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27.喜びに紛れ込む災厄

 真っ青な空には淀みもなく、雲一つ漂っていない。

 太陽は、春の陽光というよりも真夏の照りつけを放つ事で、地上の生物を軽く弱らせている。

 アスファルトは熱を巻き上げ、今にも蜃気楼を発生させそうだ。道行く人々は汗を染み込ませたハンカチ片手に気怠そうに目的地を目指し、散歩中のダックスフンドは飼い主を恨めしそうに見上げ地面にへばりついている。


『なんなんだ、この暑さは?』


 会社を午前半休し、役所にて母子手帖を発行してもらった俺だったが、暑さと悪阻のせいで体調不良に陥った為、部長に連絡し会社を休ませてもらう事にした。


『無理せずにぃ、お大事にしてねぇ』という部長の暖かい言葉に、嘔吐きで返事をする程に気持ち悪い。

 行き倒れ寸前の身体を引きずるように歩を進め、ようやく家の玄関に辿り着くと菜々子が驚いた様子で駆け寄ってきた。


『瑞希!? どうしたの、会社は!?』

『か、会社……や、休ん……おぇっ』

『わ、わかったっ。とりあえずトイレにっ』


 悪阻経験者である菜々子は、俺を労るようにトイレへと誘導してくれた。

 その後、便器に顔を突っ込み数十分。吐き気も大分落ち着いた。


『大丈夫? はい、お水』

『おお、ワリィな』


 コップの水を口に含み、軽く濯ぎ便器に吐き出す。口内に残存する嘔吐物の除去作業を済ませゆっくりと立ち上がる。まだ若干気分が悪いが、体調は幾分マシになったようだ。


『ホントに大丈夫? ベッドで少し寝てれば?』

『あー、うん、そうさせてもらうよ』


 リビングを通り抜け寝室へ向かう。その間も菜々子は寄り添い支えてくれていた。


『あれ、彩は?』

『ん、あれ?』


 ダイニングテーブルの横には積み木が煩雑に置かれていたが、そこにいる気配はない。

 ふと視線をソファーに移す。


『『ああっ!』』


 菜々子も同時に同じものを目撃したのだろう。探し人はそこにいた。


『すげえ……立ってる』


 彩はソファーに手をつき立ち上がっていた。表情は誇らしげに笑みを浮かべている。

 生後11ヶ月。彼女は遂に大地に立ったのだ。


『つ、掴まり立ちしてる? ね、ねえっ、掴まり立ちしてるよっ!』

『あ、ああ』

『すごいよ、彩! ねえ、瑞希!』


 悪い事が起こった後には良い事があるもんだ、と昔誰かが言っていた気がする。

 俺は気分が悪い事も忘れ、彩の方へ歩み寄った。すると、彩は俺の膝を掴もうと手を伸ばす。まだ足がついてこないのか、体勢を崩し倒れそうになったが、菜々子が抱えて無事だった。


 常日頃、自分達が何気なく行っている動作でも、生まれて間もない子供にとってみれば未知への挑戦である。

 寝返り、ハイハイ、掴り立ち。日を追うごとに増す好奇心を武器に、小さな身体を駆使して成長していく姿は感涙を押さえる事が出来ない。


 彩は生後の検査で股関節の異常が見つかった。股関節脱臼まではいかないが、一歩手前の状態。外れかかっていた。足を伸ばすと左右の長さに若干の違いが見れた。


 時として運命は酷な人生を押しつけてくる事がある。

 家庭が貧乏のどん底だったり、不治の病に侵されたり、通りすがりに刃物で切り付けられたり。

 そういった事は赤ちゃんにだって例外なく襲ってくる。

 生まれながらに脳に障害を持っていたり、手足の指が足りなかったり。

 それに比べれば、彩は五体満足で元気だし、命に別状があるわけではない。そう思っていた。医者にかかれば大丈夫と軽く考えていたのかもしれない。


 だが、菜々子はそうは思っていなかったようだ。


 彼女は様々な育児書、乳幼児の病気百科、インターネットを駆使し、彩の症状を調べ尽くした。少しでも早く、少しでも楽に治療が出来るよう、医者にかかる前から情報を集め、病院に相談する材料とした。自分の子供が苦しむ様を一分一秒でも見ているのが辛かったようだ。

 ある日、彩を抱いた菜々子にインターネットの情報を見せられた。リーメンビューゲルという股関節の矯正具のようなものを着けられた赤ちゃんの画像。装着した矯正具は赤ちゃんの股を不自然な程に広げ、足は股を中心にコの字を描いている。彩と同じような症状の子供をもつ母親のサイトだった。コメントには、矯正具を着けられた日からの日記が記されていた。異物を装着された子供は毎日ひっきりなしに泣いていたらしい。母親の苦悩の日々。

 痛々しかった。

 涙が溢れ出た。

 俺は、その赤ちゃんと彩を重ね写していた。

 彩がこんな姿で過ごさなければいけないなんて。

 彩は菜々子の腕の中で安心したように眠っていた。

 俺の中で、沸き上がるものがあった。彩の苦しい泣き顔なんてみたくない。その日は夜遅くまで菜々子と共にパソコンに向かっていた。


 菜々子の母親としての愛情の行動と医師の的確な助言。彩は入院する事も、手術する事も、ましてや矯正具を装着する事もなく完治した。

 彩は比較的軽度であった為、医者は抱き方の見直しを提案してきたのだ。いつも彩を両手で横に抱いていたのを、縦抱きに変え、その際に両足をカエルのように広げるようにした。

 抱き方を変えた2ヶ月後には彩の股関節は完全に填まっていた。



 その苦難を乗り越え、今、彩は立ち上がったのだ。

 仕事を休んでしまった罪悪感は吹き飛び、逆に悪阻に感謝さえしたくなった。


『マジかよ……すげえよ彩ぁ!』

『ホント、すごいよね。あの時はどうなるかと思ったけど……瑞希も珍しく手伝ってくれたけど』

『はぁ? お前、珍しくってなんだよ?』

『珍しくじゃん! 彩が治ったら仕事にどっぷりに戻ったし』

『だから、生活の為にはしょうが――って、やめようぜ、今日は。彩がこんなに頑張ってくれた日だしよ』

『……そうだよね。……ゴメン』

『いや、俺も』


 この日、彩は自らの足で新しい世界への道を一歩踏み出した。







 良い事が起こる前兆には悪い事が起こる場合がある。今日の俺にとっては、酷い悪阻と彩の掴まり立ちがそれに当たる。

 しかし、それとは逆に、良い事が起こると悪い事が起こったりもするものだ。


 彩が新たな成長を遂げた日の午後、それはやってきた。

 ベッドでゆっくりと休ませてもらっていた俺は、菜々子が買い物に行っている間、彩を見る為に起きてきた。リビングにあるお気に入りのソファーに深く座り、積み木で遊ぶ彩とワイドショーを交互に見ながら、平和な一時を過ごしていた。

 そこへ、インターホンの音。

 俺は首をかしげて立ち上がった。


 誰だ?


 オートロックである我がマンションは、エントランス側からの呼び出し音と、玄関側からの呼び出し音が少し違う。今のは玄関側からだった。宅配便であればエントランス側からの音だろうし、菜々子であればインターホンなど押さず勝手に入ってくるだろう。


 ああ、回覧板か。


 それなら納得。

 廊下を進み玄関に着くとシリンダー錠を捻り、なんの疑いもなくドアを開ける。


『はーい……ん?』

『む?』


 部屋の前で待っていたのは、麦わら帽子を被った体格のいい壮年。よほど暑いのか、赤を主体としたハイビスカスが賑やかに彩られたアロハシャツに、ベージュのハーフパンツ、ビーチサンダル、手には旅行カバンという出で立ち。左のこめかみには傷があり、彫りの深い眼が俺を見下ろしている。


 ……マジかよ


 玄関のドアは、外界からの最後の砦である。訪問する人間が何者であるのかを、しっかりと確認し開けるべきだ。やっちまったという深い後悔の念と、これからはしっかり確認しようという今後への決意が入り交じる。

 次の瞬間、俺はドアノブを握る手に力を込め、思い切り手前に引っぱった。

 目の前の人物に強く別れを告げながら。


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