13.クビですか?
『あのっ、すみません!、河西部長!』急ぎ足の部長を、ビルに入る寸でのところで呼び止める。
『なんですかぁ? んんっ?』部長は振り向くと驚きの表情を浮かべた。
『あれぇ? 蓮見君……ですよねぇ? どうしたのその格好ぉ?』
うおっ、バレてる!?
『な、なんでわかるんですか?!』
『なんでってぇ、去年の忘年会で皆によってたかって女装させられた時と同じような格好してるからぁ。で、なんでそんな格好してるのぉ?』
『いや、コレには深い事情がありまして! ここじゃアレですので、場所を移しましょう!』
『えっ!? あ、ちょっと! 仕事どうするのぉ!?』
俺は部長の腕を掴み、会社から差程離れていない場所にある喫茶店目指して走りだした。
『――というわけで、僕は今、完全に女でして……』
喫茶店に着いた俺は、とりあえずここ3日間であった事を説明し、部長の反応を伺った。
実際に自身で体験した事とはいえ、第三者に説明しているうちに自分でも可笑しな話だと改めて思った。明らかに非現実的だ。信用しろと言っても、『ふーん、そうなんだぁ』などと納得するわけがない。
俺は別に今の会社に執着があるわけではないが、今、職を失うわけにはいかない。ただでさえ家族を養わなければならないのに、出産するにしろ中絶するにしろ金が必要になるのだ。
菜々子は働きに出させない。本人はいざとなれば働くと言いそうだが、それは俺の男としてのプライドが許さない。身体は女になったが、心は男のままだ。絶対にそんな事させたくない。させたくないが、会社からしてみれば、そんな事関係ないだろう。今まで営業として雇っていた男がいきなり女になったなんて言われても、「馬鹿かお前は!?」って話だ。仮に女になった事を受け入れたとしても、会社としてはそんなワケのわからん奴を営業として取引先に向わせる事なんて出来ないだろう。
……終わった。クビだ。次の仕事探すのはいいが、この不景気に現状と同等の待遇は期待できないだろう。
『ふーん、そうなんだぁ。』
くっそぉ、どーすっかなぁ? …………へっ!?――
『大変だねえ? 体調は大丈夫なのぉ?』部長はのほほんとした口調で問いかけミルクティーを啜った。
『え? ええ、まあ……』
『でも良かったねぇ。おめでとう。女性でもなかなか子宝に恵まれない方も多いもんねぇ』
『そ、そうですね』
……な、なんだ? なんで驚きもしないで……?
『ぶ、部長……驚かないんですね?』
『え〜? 驚いてるよぉ。驚いてないように見えるぅ?』
『全力で見えますね』
『う〜ん、まあ、こういうの慣れてるからねぇ。小さい頃から色々見てるしぃ。』
『い、色々見てるって、何をですか?』
『ん〜? そんなの決まってるじゃな〜い……幽霊とかだよぉ』部長の口からはほのぼのとした笑顔とは無縁の内容が返ってきた。
『ゆ、幽霊!?』
決まってねえだろ……。
『うん。だから、ちょっとの事じゃあまり驚かないよぉ。でも今回はさすがに驚いたなぁ。大変だねぇ。応援してるからねぇ。何かあったら相談乗るからいつでも言ってねぇ?』
そうだった。この人はこういう人だった。昔、社の商品に欠陥があってクレームの嵐だった時も、全く動じないで的確な指示を出しつつ先頭に立ってクレーム電話の対応までやっていた。ニコニコしながら……。会社で火災騒動があった時も、皆が慌てふためいている中で、非難経路の確保とか冷静にやってたな。やっぱりニコニコしながら……。この話し方さえなければ最強の人物なのだが。
『で、でも俺、クビなんじゃ……?』
『クビ? 社長に言われたのぉ?』
『いえ、まだ社長には何も報告してません……』
『ふーん、でも多分大丈夫だよぉ。だって蓮見君、取引先の人達に受けがいいしぃ、ウチの社長のお気に入りじゃない』
お気に入り? そうなのか? 確かに社長に良く飲みに誘われるが……
『も、もしそうだとしても、こんな格好で取引先には行けないですよ。説明したって理解してくれるかどうか……。』
『じゃ、内勤でもすればいいんじゃない〜? それか社長秘書とかぁ。とにかく、クビにはならないと思うよぉ。キミは今後我が社になくてはならない存在だからねぇ。後で社長に報告しに行こうよ』相変わらずのほほんとした雰囲気で答える部長。
『じゃあ、そろそろ行こうかぁ? もう行かないと遅刻しちゃうよぉ』
『あっ、はい』
部長と共に店を出た。部長にだけだが現状をカミングアウトする事で少しは気が楽になった。だが、まだ何も解決していない。
部長は大丈夫だと言っているが、ホントに大丈夫なのか?
『ふーん、そうなんだ。大変だったね』社長は、そうかそうか、と言いながら蓄えた口髭を大事そうに指で撫でている。
『しゃ、社長も驚かないんですか?』
ふーんって……。
『ん? 驚いとるよ。だが、河西君がキミの事を蓮見君だと言っとるんだからそうなのだろう? 顔もソックリさんだしな』
『いや、だって男が女になったって……しかも妊娠ですよ?!』
『そんな事もあるんじゃないか? 人生長く生きていれば一回位』
ないでしょ、普通……しかもそんなに長く生きてねぇし……。
『科学では証明出来ないものなんていくらでもあるものだよ。で、蓮見君の担当してた所はどうする?』
『その事ですがぁ、安藤君に任せようと思っておりますぅ。』
『ああ、じゃあ蓮見君は安藤君の補佐をしてあげてくれ』
『あ、あの? ……クビじゃないんですか?』
『クビ? なんで? キミ、辞めたいの?』
『いえっ、とんでもない!』
『ならいいじゃない。キミは元に戻るまで内勤ね』
『は、はい! 宜しくお願い致します!』
…………んっ?!
『ん? どうした?』
『あっ、すみません……ちょっと気分が悪くて……』
『ああ、悪阻かい? いいよ行きなさい』
『蓮見君、後で僕のディスク来てねぇ? 皆に紹介するからぁ』
『ふ、ふぁい……うっぷ……失礼しますっ』
俺は急いで社長室を飛び出し、喉まで出かかっている物質の始末をする為、トイレへ向かって駆け出した。
社長室を飛び出し一目散にトイレに駆け込む。中には洋式トイレのドアが2つ。両方空いてる。すかさず一つのドアに飛び込み鍵をかける。清掃員のオバチャンがキレイに掃除してくれた後なのか、便器は電灯の光を反射させ輝いている。
『お、おうぇぇ!』
みるみる内に便器は、その輝きを失ってゆく。それと反比例するように、俺の吐き気は少しずつ治まってきた。吐いたのなんて何年ぶりだろうか。俺は汚物で汚れた便器の水を流した。
ドアを開け、トイレの洗面台を見ると、いつの間にか入ってきたのか、一人の男が髪をセットしていた。今にも鼻歌を歌いだしそうな陽気な後ろ姿で髪をセットし続けるその男の名は安藤遊人。俺が働く営業部の後輩だ。合コンが三度のメシより好きな、名前負けしない遊び人だ。河西部長が、俺の仕事の引継ぎ対象に選んだのがコイツだ。多分、仕事より合コン命のコイツを少しでも成長させるようにと選出したのだろうが、コイツに引継ぐのはあまり気が進まない。
取引先に迷惑をかけなければいいけど、などと思いながら隣の洗面台で手を洗う。
『あ、おはようござっ……!?』
『あー、おはよう……ん?』
安藤は挨拶を返す俺をしきりに見つめてくる。 ん? なんだ? 気持ち悪りいな……。
ふと、視線を正面に戻すと、見つめてくる理由を唐突に理解した。
『ち、痴女だぁぁ!』
男子トイレに誤解を含んだ安藤の声が響き渡った。