21.鉢合わせ
目の前に島谷真澄が立っている。
どうやら佐藤雪の知り合いらしく、雪の存在に気付き声を掛けてきたのだが、不覚にも振り向いてしまったのが運の尽きだった。
『あれ? 瑞穂さん?』
島谷ぃ……。
『「あれ?」じゃねえよ。なんで声掛けちゃうのかな、この人は? ありえないっつーの。よりにもよって「瑞穂さん」って。なんでその名前出しちゃうかな、この人は? 俺は今「菜々子」なんですよ? 雪さんにはその名前で自己紹介しとるんですよ。おかしいでしょ? 明らかに「菜々子」が偽名ってバレちゃうでしょ? どうしてくれるのよ? ねえ、どうしてくれちゃうの?』
突然現れ、自身を窮地に追いやってくれた島谷に、一通りの「心の声」をぶつけ終わった俺は、現状の打開策を練る為に、舌鼓ショートの糖分で回転力の上がった脳みそをフル稼働させる。
どうする?
まさかこんな所で島谷に会ってしまうとは。
俺は今、「菜々子」としてこの場所にいる。だが、職場では「瑞穂」だ。その職場の人間が、この場所に現れてしまった。
このままだと、雪には「偽名を使い検診を受けた事」がバレ、島谷には「どうしてそんな事をしたのか」等と質問責めを食らい、最悪、俺が「瑞希」である事を島谷に知られてしまう。
雪に対しては「菜々子」として、島谷に対しては「瑞穂」として接してきたが、こうなれば「菜々子」か「瑞穂」、どちらかを選び、この二人にそれが事実として認識させるしかない。
決して、俺が「瑞希」という男である事がバレるのだけは避けなくてはならない。雪に知られてしまうだけならまだいいが、島谷だけはダメだ。一歩間違えれば、「菜々子」でも「瑞穂」でも「瑞希」でもなく、男の分際で女子トイレを使った「変態」である。
この状況をなんとかしなければ……いや、なんとかするんだ…………なんとか出来る!
俺は自身に言い聞かせた。
五年の歳月を営業マンとして生きてきたのだ。様々な人種と出会い、どんな人間であろうが、その都度味方にしてきた。どんな困難な状況も、揺るがぬ精神力と強靱な忍耐力、巧みな話術で乗り越えてきた。その経験は、今この時の為にあったと言っても過言ではない、そんな気さえしてきた。
まず、「菜々子」は偽名、「瑞穂」が本名であると説明した場合はどうなるか考える。
瑞穂は瑞希の架空の姉。これは職場において、現在の俺の立場だ。
菜々子は瑞希の嫁。これは職場では知ってるヤツは知っている。
この情報から、瑞穂と菜々子は義理の姉妹ということになり、仮に瑞穂が菜々子の健康保険証を持っていても不思議ではない。
だが、なぜ「瑞穂が、義妹の菜々子の保険証で診察を受け、菜々子と名乗ったのか」を説明出来そうにない。そんな事をする理由が思い浮かばない。
では、「瑞穂」は偽名で、「菜々子」が本名とした場合はどうか?
この場合、瑞穂という人物は実在しておらず、「瑞希の代わりに配属されたのは、実は妻の菜々子だった」という事になる。
これも、なぜ「瑞希の代わりに働くのに、瑞穂という実在しない人物を作り上げ、演じる必要があったのか?」、なぜ「顔が夫のに似ているのか?」が説明出来ないが、こんなものは黙秘でなんとかなるだろう。人には言いたくない事もあるのだ。
脳をフル回転させ、打開策を考える事、僅か10秒。向かう先は決定した。
俺は「菜々子」だ。二人には、そう納得させる。
ふと、雪を見る。
彼女は顔に疑問の表情が浮かべ、島谷を見上げている。
『瑞穂さんて……真澄ちゃん、この人は蓮見菜々子さんという方よ。今日、病院で知り合ったの』
雪の言葉に、島谷は訝しそうに返答する。
『えっ? 蓮見菜々子さん? そんなはずありませんよ。この人は蓮見瑞穂さんといいまして、先週からウチの職場に来られたんですよ。それに菜々子さんって言ったら――』
『あーっ!?』
その時、またもや聞き覚えのある声がした。俺も含め3人が一斉に声の方向へ視線を送る。
『――……あの人ですよ』
そう言いながら、島谷は人差し指を声の発信元に向ける。 その先では、彩を抱いた本物の菜々子と、隼人がこちらを向いて立っていた。
『瑞希ぃ! こんな所で何してんのよ!?』
俺は、巧みな話術を披露する事なく、「変態」確定の判決を聞いた。
通常は四人掛けのテーブルに椅子を追加し、五人の男女が座っている。
産婦人科で会った佐藤雪。
職場の同僚である島谷真澄。
妻である菜々子と、それに抱かれ嬉々とした表情の彩。
そして、友人である隼人。
『……という事なんです』
俺は雪と島谷に、今までにあった出来事を全て説明した。
突然、女性の身体になってしまった事。
しかも、妊娠してしまった事。社長と部長には打ち明け、瑞穂という架空の人物として社に残してもらっている事。
医者である茂宮に言われ、診察を受ける時は菜々子の保険証で受けている事等々。
『ウソでしょ? ……ホントに蓮見君なの? 女性の身体って……信じられない……』
島谷は、否定的な言葉を吐きつつも、顔は興味津々といった表情で見つめている。
『俺だって毎日そう思ってますよ』
『そんな事より、真澄さん、お久しぶりですね?』
菜々子は俺の言葉を無視するかのように島谷に声を掛ける。
そんな事ぉ!? ……ん? 久しぶり?
『えっ? ……あ、そうね。菜々子ちゃんが寿退社して以来だから、もう四年ぶりかしらね?』
真澄さん? 菜々子ちゃん?
『あれ? 知り合い?』
『知り合いって……真澄さんは総務でアタシに仕事を教えてくれた先輩だよ?』
『そうよ、今は蓮見君と同じ営業部だけど、私元々総務部にいたの。それはそれは可愛い後輩だったのよぉ。それをどこの馬の骨ともわからない男につかまっちゃって。あの時はお姉さん悲しかったわぁ』
馬の骨……俺のことか……
『異動した部署にその結婚相手がいるなんてね。嫉妬のあまり、思わずパシリに使っちゃったわよ、アハハ』
……アハハ、じゃねーよ
『ちょっと真澄ちゃん、紹介してくれる?』雪が話に割り込む。『あ、すみません。こちら「本物の」蓮見菜々子さんです。元々ウチの社にいたんですけど、今は……』
『今は専業主婦でーす!』
……でーす、じゃねーよ。どこの合コンだよ。
『私は、佐藤雪です。真澄ちゃんは高校の部活の後輩で、菜々……じゃない、瑞希さんとはさっき病院で知り合ったの。宜しくね』
『宜しくお願いします! 雪さんて、この店よく来るんですか?』
『ううん、最近発見して、今日で――』
女性の会話は続く。
俺の摩訶不思議体験談と、隼人という存在を蚊帳の外に。
『……という事で、この事は黙っておいていただけますか』
『『なんで?』』
見事なハモリで俺の意見に反論する島谷と雪。 一通り女性陣の歓談が済んだのを見計らい、個人情報の保護を訴えた答えが店内に響く。
『こんな面白いネタをなんで黙ってられるの?』とでも言いたげである。
『なんでもクソもねぇですよ! 今後、男に戻ってからも含めて、俺が職場で生きていけるかが係ってるんですよ! 俺が仕事出来ないと、菜々子が困っちゃうでしょ!?』
『うーん、それは菜々子ちゃんが可哀想ね?』と島谷。
『私は面白ければ……』雪が重ねる。
『雪さん、あなたが一番黙ってないといけないんですよ!!? 俺が病院で不正に検診受けてる事言われちゃ困るんですよ!』
『じ、冗談よ。……それより瑞希君、声大きいわよ』
『やべ……と、とにかく、ダメですからね!』
『いいけど、一つだけ条件があるわ』
島谷は人差し指を立てながら、不敵な笑みを浮かべ口を開いた。
雪は、島谷が言わんとする事がわかったのか、顔を見合せて静かに頷く。
『な、なんすか?』
『蓮見君は元に戻る方法を探してるんでしょ? ……それを私達にも手伝わせてよ』
『はぁ?』
『大船に乗ったつもりで、ね? いいでしょ? もう調べ捲っちゃうわよぉ』と雪が腕まくりの動作を見せる。
『あ、あのう、雪さんて、真澄さんの部活の先輩って言ってましたが……何部だったんですか?』菜々子が聞くと、二人は今日二度目のハモリを披露した。
『『決まってるじゃない。新聞部よ!』』
俺は苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。