1.彼への不満
『追って……来ないわね』
電柱の陰に隠れていたアタシは、ヒョコッと首を出して来た道を確認した。瑞希の姿はない。
とりあえずは諦めたみたいね
家出をしてきたアタシは、旦那である瑞希が追って来ていないことを確認すると、安堵するとともに、少し複雑な心境になった。
『追って来ないのか……』
辺りを見回すと、見たことがあるような、ないような景色が広がっている。目の前には墓地。塀越に暗くて文字の判別もつかない塔婆がアチコチに見え気味が悪い。無我夢中で逃げてきたみたいで、どこを歩いてきたか覚えてない。
『さてと……』
何処に行こう?
勢いで家出して来ちゃったけど、我が家のあるこの町からウチの実家までは新幹線で一時間以上、そこから在来線で二時間の田舎町だ。今から向かっても時間的に辿り着けないし、お金もあまり持ってない。尚且つ、その問題が解決出来たとしても、最大の難関が待っている。父親という巨大な壁が。
『家出したって言って、あの親父が黙って入れてくれるわけないよなぁ……。彩ぁ、どうしようかぁ?』
彩は既に泣き止み、アタシの腕の中で静かに寝息をたてている。可愛い寝顔だ。
『こんなに可愛い……のに、あの男は…………いつも……いつもいつもいつもいつも飲み歩きやがってぇ!』
瑞希に対する底知れぬ怒りが込み上がる。
『ふぇっ……』
あーっ、マズイッ! おー、よしよし…………危ない危ない、興奮し過ぎて起こすトコだった。とりあえず、何処か落ち着ける場所に行かないと。
『……やっぱり香奈んトコ……かなぁ? ……ん? シャレじゃあないよ』
まだ赤ん坊の彩に、意味のない弁解をしつつ携帯電話を取り出す。
右腕に彩を抱き、左手で携帯電話を操作し香奈の番号を検索する。もうすぐ十一ヶ月の彩は片腕抱きでは結構重い。長時間の電話は命取りだ。
『これは短期決戦ね』
アタシは、独り言を呟きながら香奈の番号に発信し、携帯を耳に当てた。聞きなれた電子音が鼓膜を叩く。
1回……2回……3回……
コール回数を数えること十数回。
とっくに限界を超え、半ば諦めかけたその時。
(もしもし菜々子? どうしたの?)
『やっとでたぁ。……ごめん、今晩泊めて』
(えっ? いきなり!? 今日?)
『男……紹介するから』
(えっ!? 男?! い、いいよ……あっ、でもちょっと片付けるから15分後に来て!)
『うん、ありがと。ごめんね』
任務完了。
通話時間20秒。
男に飢え過ぎだよ、香奈。てゆーか、電話早く出ろ。腕がヤバかった。……いや、悪いのはアタシか。嘘つきのアタシを許して。
香奈は決してモテないわけじゃない。ルックスもいいし、高校時代は、色んな男と付き合っていた。だけど、長続きがしないのだ。必ず最後は香奈が振られる。あのがっつく性格が原因だろう。可愛い顔してるんだから、もう少し控えめにしてればいいのに。まあ、おかげでアタシは宿が見つかったワケだけど。
『とにかく行こうか、彩』
彩は変わらず寝息をたてている。
でも、ここどこ? 何か来たことあるような気がするけど…………ああ、そうか。ここは……。
アタシは薄い記憶を頼り歩きだした。
目の前の墓地をくるりと反対側まで歩いたところに寺の入り口があった。門は既に閉まってる。門の上部には薄汚い分厚い木の板が掛かってあり、そこには「観恩寺」と書いてある。
あー、やっぱりココだ。歩いて来たことなかったからわからなかった。てことは……あっ、あったあった。
門の左手には地蔵が何体かあり、その片隅にかなりでかい石が置いてあった。高さは160センチ位ありアタシの背と大体同じ位だ。
『コレコレ、懐かしい』
大きな石のそばには小さな看板が立ててある。
「妊婦石」
『彩ぁ、この石に触るとね、赤ちゃんが出来るの。アタシはなかなか出来なくて、何度も触りに来たんだよ。それからしばらくしてあなたが産まれた。……まぁ、偶然だと思うけどね』
無意識に石を撫でながら、昔に想いを巡らす。記憶の引き出しから5年前の瑞希が顔を出す。
アタシと瑞希は同じ会社の新人研修で知り合った。顔は女の子っぽかったけれど、話してみると結構男らしくて同期の女の子からは人気があった。アタシの事を好いてくれて、いつの間にか付き合いだしていた。
あの頃は楽しかったなぁ。就職したばかりで忙しかったけど、一緒に遊びに行ったり、旅行にも行ったり……。
楽しかった日々が頭の中を駆け回る。
あの頃は優しかったなぁ。……いつからあんな風になったんだろ? 子供がなかなか出来なかった時もココまで一緒に来てくれたのに……。
いつからか瑞希は口癖のように忙しいと言い、帰りが遅くなっていった。出産の時も病院には来ず、彩を初めて抱いたのは産後2日目の事だった。
……あの野郎ぉ、彩が可愛くないのか?! 妊娠出産の苦労も知らないで、なにが『連れ回したら可哀想』だ! くっそ〜っ! アイツにもあの苦労を味わせてやりたいっ!
憤りが腹の底から込み上げてくる。夜中に寺の前で叫びだすところを寸でのところで押さえ込んだ。
『ふ〜っ。深呼吸、深呼吸。…………そろそろ行こうか、彩?』
石から手を離したアタシは、彩を抱き直し、香奈の家に向かって歩きだした。