18.女性の戦場
暗く沈んだ人々がひしめく空間に春の陽光が差し込む。
そのキラキラと輝く細かな粒子は、一人ひとりの状況により異なるものの、その場にいる者達の沈んだ気持ちを浄化する役目を、多かれ少なかれしっかりと果たしていた。
茂宮総合病院。
造り自体は古いが、総合受付のあるロビーは、周辺に大きな建物がない為に遮断される事なく注ぎ込む太陽の光を取り込み、室内の明るさが保たれ居心地の良ささえ感じる。
床や窓、壁の清掃を始め、観葉植物などの手入れもしっかりとゆきとどき、院内は清潔感に溢れている。
それに加え看護士達の笑顔や献身的な看護は、病気という目に見えない鎖を優しく解いてくれるような安心感を与えてくれる。
俗に言う「名医がいる病院」というだけで人気があるわけではないようだ。
でも、俺の心はそう簡単に救えないけどね。
俺はそんなことをぼんやりと考えながら、自分の名前を呼ばれるのを待っていた。
といっても呼ばれるのは偽名だが。
財布から健康保険証を取出し氏名欄に表示されている自身の名を確認した瞬間、受付が待ち望んでいた名前を呼ぶ。
『蓮見さーん。蓮見菜々子さーん』
『はぁい』
俺は健康保険証を財布にしまい、窓口に向かう為ゆっくりと立ち上がった。
初検診から一週間。
二度目の検診に来いと茂宮から要請があった為、嫌々ながら来院した。茂宮からは、その際は菜々子の健康保険証で診察を受けろと言われたのだ。何故なのかはさっぱりわからんが、取り敢えず医者である彼の言うとおりにしようと、菜々子に借りてきた。
受付に行くと、問診票と、提出していた菜々子の健康保険証が入ったクリアファイルを渡され、茂宮のいる産婦人科に向かうよう促された。
確か、3階だったな。
茂宮のいる産婦人科に着いた俺は、受付にクリアファイルを提出する。待ち合い用のソファーを見ると、かなりお腹が大きくなった20代半ばの女性と、そんなにお腹が目立たない同い年くらいの女性が話していた。多分旦那であろう男性がお互いの隣に座っている。
ソファーは他にも4脚程あったが、全て妊婦さんやら付き添いの旦那や子供が座っていて空いてるスペースはなかった。
普段は電車やバスに乗ったり、病院の待ち合いの場においても、あまり座ったりはしないのだが、女性になったのが原因か、はたまた妊娠が原因かはわからないが、身体が疲れやすい。
しかし、座るスペースはない為、傍らにある階段に腰掛けようとした時、先程から隣の女性と会話をしていたお腹の大きい妊婦が声を掛けてきた。
『ねえ、あなた、ココ座って。……ほら、アンタ邪魔よ! 男は立ちなさい!』
その女性は、隣にいた自分の旦那であろう人物をソファーから押し出し、俺に空いたスペースに座るよう促した。
うわ、可哀想。それはチョット座りにくいですよ。
『あ、大丈夫です。私はココに座りますか――』
『良くないでしょ! ……そんな冷たい地べたに座ったら身体冷えちゃうわよ! お腹の赤ちゃんが可哀想でしょ?』
『そうですよ。すみません気が利かなくて。どうぞ』
強引に立たされた旦那まで着席を促す。
座らない……ワケにはいかないか。
周りの付き添い男性達も、その光景を見て一斉に立ちだす。 い、いや、そんなに空席必要ないから……。
なんか悪いことしたなぁ、と思いながら、とりあえず先に空けてもらったスペースに座ると、先程のお腹の大きい妊婦が話し掛けてきた。
『ホント、気が利かないよね男って。私、佐藤雪っていうの。宜しくね』
『あ、私は蓮見……菜々子と言います。なんかすみません。旦那さんに悪いことしちゃいましたね』
『旦那? 誰が?』
『えっ? 今席を譲ってくれた……えっ? ええっ?』
『さっきの私の旦那じゃないわよ。赤の他人』
『あ、そ、そうなんですか』
赤の他人にしてはすごいプレッシャーかけてましたよ。
その席を譲ってくれた人物を探すと、斜め向かいに座っている妊婦の傍に立ち何やら話している。多分彼女の旦那だったのだろう。ふとその妊婦と目が合い有難うの意を込めて会釈すると、彼女が話し掛けてきた。
『すみません、ホントにウチの旦那ったら気が利かなくて』
『いえ、とんでもない。有難うございます』
30過ぎ位か。とても落ち着いた雰囲気を纏ったその妊婦は、笑みを浮かべ首を横に振った。
『お礼なんていいんですよ。ここは女性が子供を産むための場所だし、その準備を整える場所。平たく言っちゃえば女性の戦場ですよね? 今から戦う女性を差し置いて男が我が物顔で座っていられちゃ迷惑だって、今旦那に言ってたところなんですよ。ゴメンなさいね、私も気が利かなくて……』
そう言うと、旦那を席から追い出した雪に顔を向け微笑みを浮かべた。隣を見ると雪も軽く会釈し微笑みを返していた。
『……てワケで、この病院に来たの。ここは、どの先生に当たっても名医だって聞いてたけど、本当に良い先生揃いよ』
『そうなんですか……』
しかし、スゴい喋るな、この人……。
さっきまで隣で話をしていた妊婦は先に検診を終え帰ってしまった。
彼女はずっとこの集中口撃に耐えていたのだ。思い出してみると、彼女も苦笑いを浮かべていたような気がする。『それでね、その時、先生なんて言ったと思う?!』
『んー、なんて言ったのかなぁ――』
『佐藤さーん、佐藤雪さーん2番にお入り下さーい』
『――あ、呼ばれてますね。』
『あ、ホントだ。じゃ、またね。……はーい』
俺がここに着いてかれこれ一時間半は経過していた。あの様子だと、それ以前も相当喋り倒していたはず。雪はその疲れを微塵も見せる事なく意気揚々と、2番のプレートが掲げられたドアの向こうに消えていった。