30.ツライツワリと嫌な予感
吐き気というものは何処からくるのだろう?
乗り物に乗れば酔うし、酒を飲めば酔う。乗り物酔いは外的振動により三半規管に誤動作が生じて引き起こされるらしい。酒酔いは体内のアルコールを分解する際に発生する有毒物質、アセドアルヒデドが血液中に無遠慮に蔓延る事で起こると、専門知識豊富な隼人から教わった。
では、この悪阻はなんだ?
最近になって、倦怠感はピークに達している。そして、どんな匂いにも過敏に反応する吐き気。今日も電車で隣り合わせたオッサンの体臭に意識を持っていかれた。
悪阻には酷い人とそうでない人がいるらしいが、俺は間違いなく酷い分類に入るだろう。悪阻にあった人は、皆そう思うのかもしれないが、間違いない。俺ナンバーワン。
そもそもなんで、悪阻に強弱があるんだ?
よく、胎内の子どもが男か女かで違うという、全く根拠がなさそうな話を耳にする。
じゃあ、お腹にいるコイツは男なのか? 全く、男か女かの些細な違いだけで、余計な反応を示すな、俺の身体め!
会社のディスクに突っ伏した状態で、心から自分の身体に悪態をつくが、体調は一向に好転する兆しをみせない。全く仕事が手に着かない。妊娠した人が産む直前まで仕事するのを目にする事もあるが、よく仕事なんか出来るなと感心の域を出て尊敬してしまう。神だ、神。
『だ、大丈夫ですか?』
隣に座る安藤が、恐る恐る声をかけてくる。
『貴様、どの面下げて発言している? この状態のどこを見て「大丈夫」とぬかす?』
という言葉を吐きかけたいのを懸命に我慢するも、突っ伏した身体に溜まった負のオーラが毛穴から放出するのは止められない。
『だ、大丈夫……じゃない……けど、大丈夫……です』
『す、すみません。大丈夫なわけないですよね?』
安藤遊人。
根っからの遊び人。
俺が男だった時は、週末になるとよく合コンへ繰り出していた。最近は男の俺である「瑞希」の抜けた穴を埋めるため仕事に精を出してはいるが。
女なら誰でもいいのか? 元男であり、現在は妊娠中の人妻という肩書きを持つこの俺に声をかけてくるとは。人妻だぞ、人妻。そういえば、女が結婚すると人妻だが、男が結婚するとなんだっけ? 人夫だっけ?
人間切羽詰まると、思考回路に乱れが生じ、冷静な判断どころか、どうでもいい事ばかり考えてしまうようだ。
まあ、とにかくコイツには人への配慮が感じられない。もういいから、話しかけんな。
『あのぅ、コレ食べますか?』
コイツ、どうしてくれようか?
配慮どころか、嫌がらせをしようとするなんて、精神回路が焼き切れているんではなかろうか。
この気持ち悪い状況で何を食えというのか。最近はどんな食べ物も口に近づけるだけで、その匂いでリバースしそうになるから、弁当も持ってきていない。
そんな俺に「食べますか?」だと?
貴様、楽に死ねると思うなよ……?
背を向けていた安藤に振り向く。我慢という圧縮装置で極限まで凝縮させた負のエネルギーを、今こそ爆発させる時。
既に、物事の善悪すらもつかない心が、肉体を操作し、ギュッと拳を握らせる。
が、安藤が持つ物体を見て、身体の動きを止める。
『レモン?』
『はい、レモンです』
小さめのタッパーにスライスされたレモンがきれいに並んでいる。
『コレ、どうしたんですか?』
『ああ、家から持ってきたんです。最近、蓮見さんの悪阻が酷そうだったんで、母に訊いたらコレがいいかもって。なんか、人によって楽になるものが違うって聞いたんですが、母は「私はコレが良かった」って言ってたので。蓮見さんにはどうかなって』
すっぱい。
もう、匂いからしてすっぱい。
そもそも、すっぱいのは苦手で、レモンなんかは嫌いな部類に入る。
が、今はどうだろう?
食べてみたい、という欲求が身体を勝手に動かし始める。
『ひ、一つ戴けます?』
どうぞ、と安藤から差し出されるタッパーに手を伸ばす。
一口くわえると、レモンの酸味が口内に沁みていく。悪阻による唾液や胃液の不快感がサッパリと洗い流されてゆく。
『……お、美味しい』
『ホントですか? 良かった!』
一つ食べただけで、胸のムカつきが落ち着き、吐き気が嘘のように消えた。倦怠感は相変わらず残っていたが、先ほどまでとは比べものにならないくらい体調がいい気がした。
『有難うございます。コレすごいですね?』
『はい、妊婦さんは結構酸っぱいものが食べたくなると聞いて……』
照れ隠しか、左頬を掻く。人差し指に絆創膏が巻かれている。
まさか……。
『コレもしかして、安藤君が切ったんですか?』
『あ、はい。そうですけど……歪でした?』
『あ、そうじゃなくて……有難うございます』
『いえ。こちらこそいつも仕事を教えて頂いているので。そのお礼です』
前言総撤回。
誰だ、こんな素晴らしい青年に対し、「配慮がない」などと言った愚か者は?
元々俺の為に用意したという、レモンのスライス入りタッパーを有難たく受け取り、この日1日を乗り越えた。
翌日からは菜々子にレモンスライスを用意してもらい意気揚々と仕事に取り組んだ。
数日後、ようやく少しずつ悪阻も収まりを見せ始めた。食欲が出てきたのもあり、久しぶりに「懇談室」へ顔を出す。
『あ、瑞穂さん、いらっしゃい』
社内では数少ない、俺の正体を知っている人物、島谷真澄が意味深な笑顔を浮かべてくる。苦笑というか、ばつが悪そうな消え入りそうな笑みのまま、横目で蒼井渚をチラ見する。
『そうそう、瑞穂さんに相談があったのよ。帰り時間もらえる?』
『……いいですよ?』
『瑞穂さん。瑞希先輩はいつ戻ってくるんですか?』
蒼井が唐突な質問を浴びせてくる。お弁当三人組の一人である駿河明日香は、いつも通りに社内関係図が描かれたホワイトボードを相手に睨めっこしている。
『ご、ごめんなさい、ちょっとわからないなぁ』
そうですか、と全く腑に落ちない表情の蒼井。島谷は困った表情を浮かべ俺に目配せすると昼食を取り始めた。
この日はホワイトボードの内容には一切触れず、昼食が終わると同時に散会した。
就業時間の終了の合図とともに身支度を終えた俺は席を立った。
向かうはケーキショップ「舌鼓」。
島谷からの指定で、そこで落ち合う事になっていた。島谷、そして婦人科で知り合った佐藤雪に正体がバレた現場。その事を思い出し、若干気持ちが引いた部分はあったが、ケーキの美味さの前では、なんの問題でもなかった。
入店し二階へ上がると既に島谷が席を確保していた。店内で一番奥まった位置にあるテーブル。
『あ、こっちよ』
こちらが気づくのとほぼ同時に手を振ってきた。
『待ちましたか?』
『ううん、私も今来たとこ』
席に着くとすぐに店員が注文を取りに来た。いきなり後ろに、音もなく現れてビックリした。前回と同じ店員。相変わらず素早いが、気配ぐらいは発して欲しい。
『アイツ剣道か何かやってるな?』
注文を受け、滑らかな足取りで厨房へ消える店員。
『え、よくわかったわね? あの店員さん、実家が剣道の道場なのよ』
なんでそんな事まで知ってる?
噂話好きも、ここまでくると脅威である。
『……実は、渚ちゃんの事なんだけど』
武芸を嗜む店員が運んできた、甘い魅惑の嗜好品を口に運びながら用件を聞く。
『最近、ずっと瑞希君の話を聞いてくるのよ。本気みたい。菜々子ちゃんから連絡受けて聞いてたけど、あの執着はちょっとマズいわよ』
『マズいって、何がッスか?』
『抑えられなくなってる』
『てか、ちょっと待って下さい。考えたら、俺、瑞希の時には彼女とあまり面識ないですよ?』
『うーん、それなんだけど……あの子って、ほら、お金持ちでしょ?』
『は? 金持ち?』
初耳だし、それと執着心になんの関係があるのか?
『あれ? あの子がウチの社長の娘だって知らないの?』
『……初耳ッス』
通りで重役出勤。そういえば社長の名字も「蒼井」だ。ちなみに従姉である島谷の実家はごく普通の庶民派家庭だそうだ。
『で、それと、俺への執着になんの関係が?』
『うーん、コレはあくまで私の憶測だけど……』
彼女は子どもの頃から何不自由なく育てられてきた。これは小さい頃から見知っているし、「新入社員で重役出勤」がなによりの証拠。だから、自分の思い通りにならないと気が済まない。
そして、社長は瑞希の事を気に入っており、家で「優秀な社員」として聞かされてきた蒼井。入社前から瑞希の事を気になっていたとしてもおかしくない。
その後、入社。香奈の事件をきっかけに瑞希を間近で接した事で、完璧に恋に落ちた。
ってとこじゃないかな、と紅茶を口にする島谷。
『憶測の域はでないけどね』
『うーん、有り難迷惑だ』
『で、ここからが本題』
『ん?』
ごめん、と鼻先で手を合わせる仕草で謝罪してきた。
『な、なんスか、いきなり?』
『ヤバいかも……』
『だから何が?』
『私、あの子に「瑞希君は諦めなさい」て言ったのよ。そしたら、「なんで?」ってスゴい剣幕で……。だから……』
『だから?』
妙に嫌な予感がする。
『だから、「瑞希君には、それはそれは可愛い奥さんがいるからよ」って言ったのよ』
『やだぁ、先輩ったらバカ正直なんだからぁ』
『島谷さん、コイツ……』
いつの間に現れたのか。
俺の隣に菜々子が座っている。
『あ、菜々子ちゃん、やっときた』
『おそくなりましたぁ、すみません』
遅くなった事を謝るより先に、元会社の先輩捕まえて「バカ」呼ばわりした事を謝れと思う。
『島谷さん、菜々子呼んだんですか?』
『うん、菜々子ちゃんにも聞いてもらおうと思って』
『ふーん』
当の呼ばれた本人は、メニューのケーキを選ぶ事に夢中になっている。
しかし、なんだってこんな事で謝ってくるのか全く不明……。その事を問いただす。
『だって、あの子欲しいものの為には何だってするわよ? 相手が身の危険を感じる程に、様々な事を。気をつけてね。菜々子ちゃんが危険だから……しっかり守ってね?』
嫌な汗がじんわり着衣を濡らし始めた。