23.哺乳瓶
『ただいま……』
玄関という狭い空間にこぼれ落ちる声。
この部屋にはそれを受け取り、返してくれる人間はいない。
毎日繰り返す当たり前の行為が、一段と虚しさを募らせる。
渚と別れた後、まっすぐ自宅に帰ってきた。
本当は、菜々子に会いにいこうと思っていた。菜々子と、そして瑞希に全て打ち明けようと。そうする事で自身が蒔いてしまった火種をボヤのうちに、摘み取ってしまおうと思っていた。渚の企みを公にする事で、菜々子と瑞希の間に入り込む隙を与えないように。それによって、私が行おうとしていた計画が彼らにしられたとしても……。
でも出来なかった。 いざ携帯電話のディスプレイに菜々子の番号を表示させた瞬間、指が固まり、発信ボタンを押す事を躊躇した。
菜々子、そして彩の為に何だってしようと決めたはずなのに、ここぞという時に行動出来ない。意気地のない自分。また自分に嘘をついてしまった。嫌気がさす。
『何なの、私って……?』
リビングにハンドバッグを無造作に放り投げ溜め息をつく。
汚い。いざという時に逃げ出す臆病者。それが自分の正体。
『最低っ――』
(そんな事ないよ)
『――!』
自分を蔑む言葉を、「彼女」の声が優しく否定する。
(そんな事ないよ。香奈ちゃんは優しい子だよ)
「彼女」の記憶が過去へ誘う。
『美咲ちゃん……』
『――そんな事ないよ。香奈ちゃんは優しい子だよ』
『ううん。私は最低な人間だよ。友達だって言っておいて、あの子がイジメられているのに助けなかった』
『でもさ、その後先生に一緒に言いに行ったんでしょ? その子も心強かったと思うよ。それに香奈ちゃん、昨日隣のおばあちゃんの荷物持ってあげたんだって? おばあちゃん喜んでたよ。香奈ちゃんは優しい子だよ』
『……うん……ありがと、美咲ちゃん』
美咲は私の三つ上の姉。いつも私を可愛がってくれた。親代わりのように……。
私の両親は、私が物心つく前に離婚していた。都会から遠く離れた田舎町。娯楽も少ないが、仕事もない。出稼ぎに出ていた父親がほかで女を作ったのが原因らしい。母が私を引き取ったが、小学校に上がる前に美咲の父親と再婚をした。
義父は私に冷たかった。血が繋がっていない、ただそれだけの理由。暴力を受けた訳ではない。特に興味がないといった感じで、私に接して来なかった。母は、一度夫に捨てられた経験から、次の旦那には媚びを売るようになっていた。夫に好かれよう、夫の言うことに従おうと。夫がやることに口を出すなんてもってのほかだ。結果、私に対する態度が冷たくなっていった。
実の親からも見放された私は、愛を欲した。その愛を私に注いでくれたのが義姉の美咲だった。
美咲はいつも自分を気に掛けてくれた。義父や母に対しても、臆する事なく私への応対を指摘してくれた。私の悩みに対しても親身になって相談にのってくれた。徐々に義父との関係が良くなり、母も優しさを取り戻し始めた頃には、私の美咲に対する感情は、姉に対するそれではなくなっていた。
美咲を好きになっていた。愛していた。別に女性しか愛せない訳ではない。そこには異性を超越した愛情があった。
『あーあ、私が男だったらなぁ。美咲ちゃんと結婚するのに……』
冗談混じりに言った事がある。勿論本心だった。女同士だとしても構わない。世間が許すのであれば……。自分としては、告白のつもりでもあった。心音が耳元で激しく鳴り響く。
『そうね。私も男だったら香奈ちゃんと結婚したいかも』
嬉しかった。今思えば冗談以外のなんでもない言葉だったが、その時の私は舞い上がってしまっていた。
美咲ちゃんも私を愛してくれている。
その半年後。
私が中学3年の時。
美咲に彼氏が出来た。
「出来た」という言葉は正確でないかもしれない。もっと昔からいたのかもしれない。ただ、私はその時に知ったのだ。
妊娠したと言う事実とともに……。
『香奈ちゃん、誰にも言わない?』
もう何日も具合の悪そうな美咲を心配し、ベッドで横になっていた彼女に声をかけた時、彼女は体を起こしながらそう言った。
『言わないよ。誰にも言わない。何かあったの?』
『実は私ね……』
彼女は全てを私に打ち明けてくれた。「妹」である私に。
『っ!?』
あまりの驚きに声が出なかった。一瞬、声の出し方を忘れてしまった。
『驚いた……よね?』
『……うん』
驚いた。
私の心を一角度から見れば、その言葉も合っていた。が、別の角度から見た私の心に渦巻いた想いは違っていた。
裏切られた。
禁断の甘い果実には毒が塗られていた。食べてはいけないと思いつつも、手を伸ばした果実。姉妹、同姓愛という棘の道の先に生った艶やかな果実。『お父さん達には私から言うから、まだ黙っておいてね』
『……うん』
部屋に戻り、一晩中泣いた。
義理と言えど生活を共にしてきた姉妹。優しい姉は私の心の中で膨らみ続け、かけがえのないものとなっていた。
いつまでも一緒にいたい。
だが、その想いは打ち砕かれた。
彼女に裏切られたのだ。そう自身に言い聞かせた。そう思うより仕方がなかった。失恋の悲しみに沈む中、自分の想いを正当化するには相手を悪者にするしか術を知らなかった。
愛が憎に代わろうとする瞬間。
その時、微かに残っていた理性が働いた。
美咲ちゃんは……悪くない。美咲ちゃんはいつでも私に愛を注いでくれていた。それは妹に対する愛情。今度は私が返す番。私が最高の愛情を……「姉へ愛情」を注ぐ番だ。
姉には幸せになってもらいたい。
若くして母となる姉。これから様々な障害が彼女を襲うだろう。その時は私が助ける番だ。
窓越しの空は白みを帯び、夜明けを告げていた。涙は枯れた。涙と共に憎しみを払拭した目には、もう新たな想いが宿っていた。
数日後、美咲は親に全てを話した。相手は同じ高校に通う同級生。妊娠2ヶ月に入っていた。父は結婚にも出産にも反対はしなかった。自分自身も理由はあったにせよ、結婚、離婚、再婚とある意味好き勝手してきた手前、子供の行為を否定は出来なかったようだ。 私は姉にささやかなプレゼントととして哺乳瓶を買った。美咲は祝福してくれる存在がいた事に安堵し、心から喜んでいた。その笑顔に、私も美咲の赤ちゃんの誕生を待ち望むようになっていった。
だが、美咲がその哺乳瓶を使うことはなかった。
状況は一変した。
美咲の性器から出血があったのだ。検診に通っていた産婦人科の医師から告げられた言葉は予想外のものだった。
『子宮頸癌です。まだ初期のものですが、お若く進行も早い為、早急な治療をお奨めします』
父は意見を覆した。医者の「出産は諦めたほうが……」という言葉を鵜呑みにしたのだ。母は父の意見に賛同。異論がでるはずもない。
美咲は私に助けを求めた。
私は…………両親の意見に賛同した。
子供はまた産めばいい。美咲は一人しかいないのだ。
でもそれは本心ではなかった。
両親と意見を違える勇気がなかった。両親から見放されていたあの頃に戻るかもしれない。そう思ってしまった。大切な人を守らなかった。その結論は彼女を失う原因となった。裏切ったのは私のほうだった。
彼女はその夜、家を出ていった。彼氏と共に夜中に町を出たらしい。
彼女の部屋には、私のあげた哺乳瓶が残されていた。
翌日、町から少し離れた山奥で彼女達は発見された。免許を取りたての彼氏が前方不注意で谷に転落したらしい。彼氏が運転していた車は大破し、運転席からは彼氏、そして車から少し離れた岩場で彼女は見つかった。
美咲は逝ってしまった。もう話しが出来ない。会えもしない。
私の元には、彼女にあげた哺乳瓶が残った。
過去から意識を戻した私の手には哺乳瓶があった。
美咲にあげた哺乳瓶。
美咲の赤ちゃんに使って欲しかった哺乳瓶。
一度だけ、この哺乳瓶を使った。菜々子が家出してきた時に、お腹を空かせ泣いていた彩の為にミルクを作り飲ませた。
……菜々子……。
高校に入学した私の前に菜々子が現れた。彼女は美咲に良く似ていた。同じクラス、間もなく友達となった。私は気になって仕方がなかった。菜々子は美咲ではない。それはわかっている……でも。
沸き起こる気持ちを押さえようと、様々な男とも付き合った。が、彼女への想いはどうしようもないほど大きくなっていった。
今その想いは変化を遂げた。そのはずだった。
哺乳瓶を握りしめながら、気持ちが整理されていくのを感じた。
私は何度おなじ過ちを繰り返すのか。本当に大切な人へ注ぐ愛情は自分本位でよい訳がない。自分の立場に左右される愛などは本当の愛ではない。
今度こそ、彼女を守らなくては。それが、最終的に裏切ってしまった美咲への、そして、菜々子への償いだ。 哺乳瓶をテーブルに置いた私は、踵を返し部屋を飛び出した。