に携わっている。

 会う度に俺に新薬を勧めてくるのはやめてほしいが、思いやりのあるいいヤツだ。

 早速電話をしてみると通話中だった。少し待ってまたかけるかと思った直後に携帯電話が鳴った。隼人からだ。


『もしもし』

『おぅ、瑞希か?! 今お前電話した?』

『おう、今日飲まないか?』

『あれ、いいのかこんな時間に? 菜々ちゃんと彩ちゃんはどうしたんだよ?』

『菜々は家出したよ。彩も連れていった』

『は? マジで? 探さなくていいのか?』

『引き止めようとしたけどダメだったよ。何処行ったかは大体見当がついてるけど、あの様子じゃ今日連れ戻すのは難しいから、明日行ってみようと思ってる』


 そう。

 菜々子は多分香奈のところだろう。

 地方から出てきて、こっちにあまり友人のいない菜々子は、何かというと同郷の香奈と連絡を取り合っている。


『ふーん。ならいいが、どうしたんだよ? またケンカか?』

『ああ、まあそんなトコだ。どうだ、飲みにいかないか?』

『悪い、今は仕事ですぐに帰れそうにないんだ。明日また連絡する』

『あ……そうか。わかった。じゃまた明日な』

『ああ、菜々ちゃん達いなくても元気だせよ〜! じゃあな〜!』


 電話を切った俺は他に当たろうと思ったが、急に身体が寒気に襲われ、携帯をテーブルに置いた。怠さもあった。


 『なんだ? 寒ぃな……。風呂入って寝るか』


 風呂は、俺が帰ってくる直前に菜々子が沸かしていて、保温状態になっていた。

 早速シャワーを浴び湯船に浸る。かなり長時間暖まる事で出る頃には寒気はなくなっていたが、怠さはまだ続いていた。

 髪を乾かしていた時、テーブルに置いておいた携帯が鳴った。


 隼人か?


 携帯を手に取ると、ディスプレイには「香奈」の文字が浮かんでいる。


『もしもし』

(あ、瑞希君? 香奈ですけど。遅くにゴメンね)

『いや、大丈夫だよ。どうしたの?』

(今ウチに菜々子が来てるんだけど……)


 やっぱり。


 菜々子は香奈の家に行っていた。香奈は菜々子の状況を細かく教えてくれた。


(……というわけで、菜々子も反省してるみたいだから。明日朝家まで送るから、仲直りしてね)

『わかりました。なんか色々迷惑かけてゴメンね。有難う。じゃ、明日待ってます。おやすみなさい。』


 電話を切ると、俺はソファに座りこんだ。


 良かった。


 安心した。

 香奈の家に行くと思ってはいたが、夜も遅かったので結構心配していたのだ。

 今日は一方的に家出されたが、自分も反省しなくちゃいけないところはある。

 明日は料理でも作ってやろう。カレーしか作れないが……でも菜々子にはかなり評判がいい。


 さて、寝るか。


 ソファから立ち上がり寝室に向う。

 寒気がまだあったので、クローゼット奥に詰め込まれた掛け布団を取出した。

 ベッドに入ると菜々子達が無事だった安堵感からか急激に眠くなり、すぐに意識が遠退いた。



 気が付くと朝を迎えていた。時計を見るともう9時前。大分深く眠っていたのか夢も見なかった。

 寒気は全く感じなくなっていたが、身体の怠さはまだ残っている。


 風邪でも引いたか?


 体温計を取りに洗面所に向かう。

 なんだか頭も重い。

 洗面所に辿り着くと洗面台下にある引き出しを探した。一番下の段を開ける為、少し屈みこむ。


 ……ん? なんだ?


 屈む瞬間、何か鏡に写った気がした。女性のような……。


 ま、まさかな? 気のせいだよ。風邪のせいだ。


 幽霊なんて信じてはいない。

 信じてはいけない。

 信じることで救いがないものだから。

 恐る恐る顔を上げ洗面台の上にある鏡を見上げる。しかし、まだしゃがんでいるためよく見えない。


 た、立つか……立ってみるか…………?


 恐る恐る、これ以上ないという位に慎重に立ち上がる。


『…………あっ?!』


 鏡の中には確かに女性が立っていた。

 彼女は驚き立ちすくんでいたが、口を開き声を漏らした。


 『お、俺…………か?』


 鏡の女性は驚いた表情のまま、そう言った。

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