28.単身赴任とかるめの卵
『さ、さよならっ』
湧水の如く溢れかえる不安感を原動力に玄関のドアを力一杯閉めた……はずだった。
ドアは男の左手にがっちり掴まれて微動だにしない。
『は、離っ――』
『何故閉める』
『何故って……閉めたいからに……決まってんでしょっ』
両手でどんなに力を籠めてもドアは動く気配がない。向こうは顔色一つ変えず片手しか使っていないのに。
『菜々子はいるんだろ? あと瑞希は? というか、その前にアンタ誰だ?』
『……へっ?』
……あっ、そうか。
そうだった。
俺は今、女だったのだ。
なら、俺が瑞希だと思うわけがない。安堵感が沸いてきた……。
『あ、ああ、菜々子でしたら買い物――』
『む? というか、お前……瑞希か?』
間もなく期待は崩れ去る。やけに呆気なく。バレるの早過ぎ。
『チッ……』
『というか瑞希……なんで女装なんかしとるんだ?』
『女装じゃねえよ。なんで俺が好き好んで女装せにゃならんのだ。よく考えて物を言えよ、このオッサン』などと口に出来るわけがない。
『こ、これはですね、深ーい事情がありまして……』
『む? そうか、まあいい』
いいんだ?
細かい事気にしないんだ?
ドアは開いてしまった為、立ち話もマズいので、観念してとりあえず入室を促す。
このうっとおしい色彩のアロハシャツを満足気に着こなした腕力馬鹿のオッサンは、佐々木蓮司。菜々子の父親である。
蓮司は格闘技をこよなく愛する会社員で、菜々子も漏れなくその血を継いでいる。
但し、蓮司は日本の格闘技しか認めておらず、本人曰く『空手、柔道、合気道。日本人であるならば、和の神髄を極めよ。プロレスなど邪道だ』と西洋格闘技など、取りつく島もない。アロハシャツ着て言われても説得力などありはしないが。
菜々子はどちらかと言えば、プロレス、K1、ボクシングが好きな為、全くそりが合わない。同居していた時など、同タイミングでテレビ放送があろうものなら、チャンネル争いは必死だったようだ。蓮司のこめかみの傷は、K1と柔道のチャンネル争いの際に菜々子の踵落としで付けられたものだと菜々子の母親から聞いている。俺から言わせてもらえば、そんな事で父親に蹴り入れるなって話だが。
俺自身も昔空手をやっていた為、蓮司には気に入られていたのだが、初めて挨拶に行った時から、会う度に組み手をさせられる身にもなってほしい。
そんなわけで、俺は義父である蓮司の事を嫌いではないのだが、出来れば早急に帰ってもらいたかった。
動機の軽い親子喧嘩に巻き込まれたくない。というか、彩にそんなもの見せられない。尚且つ、組み手もやりたくない。
その前に、何故蓮司が今目の前にいるのかが皆目見当がつかない。
菜々子と蓮司。仲が決してよろしくない――どころか、どちらかといえば悪いほうであるこの親子は、絶縁状態一歩手前である。俺からしてみれば、物事に対する好き嫌いの問題って事だけで絶縁状態にまで辿り着ける事が不思議でしょうがない。が、曲がった事が嫌いで真面目なのだが大いに人に流されやすく喧嘩っ早いわりには軽く天然な性格は、似すぎていて怖いくらいなのだが、それも原因の一つであるのかもしれない。とにかく菜々子が実家の敷居を跨ごうとしないため、両親への挨拶からこの方、親父さんと会う時はいつも俺一人だった。菜々子は挨拶なんて必要ないと言い放ちとりつく島もなかったが、なんとか実家の所在地を聞き出し単身乗り込んだのが彼との交流の始まりだった。今思えば菜々子の意見を鵜呑みにしていれば会う度の組み手の相手もしなくて済んだ訳だが。
最近は、離れて暮らす娘夫婦の心配と、初孫の様子が気になる義母からたまに連絡を受けるのみだったので、軽く音信不通状態だった義父が現れた事で、軽い懐かしさはあったものの驚きを隠しきれるはずもなく――
『何故驚いている?』
『えっ? いえ、驚いては……』
つっこまれる始末。
『というか、何故女装をしているのだ?』
やはり気になっていたようだ。
『ま、まあ、いいじゃないですか。細かい事は気にしないで。ねっ、お義父さん?』
『む? そうか。わかった』
わかったんだ?
天然な性格で助かった。娘の旦那が女になったなんて知られたらどんな事態になるか想像もつかない。いや、案外蓮司であればあまり気にしないかもしれないが。
緊張感の中からちょっとした安堵感が芽生えつつ、リビングに差し掛かったその時、蓮司はその体躯からは想像出来ない程高い声を発した。
『あ、彩ちゃんっ!』
な、何!? 何事?
蓮司は、ソファーの横でウサギのぬいぐるみと戯れていた彩に走り寄りそっと抱き抱えると、頬を摺り寄せて満面の笑みを浮かべる。
そこには、些細な事で娘と喧嘩する大人気ない父親の顔はなく、孫を抱けた事が何より嬉しくて堪らないおじいちゃんの喜色満面の笑顔があった。
『ああ、可愛いなぁ。彩ちゃんは本当に可愛いなぁ』
……あ、そっか
菜々子は蓮司を煙たがり、実家に近づこうとしない。至極当たり前の事だが、結婚式には曲なりにも父親だという理由で辛うじて呼ばれていた。でもそれ以外は二人の間に流れる濁流の河幅が広すぎて、お互いに全く渡ろうとしないのだ。本当に格闘技の好き嫌いだけなのか、拒絶の根本的な原因は何だかわからないが、この二人の事だから他に理由があったとしてもどうせ大した事ではないと思ってはいる。
だが、ここまでお互いが拒絶してしまっていては、親子であるにも関わらず全く顔を合わせる機会がないのだ。
孫に会いたくて堪らなかったんだなぁ。
菜々子が行かないなら俺が彩を連れていってやれれば良かったのだが、今までは仕事が忙しくて行く暇なんてなかった。
よく見ると蓮司の目は喜びのあまり潤んでいる。悲願達成。ようやく実現した孫との対面で感涙を抑えられないのだろう。
お義父さん……。
大変申し訳ない事をしてしまった。これからは菜々子が何を言おうが、ちょくちょく会いに来て頂こう。そして向こうにも行かせてもらおう。菜々子は節介親孝行が出来る立場にいるんだからやらせてあげなければ。
『お義父さんっ』
『む? なんだ瑞希?』
『これからはいつでも来て下さい!』
『ああ、そのつもりだ』
えっ? そのつもり? もともとそのつもりだったの?
『仕事でな。今日からこっちに単身赴任してきた。住所はここだから、お前達もいつでも来なさい。あとコレお土産』
そういうと、蓮司は住所の書かれたメモ紙と包装された箱を渡してきた。
『あ、有難うございます』
単身赴任?
書かれた住所はここから歩いて30分ほどのところだ。俺が心配せずとも蓮司は彩に会いに来る気満々のようだ。後は菜々子が快く迎えいれるかの問題だが……。
ふとお土産だと渡された箱に目をやる。包装紙には「かるめの卵」と書いてある。
『おっ?』
「かるめの卵」は菜々子の故郷の名物的なお菓子で、菜々子の大好物でもある。内容は卵の形をした端なるスナック菓子をホワイトチョコでコーティングしてある一口大のお菓子である。初めて食べた時は見た目からは想像出来ない程の軽さにビックリした。
菜々子の好物だな。親父さんも、菜々子と仲良くしていきたいワケか。
『ところで瑞希……』
『……えっ、あ、はいっ』
『お前、何故女装をして――』
またそれか……。
蓮司は彩と小一時間程あそんで帰って行った。また来ると言った時の、彩と離れる寂しさと、また会いに来れる嬉しさが入り混じった表情が印象的だった。 やはり孫は可愛いのか、蓮司は犬猿の仲とも言える菜々子と仲良くやっていきたいようだ。
『……あと問題は菜々子だが……ああ、なんか面倒くせえ事になりそうだ』
俺は言い知れない不安感から溜め息を漏らした。