33.穏やかな休日の嫌がらせ
穏やかに流れる休日の昼下がり。
リビングに明るい雰囲気を作り出す採光用の出窓から外を眺める。
マンション脇の道を行き交う人に目を向ける。ジョギングに勤しむ青年。買い物袋を両手に、器用にバランスをとって歩く女性。飽きることなく井戸端会議を続ける主婦達。向かいの公園へ駆けていく小学生。
ふと視線を上へ移す。
そこには優雅に流れる雲が、心を落ち着かせる絵画を描くように、恒久的に広がる青い空に彩りを与えていた。
これといった対象に焦点を合わせることなく空を眺めながら、最近、身の回りで起こった出来事に想いを巡らす。
身体の変化と、妊娠発覚。
慣れない体での出勤。
悪阻という名の洗礼。
親族の仲違い。
準ストーカーによる戦慄……。
様々な現象が、ほぼ同時期に起こった事による心身への影響は計り知れない。
ここにきて、ようやく悪阻が少しずつ和らいできたが、出芽していく悩みの種は尽きることはなかった。
だが、悪い事ばかりではない。
こんな状況に至る前は、仕事に追われ、菜々子との仲は悪くなる一方だった。仮に香奈が暗躍しなくとも、離婚も時間の問題だったかもしれない。
しかし、俺は女性の体になる事で僅かながら菜々子の気持ちが分かり、菜々子も俺の身体を案じて接してくれるようになった。仕事に関しても、社長や部長の計らい、そして安藤の頑張りのおかげで、以前とは比べものにならない程、早く帰れるようになり、家族で過ごす時間が莫大に増えた。
奇しくも、女性の体に変貌を遂げた事、子どもを胎内に宿した事が、仕事との距離、菜々子との距離を絶妙なものにしてくれたようだ。
悪阻による心境の変化も少なからず現れていた。
悪阻は本当に辛い。激しい吐き気と嘔吐。身体の倦怠感。頭痛や眠気。そして食欲不振。
始めの頃こそ、「なんで俺がこんな目に……」との思いしかなかったが、徐々に……徐々にではあるが、「こんな大変な思いをして子どもを産む女性」達に対する尊敬の念が沸々と湧き上がってきた。
あの時は気がつかなかった。彩を身ごもった時の菜々子の嬉しくも辛い妊娠生活。家庭を顧みない夫である俺。不安だったに違いない。それでも頑張って彩を産み、育ててくれた。
有難う……。
『本当に有難う菜々子……』
窓辺でそっと呟く。
口をついて出た妻に対する感謝は、菜々子の顔の輪郭に似た空に浮かぶ雲に向かい飛んでいった。西向きの出窓から吹く心地よい風は、髪を揺らし頬をくすぐる。
次の瞬間、菜々子雲が微かに微笑んだ気がした。
『――邪魔なんだけど……。掃除出来ないでしょっ?』
本物の菜々子が不機嫌に掃除機を足にぶつけてくる。普通に痛い。
前言を総撤回しようかと心が動いたが、ベビーベッドで寝息を立てる彩が目に写り、何事もなかったように掃除が済んだ場所へ移動する。
菜々子が体を張って乗り切ってくれた出産という険しい山。
今度は俺の番なのか――。
まだまだ目立つことのない腹部は新たなる生命を育んでいる。だが、まだ夢の中の出来事でもあるかのような感覚が拭い去れない。気がつけば、男の身体に戻り、お腹の子も菜々子に宿る、そんな風に丸く収まってくれるのではないかと、淡い期待が頭の中で一杯になる。
だが、最近はそんな上手くはいかないと解りはじめていた。
ただ不安なだけ。
有り得ない状況下に置かれ、前人未踏の目標を提示された事による不安感。元が男であるはずの自分に、果たして達成出来るのかどうか。
漠然とした不安感は決意の妨げになり、物事に対する能動性を失わせる。
ソファーに隣接するベビーベッドに再度目をやる。
いつの間にか彩は眠りから覚め、ベッド内に置かれたぬいぐるみと戯れていた。
やるべき事は決まっているのだろう。
後は自分自身が決意出来るか否か。
未だに揺れ動く弱気な自分をいかに説き伏せるか葛藤していると、掃除機を止めた菜々子が声をかけてきた。
『瑞希、郵便受け見てきてよ』
『ん? ……ああ』
『あ、ついでに買い物も行ってきて』
『いいけど、何買っ――』
『あ、それと彩のオムツ替えておいてね』
『いっぺんに言うな』
『……なんか言った?』
『別に言ってないです』
とめどない依頼に軽い不満を漏らすも、今更始まった事でもないので、苛立ちをため息に変換し立ち上がる。
買い物用のメモを受け取り、外へ。階段で一階まで降りたところで気がつく。
『あ、財布。……鍵もか』
メモだけ持って来たようだ。踵を返し階段を上ろうとするも、折角降りたのだからと郵便受けに向かう。
ダイヤル式の鍵を回し小さな扉を開けると――
『あれ? この匂い?』
甘い香りが鼻腔をくすぐる。
中には手紙用の封筒が一通。その他は何もない。
手に取るそれは、ピンク色の可愛い花柄。宛名には「蓮見菜々子様」と印字されている。
『菜々子宛て? 誰からだ?』
裏には差出人の名義がなく、菜々子の名前のみが花柄に浮き上がっていた。
『買い物は?』
『まだ行ってねえよ。それよりコレ、お前宛てにきてたぞ』
『は? ……何コレ?』
買い物が済んでいない事が余程気に入らないのか、封筒を文字通り「分捕る」菜々子と、何も言わない大人な俺。
『blue?』
『……あん? なんだって?』
『ここ』
指差した場所には「blue」の文字。あまりに小さすぎて見逃していたようだ。
『ブルー……青?』
なんだ?
『開けてみる』
封を開けると――
『キャッ、何よコレ!』
『ど、どうした!?』
中は固体とも液体とも言えない「茶色の何か」で汚されていた。
『チョコだな』
『チョコぉ?』
『バレンタインデー……だっけか?』
『そろそろ梅雨明けよ』
『だよねぇ』
封筒の中身はチョコレートだった。夏も間近の暖かい気温により全て溶けきっていたが、板チョコ半個分は入っていたようだ。
『嫌がらせだな』
『誰から?!』
菜々子の奔放な性格上、調べれば色々な人物が浮かびそうだが……この場合、一人しかいないな――
『blueだよ』