22.心境の変化と決意
暗い寝室。
何年も前に衝動買いしたお気に入りの時計は一定のリズムで時を刻み続けている。その針は午前2時を差しているというのに、一向に眠る事が出来ない。数日前に聞いた言葉が耳朶から離れず反芻し、どうしても寝付く事が出来ないのだ。
その言葉は、あまりにも衝撃的に響いた。自分が行おうとした愚かな計画を、完全に打ち砕くほどに強く。
瑞希と菜々子の仲を引き裂く計画。
数年もの間抱え続けた菜々子への想い。
我がものとしたい欲求。
二人の結婚を境に、諦めることを余儀なくされた夢だった。
だが、人は決して万能ではない。
堅く誓い合った絆も、時の流れには逆らえない場合がある。
突然の流木に引き裂かれ、迫りくる岩肌に心を削り、激流に飲み込まれる事で、強く結んだ手を離してしまう事もある。
瑞希の仕事の多忙という流木が二人の間に滑り込んだ。
好機到来。
一度は封印した菜々子への想いが甦る。
二人が付き合い始めた時は嫉妬心の操り人形になりかけたが、愛し合う二人を見ているうちにその嫉妬もなりを潜め、結婚式では祝福さえしていた。
菜々子の愛は瑞希に向いている。それでもいい。そう自分に言い聞かせた。彼女が幸せであればそれでいい。菜々子を生涯、陰から見守っていこうと。
しかし、状況が変わってきたのだ。
菜々子は瑞希に不満を持ち始めた。やはり菜々子を幸せにするのは自分だ。二人の間に割って入るのは今しかない。
自然に、少しずつ、だが確実に別れの方向へ持っていく。
その為の伏線を引いていた。ある人物に頼み、瑞希の浮気をでっち上げた。悲しみ激怒する菜々子。
離婚へ一直線……のはずだった。
絶好のチャンスを自らの手で握り潰した。自分は二人の心の橋渡しをしてしまったのだ。
それはなぜか?
菜々子への強い想いが、ある事実を忘失させていた。二人には彩という娘がいた事を。
まだ一歳にも満たない彩。両親の別れにより、彼女はどういう人生を辿るのか、などということを考えた訳ではない。彩の、ただひたすら心地良さそうな寝顔に、自身の理性が強く刺激された。
『この子に罪はない』
自分の身勝手な行動で、この子の幸せを砕くところだった。それは、菜々子にとっての不幸でもある。
こんな事はもうやめよう。どの道自分と菜々子は結ばれる事はないのだ。
そんな矢先にあの言葉を聞いた。
『菜々子の胎内に宿った子が、瑞希の身体に移った』
そんなバカな。他人の身体から胎児が転位する。あり得ない。普段であれば、そんな事があるわけがない、バカバカしいと一蹴してしまう内容だが、瑞希が女性になってしまっていた時点であり得ない事を目にしているのは紛れもない事実であった。だが、この言葉に驚愕を覚え、心の深奥に響き渡った理由は他にあった。
もしそんな事が……あの時にそんな事が出来たなら、「彼女」は今頃……。
記憶が甦る。
あの時「彼女」に対して何もしてあげられなかった自分。
高校に入学する直前にいなくなってしまった「彼女」。
悲しみを振りほどくように、様々な人と付き合いもした。だが、ポッカリ空いた心の穴にぴたりと合う人物はいなかった。
そんな時に出会ったのが菜々子だった。
「彼女」に顔が良く似ていた。
声も似ていた。
少しおっちょこちょいな行動も似ていた。
そもそも菜々子への想いは、「彼女」へ向けた想いが変じてしまったものだ。菜々子は、いなくなってしまった「彼女」の代わりだった。「彼女」に似ている。ただそれだけの理由。悲しみを紛らわす為には、それだけで十分だった。ただ傍にいて欲しい。いつしか、その想いが愛情なのだと錯覚してしまったようだ。
彩の寝顔、そしてあの言葉は、封印していた記憶を呼び起こし、その事に気付かせてくれたのだ。
外から、雀の囀りが聞こえてくる。鳥達の歌声と共にいつの間にか夜が明けてしまっていた。
今日は、計画の協力者に報酬を支払う日だ。
彩、そしてこれから産まれるであろう瑞希達の子の幸福を壊してしまう行為に終止符を打とう。逆にあの子達の未来の為になることであれば、どんな事でもしていこう。
愚かな計画を協力させてしまった彼女にも、しっかり説明しなくては。
私は新たな決意と共に横たえた身体を起こした。待ち合わせの時間を考えると随分と早いが出掛ける支度を始めた。
『香奈さん、お待たせ』
午後2時。駅前のカフェのオープンテラス。彼女は待ち合わせの時間から1時間程遅れて到着した。
彼女の名前は蒼井渚。瑞希の会社の新入社員だ。先日、私のエステに偶然入店したのが彼女だった。聞くと、瑞希と同じ会社に就職したという。彼女の身体をマッサージしながらの会話は、私に悪意を孕ませる結果となった。彼女を利用し、瑞希の浮気を捏造するという悪意を。
『こんにちは、渚さん。随分遅かったわね? 何かあったの?』
『すみません、ちょっと……』
『あ、別にいいんだけど……。早速だけど、コレ』
私は紙袋に入れた計画報酬の30万円を渚に手渡そうとバッグより取り出した。
『あっ、その事なんですけど……いらないです、ソレ』
『え?』
『香奈さんに頼まれて瑞希先輩に近づいたんですけど……実は私……本当に瑞希先輩を愛してしまったみたいなんです』
『は? ……はぁ!?』
『なので、報酬とかいらないです。私は純粋な愛で瑞希先輩を奥さんから奪います! もらってしまったら、お金の為みたいで……そこに純粋さはなくなってしまいますもんね?』
な、何を言ってるの、この子?
『ど、どういう冗談? もういいのよ、そんな事しなくて。私が悪かったの。渚さんは自分の恋愛にしっかり生きなさい。ね?』
『だから、自分の恋愛なんですって。私、瑞希先輩を愛してしまったんです』
『な、なんでまた?』
『なんでって……その前に、飲み物買ってきていいですか?』
『え? い……いいけど……』
渚は店内に入りレジカウンターに向かった。
私はその姿を見つめながら、混乱した頭を整理する。
ど、どういう事? あの子が瑞希君を好きになるなんて。どういうつもりなのかしら? このままじゃ菜々子が……彩ちゃん達が……。
渚は飲み物のカップを片手に戻ってきた。一口含むと、先程の質問に対する答えを話しだした。
『……なぜかというと、カッコいいじゃないですかぁ。仕事も出来るし。始めは香奈さんに言われて、お金とかじゃなくて、面白そうだなってカンジで。でも今は違うんです。……だからゴメンなさい、香奈さん。ソレは受け取れないです。香奈さんとは恋敵になってしまったんですから』
『えっ?』
恋敵? ……この子、勘違いしてる?−−
渚は、「香奈が瑞希の事を好きだから、菜々子達を別れさせようとした」と思い込んでいるようだ。そういえば、協力を要請した時に、計画理由をいっていなかった。
『なので、これからはライバル……なんですが、お互い困りましたよね?』
『な、なにが?』
『何がって、今瑞希先輩は奥さんの実家にいるんですよね? 休職までしちゃうなんて。これじゃアプローチできやしない』
『き、休職?』
『あれ? 知らないんですか? 瑞希先輩が休職しちゃったから、代わりに先輩の双子のお姉さんがきたんですよ』
瑞希君が休職? 双子のお姉さん? ……ああ、そういう事。
今、瑞希は会社で正体を隠しているらしい。一先ずは渚は何もできないということだ。『まあ、とにかく今は自分に磨きをかけます。戻ってきた瑞希先輩を虜にしなければ。じゃ、帰りますね』
渚はそう言い残すと席を立ち休日の雑踏に消えていった。
とりあえず、瑞希が元に戻らなければ渚は動けない。その間に、如何にして渚に瑞希を諦めさせるのか。
私は携帯電話を取出し、電話帳の検索を始めた。